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Fri, 06 February 2026

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ケンブリッジ・ファイブの二律背反

ケンブリッジ・ファイブの二律背反

誰が味方で誰が敵なのか――権謀術数渦巻く20世紀半ばに暗躍した
4人の英国人スパイたち。
彼らの正体が明らかになったとき、英国内が大いに揺れたのは、
彼らの生まれ育った背景にあった。
裕福な家庭の出身で、名門パブリック・スクールを経て
ケンブリッジ大学を卒業した同窓生たち。
そんな彼らがなぜ、ソビエト連邦のスパイに自らの人生を捧げたのか。
英国の現在にもつながる当時の時代背景を知ることで、その理由をたどってみたい。

1930年代のエリート学生が見た現実

1956年2月11日。ソ連・モスクワのホテルの一室で、ジャーナリストたちを出迎える2人の男性の姿があった。ドナルド・マクリーンとガイ・バージェス。1951年に英国から突如姿を消し、メディアを騒がせた外交官2人が、5年の年月を経てついに公に姿を現わした瞬間だった。ジャーナリストに手渡された共同声明文には、自分たちがスパイではないと主張する一方で、ソ連に対する共感を示し、イングランドを去ってソ連に来たのは、「ロシアにのみ、自らの信念を何らかの形で実現する機会がある」と信じたからだと訴える言葉。これが後に「ケンブリッジ・ファイブ*」と呼ばれることになるケンブリッジ大学を卒業したスパイたちの全貌があぶり出される序曲となる。

ドナルド・マクリーン、ガイ・バージェス、キム・フィルビー、アンソニー・ブラント。第二次大戦から冷戦期にかけて、ソ連のスパイとして活動していた英国人4人に共通していたのは、いずれも中流階級以上の恵まれた環境に育ち、同時期に英国最高峰の大学、ケンブリッジ大学で学び、MI5(保安局)やMI6(秘密情報部)、外務省といった情報・外交当局の中枢で活躍した生粋のエリートたちであるという点だった。本来ならば国を背負って立つはずの彼らがなぜ、よりにもよって共産主義国家のソ連に機密情報を渡していたのだろうか。

Tinity College
1932年、ロンドンのトラファルガー広場に集まる
ハンガー・マーチ参加者たち

英国全土を覆った不況の影

この謎を解き明かす一つのキーワードが「不況」だ。1929年10月には米ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。世に言う世界恐慌が始まった。英国にも不況の嵐が吹き荒れ、一時は300万人近くの失業者が出たとされる。国内各地で失業者や低所得家庭出身者たちを中心にハンガー・マーチ(飢餓行進)が行われ、ケンブリッジでもその姿を見ることがあったという。裕福な家庭に生まれ育ったケンブリッジ大学の学生たちにとっては、貧困を肌で感じ、資本主義の崩壊を予測させる衝撃的な光景だったのかもしれない。

労働党の「裏切り」

1929年、英国で行われた総選挙で労働党が初めて第一党となり、同党による単独政権が誕生した。しかし緊縮財政を敷いたことなどから1931年に内閣は分裂・崩壊。その後、首相のマクドナルドは保守党、自由党とともに挙国一致内閣を発足させた。こうした労働党本来の主義・思想から離れた動きは、理想に燃える左派の若者の目には、「裏切り」とも映った。若いころから「強く、裕福で、傲慢な人々に比べ、弱く、貧しく、恵まれない人々に対して深い精神的つながりを感じていた」というフィルビーは、労働党の社会主義に対する「裏切り」が、労働党に代わる存在、すなわち共産主義へと自らを導いたと語っている。

ファシズムに対抗する唯一の手段

アドルフ・ヒトラーとニート・ムッソリーニ
左)ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラー
右)イタリア・国家ファシスト党のベニート・
ムッソリーニ

1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を獲得。イタリアでは国家ファシスト党のベニート・ムッソリーニが独裁体制を確立していた。英国でも1932年に結成された英国ファシスト連合が保護貿易主義などを謳い失業者や労働者にアピール。党員には貴族や軍人なども多かった。また、着々と領土拡大を進めていたナチス・ドイツに対し、英国政府は戦争回避のために宥和政策(ゆうわ)をとり続けていた。こうした流れに対し、当時の高学歴の若者たちの間には、ファシズムに対抗できる唯一の手段として共産主義を信奉する者が多かったという。ブラントは晩年、「1930年代半ばには自身も同世代の多くの若者たちも共産党とロシアだけがファシズムに対抗する確固たる防波堤に見えた」とし、スパイになった理由を「国への忠誠」か「政治的良心」のうち、「良心を選択した」結果だと主張した。

システムの主軸から外れた指向

1930年代、同性愛は罪とされていた時代にあって、パブリック・スクールや名門大学では同性愛が「公然の秘密」として存在していた。公になれば身の破滅、しかし表立って分からなければ問題がない。そして卒業すれば今度は同性愛者を取り締まる側になる――そんな欺瞞とも偽善とも言える状況があった。ケンブリッジ・ファイブ4人のうち、バージェスとブラントは同性愛者、そしてマクリーンは両性愛者だったと言われている。その性的指向が実際にどの程度彼らの決断を左右したかは定かではないが、真実の姿を隠して生きていくという生活を強いられていたのは確かだろう。また、フィルビーは幼いころから無神論者で祖母を嘆かせ、早い段階から社会的弱者への共感を高めていたとされる。望むと望まざるとにかかわらず、彼らは支配階級にいながらしてシステムの主流からは一歩外れた場所に生きた人間だったと言えるのかもしれない。

Tinity College
ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジ

当時、ソ連の情報機関・秘密警察であるソ連国家保安委員会(KGB)は、将来、英国を動かすことになる才能豊かな若者を英国内の名門大学で「青田買い」することに注力していた。多感な大学生時代に共産主義やソ連への共感を強めていた4人は、恰好の漂的となったことだろう。

大学という象牙の塔を出て、第二次大戦、冷戦という激動のときをスパイという立場で生きた彼らの信念は、現実を目の当たりにして揺らぐことはなかったのだろうか。第二次大戦では英・ソはともに連合国側であったことから、国を裏切るというよりも、自らの信じる道を突き進んだという意識の方が強かったのかもしれない。しかしその一方で、当時のKGBの記録には、KGBが彼ら4人を英国のスパイなのではないかと疑い、その素性を明らかにしようとやっきになっていた様子が記載されている。家族や友人、同僚を欺き、仲間からは疑われる日々。そして1951年にマクリーンがスパイであることを英当局に感づかれ始めたことから連鎖的に4人の正体が明かされていき、ブラント以外の3人はソ連へと亡命。ブラントは英国内で衆目にさらされることとなる。

ソ連にわたった3人は、その後の人生を彼の地で過ごした。「生まれ変わってももう一度同じ人生を送る」とうそぶく者がいれば、「人生の最大の間違い」とスパイとしての生き方を悔いた者もいたという。欺瞞に満ちた半生を送った彼らの心の奥底に最後に残ったものが何なのか、公になった様々な言葉や証拠も、その真実を明かしてはくれない。ただ、時代の波が青い理想に燃える若者たちをスパイの道へと進む後押しをしたとは言えるのではないだろうか。そして、不況、政権への不信、極右の台頭と時代は繰り返し、冷戦は終わりこそすれ世界各地でテロリズムが跋扈(ばっこ)する現在、彼らの歩んだ人生は、遠い昔に起こった別世界の物語であるとは言い切れないのだ。

*ケンブリッジ・ファイブと呼ばれているが、5人目については公に認められておらず、数人の名が挙がっている


ケンブリッジ・ファイブ
重なり合い、離れゆくそれぞれの人生


ドナルド・マクリーンソ連になじんだ外務省エリート
ドナルド・マクリーン

Donald Duart Maclean
1913-1983


大物政治家の息子として生まれ、大学卒業後は外務省に勤務。スパイとして活動しているうちに精神的に追い詰められていったものの、ソ連に亡命後には同地になじみ、英国外交の専門家として活躍した。

1913年、ロンドン生まれ。父親は自由党の政治家で影の首相を務め、マクドナルド挙国一致内閣でも活躍したドナルド・マクリーン。リベラルで進取の精神にあふれた学校として知られたグレシャムズ・スクールを経て、1931年にケンブリッジ大学のトリニティー・ホールへ入学、専攻は現代語。最終学年のとき、アンソニー・ブラントによりソ連の諜報部に勧誘されたと言われる。

卒業後は外務省へ。ソ連側のスパイ管理者の女性と恋愛関係に陥り、数年にわたり関係を続けたが、1940年には裕福な米国人女性メリンダ・マーリングと結婚。スパイの中には家族にもその真相を明かさない者も多いが、メリンダは共産主義者との親交もあり、マクリーンは自身の立場を伝えていたという。

1938年、在仏英大使館書記官に。その後ロンドン勤務を経て、1944年から48年まで在米英大使館の一等書記官として働く。後半には原子力爆弾開発計画に関する英米の合同政策委員会に所属し、原爆関連の情報をソ連に流していたと言われている。その後は在エジプト英大使館参事官に任命されたが、このころから飲酒量が増え、精神的にも不安定な部分が見られるようになったという。

1951年、外務省米国課長としてロンドンに滞在しているときに、スパイ容疑者の一人として名が挙がる。機密文書へのアクセスも禁じられる中、同年5月25日、38歳の誕生日当日に、バージェスや家族と食事をした後、バージェスとともにサウサンプトンからパリ経由でソ連へ向かった。当局の尋問が予定されていた実に3日前のことだった。

ソ連ではロシア語を学び、西側諸国の経済政策及び英国外交の専門家として活躍、ソ連外務省や世界経済・国際関係研究所などに勤務した。労働赤旗勲章及び戦闘勲章を受勲し、ソ連共産党にも入党する。

妻のメリンダと子供たちはマクリーンの亡命後1年以上経った後にソ連へやって来たが、1964年、メリンダとフィルビーの不倫が発覚。その後、フィルビーは妻と離婚したものの、メリンダは2年後にマクリーンの元に戻る。1983年に心臓発作で死去した。


ガイ・バージェス最もスパイらしくないスパイ
ガイ・バージェス

Guy Francis de Moncy Burgess
1911–1963


友をして「うるさく、飲んだくれでだらしがなく、人の注目を集めるのが大好き」と言わしめたガイ・バージェスは、「最もスパイらしくないスパイ」と言われた異色の人物だ。派手な交友関係を持ち社交的だったバージェスは、それゆえにソ連での亡命生活にはなじめず、故郷を懐かしんでいたという。

イングランド南西部デボン出身。海軍将校を父に持つバージェスは、イートン・カレッジを経てダートマスの海軍兵学校に通っていたものの退学。その後ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに進み、近代史を学んだ。在学中は、ブラントとともに同大のエリート・グループ「ピット・クラブ」及び秘密結社「アポスルズ(使徒会)」*下記参照)のメンバーとして活動していた。

スパイになったタイミングと経緯については他メンバー同様、いくつかの説があるが、1934年ごろにはナチス寄りの立場をとる団体に加入していたことなどから、このころには隠れ蓑として右翼活動に従事しつつ、スパイとして活躍していたのではないかとみられる。

大学卒業後は保守党議員のアシスタントとして働いた後にBBCに入社。その後、MI6の秘密工作活動を専門とするセクションDに勧誘され、プロパガンダ専門家として働くも、間もなくBBCへ戻り、ラジオ・プロデューサーとして政治ラジオ番組など様々な番組を制作。このころ、政府要人との知己を得た。

ロンドンでは、戦時中、ボヘミアンの拠点の一つとして知られたロスチャイルド卿所有のフラットでブラントやテレサ・メイヤー(後のロスチャイルド卿の妻)と同居していたことも。バージェスとブラントがともに同性愛者だったこともあり、2人が一時恋愛関係にあったとする向きもあるが、ブラントはその噂を否定している。

1944年には外務省の情報部に所属。翌年には同省の外交担当大臣のアシスタントとして働くようになった。同省極東局に勤務した後、二等書記官としてフィルビーが勤務する在米英大使館へ。ワシントンではフィルビーと同じフラットに同居していた。1951年5月、スパイ容疑がかかっていたマクリーンをソ連に亡命させるため、3回の交通違反を意図的に行い、英国に送還された上でマクリーンに会い亡命計画を伝達。バージェス自身に疑惑がかけられていたわけではなく、当初亡命するのはマクリーンのみの予定だったが、ソ連側に指示されてともにソ連へわたったとされる。

派手な生活を好んでいたバージェスは、ソ連でも英国風の生活を続けた。ロンドンから家具を運ばせ、オーダーメイド紳士服店の集まるサヴィル・ロウのスーツを注文していたという。ホームシックにかかり、飲酒癖はさらに悪化。英国の代表団がモスクワを訪れた際には、母の死に目に遭いたいと英国への帰国を願い出たがかなわず、52歳で死去。遺体はイングランド南部ハンプシャーにある母親の墓に入れられた。


キム・フィルビーMI6長官候補にまでなった野心家
キム・フィルビー

Harold Adrian Russell (Kim) Philby
1912–1988


ソ連のスパイでありながら英国諜報機関のトップであるMI6の長官候補にまで上り詰めたキム・フィルビー。自らの正義を貫くために独裁者のそばで働くことも厭わなかった強い信念の持ち主は、一方で4度の結婚を経験し、友でありスパイ仲間であるドナルド・マクリーンの妻とも関係を持つ恋多き男でもあった。

1912年、英国領インド帝国のアンバラ生まれ。父のセント・ジョン・フィルビーはイスラム教に改宗した高名な作家にしてインド高等文官で、サウジアラビア国王の側近としても活躍した人物。名門ウェストミンスター・スクールを卒業後、1929年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学し、歴史及び経済学を専攻。在学中に同地で行われたハンガー・マーチに参加するなど政治活動に熱心だったという。

卒業後、オーストリアでナチス・ドイツからの亡命者の救援活動を行っていたときにユダヤ系の共産党員リッツィー・フリードマンと出会い、結婚。ファシズムの台頭により、数カ月後にはリッツィーを連れて帰国した。一説によるとフィルビーは、ロンドン在住のリッツィーの友人であったソ連の諜報員経由でスパイになったとされる。

1937年にはジャーナリストとして内戦まっただ中のスペインへ。やがて「タイムズ」紙の記者となり独裁者フランコ寄りの記事を執筆するようになる。1940年にバージェスが所属していたMI6のセクションDで働き始めたフィルビーは、1944年、対諜報部門セクションVのトップにまで上り詰めた。

1949年には在米英大使館に一等書記官として赴任。MI6と米中央情報局(CIA)の渉外担当責任者としても活動した。翌年にはバージェスが同大使館での勤務を開始し、フィルビー宅に同居するように。大酒を飲み、素行に問題のあったバージェスを監視する意味合いもあったと言われている。着々とMI6内での足場を固め、末は長官候補とも目されていたフィルビーだったが、マクリーンにスパイ容疑がかかっていることを知り、バージェスとともにマクリーンをソ連に亡命させたころからその人生に綻びが生じ始める。

自らもスパイ容疑をかけられたフィルビーは、解雇される前にMI6を去り、1956年にはジャーナリストとしてレバノンへ。しかし1961年、米国に亡命した元KGBにより身元を暴露され、1963年1月、ソ連へ亡命した。

ソ連では当初、フィルビーが英国に戻ることを恐れた当局により軟禁状態に置かれたが、10年後からはKGBで勤務するように。ソ連政府から数々の勲章を受けた。同地でも「タイムズ」紙を読み、BBC放送を聞き、クリケットを愛し続けたフィルビーは、晩年に行われたインタビューでは自分の決断を後悔してはいないと語ったが、当時のロシア人の妻は後に、彼がモスクワで「色々な点に失望していた」ことを明かしている。1988年に心不全で死去。


アンソニー・ブラント王室と深くかかわった美術史家
アンソニー・ブラント

Anthony Frederick Blunt
1907–1983


パブリック・スクールのころからエリート・グループの一員になるなど才気の片鱗を垣間見せ、英王室とも深いかかわりを持っていたアンソニー・ブラント。他の3人と異なり、仲間の名を明かして身を守り、英国に留まり続けたブラントは、偽りの人生を生きるスパイの中でもその真情が見えにくい人物である。

イングランド南部ハンプシャー出身。父は教区牧師。母はエリザベス女王の母、クイーン・マザー(エリザベス・ボーズ=ライアン)の親戚筋に当たり、幼いころはロンドンのボーズ=ライアン家でお茶を楽しむなどしていたという。名門マルボロー・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティー・カレッジへ入学(現代語専攻)。在学中はバージェスとともに「ピット・クラブ」「アポスルズ」に所属していた。卒業後も特別研究員として同大学に留まり、KGBのスカウトマンとして何人もの学生をスパイに勧誘したとされる。ブラントがスパイとなった経緯については、同大の特別研究員としてソ連を訪ねたことがきっかけで勧誘されたとする説もあるが、ブラント自身はバージェスに誘われたと語っている。

1939年、英国陸軍の諜報部隊で活動した後、1940年にはMI5に勧誘される。MI5では解読されたナチス・ドイツ軍のエニグマ暗号文の情報をソ連側に渡すなどしていたという。

1945年にジョージ6世の絵画鑑定士となり、同国王崩御後はエリザベス女王の元でも活動を続け、27年にわたり同職に留まった。1947年にはロンドン大学美術史教授及びコートールド・インスティテュート・オブ・アートのディレクターになり、美術史家としての地位を確固たるものにした。

1951年にマクリーンとバージェスがソ連に亡命すると、親交のあったブラントもスパイとして疑われるように。MI5の度重なる尋問に対し、否認を続けていたが、1963年に、かつてブラントがスパイに勧誘した米国人のマイケル・W・ストレートがMI5に対し、ブラントがスパイであることを暴露。翌年、自らもそれを認める。その際に複数のスパイの身元を暴露することで、15年間はスパイであることを非公式にされるとともに訴追免責の特権を与えられた。

驚くべきことにブラントは、その後も女王の絵画鑑定士を続けるなどそれまでとさほど変わらぬ生活を送る。しかし1979年に作家のアンドリュー・ボイルが、ブラントが「第4の男」であることを示唆する著作を出版するのを差し止めようとしたことがメディアにすっぱ抜かれたことから事情が一転。同年11月にはときの首相、サッチャーが下院でブラントの名前を公表した。このニュースは世間を大いに騒がせ、1956年に受勲したロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・コマンダー(2等)ははく奪。しかし美術史家としての活動は続けた。

晩年、ソ連のスパイだったことは「人生最大の間違い」と供述。1983年、ロンドンの自宅で心臓発作により死去した。

 

「第5の男」とその他のスパイたち

ブレッチリー・パーク
ケアンクロスが勤務していた政府の暗号学校
「ブレッチリー・パーク」

ケンブリッジ・ファイブのうち、これまで公に認められているのはマクリーン、バージェス、フィルビー、ブラントの4人。5人目に関しては、複数の関係者が4人と同時期にケンブリッジ大学に在籍していたジョン・ケアンクロスであると主張している。ケアンクロスはバージェス、ブラントとともに「アポスルズ」のメンバーで、卒業後、第二次大戦中にはエニグマ暗号解読などを行った政府の暗号学校「ブレッチリー・パーク」などで勤務した。

ケアンクロス以外にもスパイとして疑われていた人物は複数おり、アポスルズでバージェスらと親交を深め、卒業後も長年友人関係を保っていた名門ロスチャイルド家のロスチャイルド卿や、同じくバージェスらの友人だったMI5の副局長、ガイ・リデルらの名が挙がっていた。

自由や美を謳歌した「アポスルズ(使徒会)」

ブルームズベリー・グループ
ケアンクロスが勤務していた政府の暗号学校
「ブレッチリー・パーク」

ケンブリッジ大学のキングス・カレッジ、トリニティー・カレッジ、セント・ジョンズ・カレッジなどの学生たちからなる創立1820年の秘密結社。もともとは討論グループとして始まり、創立メンバーが12人であったことから「十二使徒」にちなんでこの名が付けられた。バージェスとブラント、そして5人目の男とされるケアンクロスが同グループのメンバーだった。

同性愛者や両性愛者のメンバーが多く見られ、また第一次大戦時には良心的兵役拒否の立場をとる者もおり、旧態依然とした価値観に対抗し、自由や美を謳歌した。20世紀初めには作家のE・M・フォースターや経済学者のジョン・メイナード・ケインズらそうそうたる人材が集結。彼らはやがて、ヴァージニア・ウルフらとともに文学者や芸術家らの集まりを結成、ブルームズベリー・グループと呼ばれるようになる。

スパイが活躍する英国映画&テレビ・ドラマ

007シリーズのジェームズ・ボンドを始め、英国では今でもスパイ映画の人気は高い。ここでは、ケンブリッジ・ファイブが活躍した時代を描いた映画、テレビ作品を紹介する。

Another Country アナザー・カントリー

1981年の芝居を映画化した作品で、主人公はバージェスをモデルにしている。パブリック・スクールを舞台に、同性愛者であるガイ・ベネットと、マルクス主義者のトミー・ジャッドを中心とした人間模様を描く。脚本を手掛けたジュリアン・ミッチェルは、1930年代のエリート学生がスパイになる理由として、当時の政治・経済情勢とともに同性愛者であったことに着目、そこから話を展開させたと語っている。
(Marek Kanievska) Rupert Everett, Colin Firth, Cary Elwes

Tinker, Tailor, Soldier, Spy 裏切りのサーカス

スパイ小説家ジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を映画化。冷戦下、MI6(サーカス)に入り込んだソ連KGBの二重スパイ「もぐら」の正体を突き止めるために奔走する諜報部員らの姿を追う。この「もぐら」のモデルはフィルビーであると言われている。原作者のル・カレは、MI5及びMI6に勤務していた経歴を持っている。
(Tomas Alfredson) Gary Oldman, Colin Firth, Tom Hardy

Cambridge Spies ケンブリッジ・スパイズ

BBC制作のミニ・ドラマ・シリーズ。全4話。ケンブリッジ・ファイブ4人の学生時代から、1951年にマクリーンとバージェスがソ連に亡命するまでの期間を網羅している。すべてが実話というわけではなく、若き青年たちが苦悩し、理想を追い求め、追い詰められていく様子をドラマティックに描いている。
(Tim Fywell) Tom Hollander, Toby Stephens, Samuel West

参考文献: Twentieth-Century Spies (Neil Root), Anthony Blunt: His Lives (Miranda Carter), My Silent War (Kim Philby), BBC Archive, Daily Telegraph, Another Country (2013 Theatre Programme), 図説「イギリスの歴史」(河出書房新社)など

 

ウィンブルドン選手権を支える黒子役たち - ボール・ボーイ / ガールのコーチ、芝の管理人、博物館職員

ウィンブルドン選手権を支える黒子役たち

テニスの世界4大大会の一つであるウィンブルドン選手権が、6月23日から始まる。昨年はアンディ・マリー選手が英国人として77年ぶりの男子シングルス優勝を飾り、例年以上の注目を集めたこの大会。その華麗な舞台を支える人々に注目した。 (2014年当時の情報です)


世界レベルのボール・ボーイ / ガールを育てています

サラ・ゴールドソンさん

ボール・ボーイ/ ガール・マネージャー
サラ・ゴールドソンさん

筆記試験、体力測定、技術測定

テニスの試合中、コート上を屈みながら小走りでボールを拾ったり、サーブを打つ選手にボールを渡す少年少女がいますよね。彼らは「ボール・ボーイ/ ガール(BBG)」と呼ばれています。このBBG のトレーニングを行うのが私の仕事です。

BBG は、ウィンブルドン区域内または近郊にある中学校に通う生徒たちから選抜されています。希望者は、まず各学校でオンライン登録を行い、テニスのルールについての指導を受けた後で、試験を受けなければなりません。この試験の合格者が毎年1月にウィンブルドンに集まり、さらなる筆記試験に加えて、反復横跳び、短距離走、スクワットなどの体力測定そして技術測定を行います。技術測定というのは、片手を大きく上げてからボールをワンバウンドさせる投げ方、ボーリングのようなボールの転がし方などを実演してもらうものです。この試験に晴れて合格したBBG が、2月から7月にかけてトレーニングを積むことになります。

大会開始後も選考過程は続く

BBG の応募者数は毎年1000人前後。選抜試験で300人にまで絞り、さらに2月から開始されるトレーニング期間中にそのうちの約半数が落とされるという狭き門です。

選手権が始まると、学校からは特別休暇をもらって、10時に会場入り。6人一組となって、60分プレーして60分休憩というスケジュールをこなします。自分の出番である60分間は一切休憩なし。たとえ選手が休憩中でも、BBGは直立不動の姿勢を保たなければなりません。

大会が始まってからも、選考過程は続きます。最初の9日間は同じ人数で臨みますが、試合数が減少するに伴い、BBG の人数も減っていくからです。落選して、泣いてしまう子も毎年います。

左)ウィンブルドンにある室内練習場で実践練習を行うBGGたち
中央)ボールの転がし方などの細かい動作に対しても厳しい指導が
右)選手のプレー中は直立不動の姿勢を保つことが要求される

集中力と規律が大事

BBGには、集中力、チームワーク、運動能力、緊張への対処能力などが求められます。またタイ・ブレーク(ゲーム数が6-6になった際に採用する得点ルール)においては、両者の総ポイントが6の倍数になったときにコート・チェンジするので、暗算もできないと駄目です。そうした緊迫した場面に対処するためにも、規律を守るよう徹底させています。たくさんの観客を前にして当惑しないよう、どんな状況で何をすべきかを細かく定め、それらのルールを覚え込ませるのです。そうすることで、世界が注目するウィンブルドン選手権のBBGを育てているのです。


美しい芝生を保つコツは、16人で一年中手入れを行うこと

グラント・カンティンさん

芝管理チーム副主任
グラント・カンティンさん

芝の長さは8ミリで統一

芝
ウィンブルドン選手権の開催に向けて、芝の状態が厳しく管理されているセンター・コート

ウィンブルドン選手権の会場を訪れた観客の誰もが、コートに敷き詰められた芝生の美しさに息を呑みます。ガーデニング愛好家から芝生を美しく保つコツをよく聞かれますが、答えは一つ。毎日手入れを行う、これに尽きます。

ウィンブルドンの会場では、16人のスタッフが一年を通じて芝の管理を行っています。とりわけシングルス決勝などの重要な試合が行われるセンター・コートの管理は厳しい。そのほかのコートは大会が終わればウィンブルドンのクラブ会員にも開放しますが、センター・コートの使用は、選手権の開催期間中のみに限られています。センター・コートでは、大会終了直後に芝をはがしてしまい、土壌を耕してから、新しく種をまいているんですよ。つまり、あの芝は毎年新しく植え替えられているのです。またすべてのコートにおいて芝の長さが決められていて、冬は霜や雪から保護するために13ミリに統一。それから12ミリ、11ミリ……と少しずつ短くしていき、大会の1カ月前から8ミリの長さを維持しています。

選手権開催中は、朝6時半に会場入りです。晴れていれば芝生のカバーを取り、芝を刈ったり、ゴミを取り除いたり、コートに白線を引き直したりします。

カバーを敷くのにかかる時間は20秒

雨が降った際に芝にカバーをかけるのも私たちの仕事です。雨が降りそうなときには、コート付近で待機。2012年はほぼ毎日雨が降ったので、待機しっぱなしでした。雨が降り出せばコート中央のネットを倒し、審判や選手が座る椅子を片付け、カバーを敷くまでを約20秒で完了させます。

センター・コートには2009年から屋根が取り付けられました。晴天の日は屋根を開放し、雨が降り出せば屋根を閉めて、空調機能を稼働させます。屋根を閉めるのに10分、空調機能がきちんと稼働するまでに20~30分。大会期間中は通常は夜10時ごろに仕事を終えますが、午前様になってしまうこともありますね。

芝の状態は毎年全く同じ

昨年の大会では、プレー中の転倒が相次ぎ、「芝が滑りやすくなっているのではないか」と騒がれました。芝の状態については常に確認や検査を行っていて、一昨年も昨年もそして今年も、ボールの転がるスピード、コートの硬さなどすべて同じ。これは自信を持って言えます。ただ大会の序盤は芝が滑りやすい傾向にあるという見方には一理あると思います。というのも、芝の状態を2週間同じ状態に保つことはできないので、決勝に向けて芝を徐々に乾燥させていく方法を取っているからです。だから大会序盤のコートの状態は、最終日ほど固くはありません。

一年を通じて刻々と天気は変わっていきます。気まぐれな英国の天気に対応するというのが、この仕事の一番大変なところでしょうね。


ウィンブルドンは「テニスが観られるガーデン・パーティー」

アシュリー・ジョーンズさん

ウィンブルドン・ローン・テニス・ミュージアム
アシュリー・ジョーンズさん

トロフィーの上にある果物の意味

アンディ・マリー
2013年のウィンブルドン選手権男子シングルス決勝で優勝し、トロフィ ーに口づけするアンディ・マリー。トロフィーの頂上にはパイナップルを模った装飾が施されている

ウィンブルドンの会場内には、テニスや選手権の歴史に関する展示を集めた博物館があります。同館には、大会の優勝者に授与されるトロフィーが展示されているので、お越しの際にはぜひご覧ください。昨年アンディ・マリーに授与された男子シングルスのトロフィーのてっぺんには、パイナップルを模したものが置かれています。「なぜパイナップル?」とよく聞かれるのですが、パイナップルの栽培は非常に難しいので、西洋ではお祝いや歓迎の意を示す際の象徴として使われてきました。ちなみに「女神が持つバラ水の皿」と呼ばれる女子のトロフィーは円盤型になっています。

これらのトロフィーには歴代の優勝者の名前が刻まれていて、毎年ポーランドから招聘した技術師が、優勝者の決定直後に会場内で新王者の名前を彫る作業に勤しんでいます。実は、男子のトロフィーに関しては、優勝者の名前を書くスペースがなくなったために、2009年からトロフィーの下に礎石を付け足して、そこに名前を書くようにしました。女子のトロフィーは、円盤の裏に名前を刻んでいます。

ロンドン五輪の運営者が花々を撤去

私たちにとって、ウィンブルドン選手権とは「テニスが観られるガーデン・パーティー」。観客の皆様には、スポーツの祭典としてだけではなく、社交行事としても楽しんでいただきたい。実際に会場を訪れれば、独特の華麗な雰囲気を楽しんでいただけるはずです。それと対照的なのが、同じ会場で開催された、2012年のロンドン五輪におけるテニス競技。ロンドン五輪の運営者は、ガーデン・パーティーのような雰囲気は一切望んでいませんでした。だから彼らは、会場を彩る鮮やかな花々をすべて撤去してしまったのですよ!

ウィンブルドン選手権ならではの華麗な雰囲気を象徴しているのが、王室メンバーや首相、さらにはハリウッド俳優などの著名人たちを招待するロイヤル・ボックスでしょう。ほかの招待客と何かしら共通点を持ち、社交を楽しんでいただける方を選んで招待しています。決勝の試合開始は通常午後1時ですが、招待客には午前9時に入場してもらい、モーニング・コーヒー、ランチ前のシャンパン、アフタヌーン・ティー、ウィンブルドン名物のいちごなどとともに歓談を楽しんでもらっているのです。

いちごを食べながらのガーデン・パーティー

先ほどウィンブルドンは社交行事であると言いましたが、別に堅苦しいものではありません。半ズボンやビーチ・サンダルでいらしていただいて構わないのです。好天に恵まれた夏の日に、シャンパンやいちごを手にしながら、友人とおしゃべりを楽しむガーデン・パーティー。ふと気付けば、目の前では世界最高レベルのテニスの試合が繰り広げられている。そんな素敵な空間こそが、ウィンブルドンなのです。

 

演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰 岡田利規 インタビュー 「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」ロンドン公演

「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」ロンドン公演 - 演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰 岡田利規インタビュー演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰 岡田利規インタビュー

舞台はとあるコンビニエンスストア。背景に流れるバッハの平均律クラヴィーアの旋律に合っているのかいないのか、店員や客が身体をゆるやかに動かしながら、取り留めのない会話を続ける――現代日本の典型的な一光景を淡々とシュールに描く演劇ユニット「チェルフィッチュ」の最新作、「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」が6月、ロンドンで上演される。コンビニという概念すらない英国で、この作品はどのように受け止められるのか。ドイツ公演中のチェルフィッチュ主宰、岡田利規に話を聞いた。

岡田利規 (おかだ としき)
1973年7月10日生まれ、神奈川県横浜市出身。慶應義塾大学商学部を卒業後、1997年にソロ・ユニット「チェルフィッチュ」を旗揚げ。以来、同ユニットの全作品の演出・脚本を手掛ける。2004年発表の「三月の5日間」で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。07年にベルギー・ブリュッセルで開催された演劇フェスティバル「クンステンフェスティバルデザール 」に招待され同作品を上演。現在に至るまで世界各地の劇場やフェスティバルで複数の作品を発表し続けている。


Super Premium Soft Double Vanilla RichSuper Premium Soft Double Vanilla Rich
(日本語公演、英語字幕付き)
6月10日(火)& 11日(水) 19:30 £15
会場:artsdepot
5 Nether Street,London N12 0GA
Tel: 020 8369 5454
West Finchley/Finchley Central駅
http://kililive.com

Playwright Talk: Toshiki Okada
岡田利規氏によるトーク
6月12日(木)18:30(無料)
会場:国際交流基金

Russell Square House, 10-12 Russell Square, London WC1B 5EH
希望者はイベント名(Playwright Talk: Toshiki Okada)と名前をE-mail: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください まで連絡のこと

チェルフィッチュはこれまで数多くの海外公演を行われていますが、どのような経緯で実現したのですか。

ほぼ10年前に「三月の5日間」という、イラク戦争を題材にした作品を作ったのですが、それをベルギーで開催されるフェスティバルの芸術監督がたまたま東京で観て面白いと思ってくれたようで、翌年の5月にフェスティバルに呼んでくれたんですね。それが2007年のことで、その際に主にヨーロッパの演劇関係者が観てくれて、オファーをいただいたのが始め。その後は新作に共同制作という形で他のフェスティバルが入ってくれたりといった形が続いて今に至る、という感じです。

岡田さんが書かれる戯曲のセリフは、現代日本の若者世代の日本語を取り入れていることなどから「超リアル日本語」と評されていますが、海外公演の際にはそうしたニュアンスは失われてしまいますよね。

演劇って言葉だけじゃなくて、舞台上にあるすべてのものが重要ですよね。話されている言葉は日本語で、確かに言葉は分からないかもしれないけれども、それを発している身体は舞台上にあって、その身体を観るというのが演劇を観る喜びというか、演劇を観ることから得られる情報としてとても大きいものだと僕は思っているんです。その意味では、僕らのパフォーマンスを観ることで得られるものはあると思っています。

海外公演であるという点を意識しすぎて汎用性のあるものを作れば個性は失われ、ローカル色が強すぎても海外の観客には理解しがたい――こうした点は意識的にバランスを取っているのでしょうか。

汎用性の方へ行くのは一番やってはいけないことだと思っているんです。でもバランス感覚も確かに必要で、そこは2007年から僕もそれなりに経験を積んできて、何となくですが分かるようになってきていると思います。言葉が分からないというだけでなく、日本人だったら完全に共有できていると思って構わない文化や習慣、例えば新作はコンビニを扱った作品なんですが、コンビニって日本人ならば知っていて当然ですけれども、逆に日本人じゃなければ知らなくて当たり前なわけで、そういう点を意識して作るようになっているというのは、ものすごく大きな違いですよね。

前回、前々回と東日本大震災を意識した作品作りをされていたのに対し、今回はコンビニを舞台にした全く毛色の変わった作品となっています。なぜこのような作品を今、作ろうと思われたのですか。

コンビニって日本の現代社会の在り方を象徴していて、コンビニを描けばそれだけで社会を描けるな、と思ったんですよ。今、我々にはこういう問題があるという問題意識ありきで作品を作るみたいなところが前2作はあったと思うし、そうやって作品を作ったことに僕は自分で満足できている。ですが新作に関しては、コンビニという自分たちにとってありふれたものを描いて、結果的に自分たちがどういったものに取り囲まれているのかということが出ればいいかなという感じで作りたかったんですよね。

 

Yoshiki インタビュー - ピアニストとしてロンドンで公演

Yoshiki インタビュー

ステージ上で気絶してしまうほどに激しく叩き続ける「X Japan」のドラマーとして、そして自ら作曲した美しい旋律を優雅に奏でるピアニストとしての二面性を持つYoshiki。5月29日にロンドンにやって来るのは、後者のYoshikiだ。名だたるクラシック音楽の大家たちによる名演奏の舞台となってきたロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールにて、世界ツアー「Yoshiki Classical」のロンドン公演を行うYoshikiに話を聞いた。

Yoshiki
1989年にロック・バンド「X」としてメジャー・デビュー。ソロ活動などを通じてクラシック音楽の分野での楽曲も多数手掛ける。1999年に、天皇陛下御即位10年をお祝いする国民祭典の奉祝曲を皇居前広場で演奏。2012年には、米国の優れた映画・テレビドラマを表彰するゴールデン・グローブ賞の公式テーマ曲「ゴールデン・グローブのテーマ」を作曲した。4月末より、クラシックの分野における活動の集大成となる世界ツアー「Yoshiki Classical」を開始。5月29日にはロンドン公演を開催する。
www.yoshiki.net

Yoshiki Classical
5月29日(木)20:00(開場19:00) £30~75
Royal Festival Hall Southbank Centre, Belvedere Road London SE1 8XX
Tel: 020 7960 4200
http://kililive.com | www.seetickets.com | www.southbankcentre.co.uk

Yoshikiさんのクラシック・アルバムの一つである「Eternal Melody」の収録はロンドンで行われたそうですね。

ビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティン氏にプロデュースをお願いし、僕の作った楽曲をロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏してもらうという機会をいただいたんです。もう素晴らしいとしか言いようのない出来栄えに仕上げていただきました。あの機会がきっかけとなってクラシック音楽をさらに好きになったというか、これからもクラシックをやっていこうと強く感じたことを今でもよく覚えています。

Yoshikiさんは現在、米ロサンゼルスに生活の拠点を置かれていますが、以前にはロンドンへの移住も検討されていたと聞きました。

移住先を決める際に、個人的にはロンドンが第1候補で、パリが第2候補でした。幼いころからクラシック音楽が好きで、クラシック音楽というと最初に欧州を思い浮かべてしまいますよね。またパンク・ロックも好きなので、パンクが盛んだったロンドンに行きたいという気持ちもありました。ただ自分以外のX Japanのメンバーがロサンゼルスを希望していたので、多数決でロサンゼルスになってしまったのです(笑)。

とりわけ欧州においては、ロックに比べて、クラシック音楽の分野は敷居が高いという面があるのではないでしょうか。

正直に言うと、クラシックの分野での敷居の高さは感じますね。ただ考えてみると、ロックにしても、Xとして始めたばかりのころは、いわゆる「ビジュアル系」として活動していたことで様々な批判を受けました。当時は髪の毛を染めたり、派手な格好をして音楽を演奏すること自体が、評論家の人たちからの悪評を買っていたんですよね。「もっとまじめに音楽やるべきだ」とよく言われました。今でも批評家の言うことはあまり気にしないようにしています。ロックにせよ、クラシックにせよ、素晴らしい楽曲をつくって人に感動を与えたいというのがすべてですから。

今回のロンドン公演はどのような内容になりますか。

演奏に加えて、会場に大型スクリーンを持ち込んでビジュアル的な要素を見せる予定です。曲に関しては、X Japanのクラシカル・バージョンの曲が半分ほど。天皇陛下御即位10年奉祝曲となった「Anniversary」や「ゴールデン・グローブのテーマ」に加えて、新曲も披露します。クラシック・コンサートとしての形式を取っていますが、X Japanの曲などに関しては演奏に合わせて一緒に歌っていただくのも大歓迎です。

最後に、日本人が海外で認めてもらうために最も必要なことは何だと思いますか。

海外に出るとまずぶち当たるのが言葉の壁ですが、それに関しては意外と簡単で、単に勉強すればできることだと思います。僕も渡米当初は全く英語が話せなかったけれども、個人教授に来てもらいまして、大体2時間ぐらい毎日勉強しました。あとは教科書、参考書の類を開いて、文法や発音といった勉強もしましたね。

それよりも本当に必要なのは、強い信念を持つというか、自分を信じることでしょう。日本から海外にやって来て、半年とか一年であきらめてしまう人もいますが、自分の場合は頑張ることができると思ったので、もう10年以上も海外暮らしを続けています。自分の音楽が通用すると何となく感じてしまったんですよね。その感覚だけを信じて、今も夢に向けてまだまだ頑張っている最中です。

Yoshiki Classical
5月29日(木)20:00(開場19:00) £30~75
Royal Festival Hall Southbank Centre, Belvedere Road London SE1 8XX
Tel: 020 7960 4200
http://kililive.com | www.seetickets.com | www.southbankcentre.co.uk
 

ナロー・ボートで往くストラトフォード・アポン・エイボン

ナロー・ボートで往くストラトフォード・アポン・エイボン

産業革命時代に交通手段として使われていたナロー・ボート。
ストラトフォード・アポン・エイボンの牧歌的な景色を船上から眺めつつ、ボートの操縦やロック(閘門)の開閉に挑戦できる数時間のショート・クルーズに参加してみた。
*画像をクリックすると拡大します


7船を探検

7船を操縦&景色を堪能

7食事に舌鼓

About Narrowboat Guide

今回参加したのは、ストラトフォード・アポン・エイボン近郊で約15年にわたりナロー・ボート運営をしているというアンディーさん、淳子さんのブラウン夫妻が経営を行う「Narrowboat Guide」。ときに河岸を散歩し、ときにお2人からナロー・ボートの歴史や面白エピソードをうかがいつつ紅茶やコーヒーを味わう船旅は、のんびりゆったりしているのにあっという間に時間が過ぎてしまう。街の観光と併せてショート・クルーズを楽しむも良し、宿泊コースで地元のパブの夕食を楽しみながら船上で一夜を過ごすも良し。古き良きイングランドの水辺の生活を、ここストラトフォード・アポン・エイボンで垣間見てみては?

今回利用したコース

ショート・クルーズ(軽食付き)
12時30分:Wilmcote駅(Stratford-upon-Avon駅から2駅)より出発
15時30分:Wilmcote駅にて解散
*出発 / 解散場所はその都度異なるので要確認

このほか、1泊2日~10泊11日まで様々なコースあり。
料金は1人115ポンドから(利用人数、宿泊日数により変わるため要問い合わせ)。
定員4名。
Tel: 07899 998 334(日本語可)
Email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
www.narrowboatguide.co.uk
*ボート上のインターネットの都合により、返信に数日かかることがあります


 

ストラトフォード・アポン・エイボンにお泊まりの際は
ムーンレイカー・ハウス Moonraker House

純英国スタイルに日本人ならではの心配り
駅から徒歩約5分という便利な立地が人気の4ツ星のゲスト・ハウス。

シェイクスピアの戯曲に出てくる登場人物の名が付けられたゲスト・ルームは、部屋ごとに雰囲気の異なるインテリアが特徴。青色で統一された「オーベロン」や、天蓋付きベッドがロマンティックな「ティタニア」など、ウェブサイトで写真を見ながら自分のイメージに合う部屋を選んでみよう。

地元産の食材にこだわった朝食は、ボリュームたっぷりなのに油控えめでさっぱりいただける。オーナーの大畑さんは、観光地はもちろん、景色の美しい散歩道や食情報にも通じているストラトフォード・アポン・エイボンの達人。大畑さんのアドバイスを基に街散策をすれば、より一層充実した旅を楽しめること間違いなしだ。

*画像をクリックすると拡大します

INFORMATION

宿泊料金
シングル:50ポンド〜、ツイン / ダブル:72〜88ポンド
ファミリー:95ポンド〜
*朝食込み、長期滞在割引あり

40 Alcester Road, Stratford-upon-Avon CV37 9DB
Tel: 01789 268774
Email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
www.moonrakerhouse.com

 

ストラトフォード・アポン・エイボン - 「本当の英国」を感じる地方の旅

「本当の英国」を感じる地方の旅 ストラトフォード・アポン・エイボン

ストラトフォード・アポン・エイボン

通りの入口では、道化の像がお出迎え。立ち並ぶ店の看板を眺めれば、「The Food of Love」「Mistress Quickly」「As You Like It」と、おなじみの戯曲のタイトルや台詞、登場人物の名がずらり。ここ、ストラトフォード・アポン・エイボンは、言わずと知れた劇作家ウィリアム・シェイクスピア生誕の地だ。今年はシェイクスピア生誕450周年。街の至るところにシェイクスピアの面影が色濃く残るこの街で、シェイクスピアを知り、観て、感じる旅をしてみよう。

ロンドンからのアクセス:
London MaryleboneからStratford-upon-Avonまで列車で2時間強

ストラトフォード・アポン・エイボンとシェイクスピアの関係

City Sightseeing Stratford Upon Avonウィリアム・シェイクスピアは1564年4月23日、イングランド中部ウォーリックシャーに位置するストラトフォード・アポン・エイボンでその生を受けた(*1)。父のジョンは皮手袋職人で、羊毛取引などで財を成し、後には町長にまで登り詰めた地元の名士、母のメアリー・アーデンは、ジェントリー(紳士階級)出身。恵まれた環境で育ったものの、父親はシェイクスピアが10代前半のころ、地位も財産も失ってしまう。1582年には18歳で近隣の村ショッタリーにある農家の娘で8歳年上のアン・ハサウェイと結婚。3人の子供に恵まれたが、20歳のときに突如姿を消し、数年後にはロンドンの劇壇で活躍するようになる。

とはいえ、故郷とのつながりを断ったわけではなく、シェイクスピアはロンドンにいながらにして故郷に住む家族のため、地元での地位を確固たるものにしていく。1596年には父が望んで果たせなかった紋章申請が認可されてジェントリーに。その翌年には33歳という若さで地元で2番目に大きな邸宅「ニュー・プレイス」を購入。その後も広大な不動産を購入したかと思えば、440ポンドを投資して10分の1税(*2)の徴収権を得て、定収入を増やすことに成功。高額納税者として一族は死後、そろって地元教会の内陣に埋葬されることになる。

1613年、故郷へと戻ったシェイクスピアは、1616年4月23日、奇しくも誕生日と同じ日に死去した。才能が開花する前の青年期までと晩年を過ごしたこの地では、劇作家としてだけでなく、ビジネスマンや一家の長など、様々なシェイクスピアの横顔を見ることができる。

*1: 正式な生誕記録は残っていないが、洗礼日(26日)から推測されている
*2: 教会に対し収穫物の10分の1を納める税金
参照:「 シェイクスピア ハンドブック」(三省堂)

ストラトフォード・アポン・エイボンの地図(クリックすると拡大します)
ストラトフォード・アポン・エイボン地図

シェイクスピア1〜3シェイクスピアを観る

シェイクスピアの故郷でシェイクスピアの芝居を観る――舞台好きはもちろん、そうでない人にも心に残る体験となることは間違いない。シェイクスピア一族の家々を訪ねたあとには、彼の創造物を観ることでその思考をたどる旅に出るのも面白いのでは。


シェイクスピア1〜7シェイクスピアを知る

一族の家々や少年時代に学んだとされる学校、冠婚葬祭を司った教会など、この地にはシェイクスピア一家の生きた証が点在している。彼らの気配さえ感じられそうなこれらの場所を訪れれば、生身の人間としてのシェイクスピアを実感できるはず。

*Shakespeare Birthplace Trust
管理施設の営業時間は2014年夏季(11月2日まで)のもの

 

1〜3シェイクスピアを観る

1生誕地で観る芝居は格別
Royal Shakespeare Company & Theatres
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー&シアターズ

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー&シアターズエイボン川を臨み、街を睥睨(へいげい)するレンガ造りの堂々たる建物は、英国が誇る劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが拠点にしている劇場。大・中・小の劇場を抱え、シェイクスピア作品はもちろん、現在はロンドンで上演中の「マチルダ」など子供向けのミュージカルなども制作している。観客の目と鼻の先で役者が演技を繰り広げ、ときに観客に語り掛けることもある張り出し舞台は迫力満点だ。

(写真)エイボン川に抱かれるように建てられた劇場

2あの名公演の裏話まで盛りだくさん
Behind The Scene Tours
劇場ツアー

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー&シアターズ現在上演中の芝居の大道具もそのままの舞台裏から客席、最高責任者が使用するコントロール・ルームに至るまで、劇場の隅から隅まで見ることのできる人気のツアー。芝居で使う血液や、役者の驚くべき早替えの秘密など、シェイクスピア・ファンでなくても満足できる充実の内容だ。

(写真)劇場内部を隈なく観て回ることができる

3知的好奇心と食欲をともに満たす
Rooftop Restaurant & Bar
ルーフトップ・レストラン&バー

ルーフトップ・レストラン&バー劇場上部に位置し、界隈を一望できるブリティッシュ料理レストラン。美しい盛り付けの料理の数々に舌鼓を打った後に芝居を観れば、身も心も満足できるはず。なお、壁の上部に3脚の椅子が貼り付けられているのが目につくが、これは改築前の劇場の客席をそのままの位置で残しているのだとか。

写真)景色も料理も堪能

1〜3
Waterside, Stratford-upon-Avon CV37 6BB
Tel: 0844 800 1110(Box Office)
Tel: 01789 403449(Rooftop Restaurant & Bar)
www.rsc.org.uk

 

エイボン川シェイクスピアが眺めた景色を歩く

シェイクスピアは、慣れ親しんだ地の景色を作品に投影することもあったという。柳が揺れるエイボン川のほとりを歩き、木々がうっそうと茂る小川を眺めれば、シェイクスピアの思考をほんの少し、たどれるかもしれない。

 
 

1〜7シェイクスピアを知る

1生まれ育った家で即興劇を
Shakespeare's Birthplace シェイクスピアの生家

シェイクスピアの生家街のシンボル的存在であるこの建物内でシェイクスピアは生まれ、結婚後数年して引っ越しをするまでの年月を過ごした。隣接するシェイクスピア・センターで世界各国のシェイクスピア関連書物やアートを観てから家の内部へ。庭では当時の衣装に身を包んだ役者たちが即興劇を繰り広げている。ときには観客も参加して、家の2階と庭で「ロミオとジュリエット」の一場面を演じることも。

(写真上)当時の裕福な暮らしぶりがうかがえる家
(写真下)役者たちはシェイクスピアの全戯曲の一場面を演じられるそう

Henley Street, Stratford-upon-Avon CV37 6QW
Tel: 01789 204016
月~日 9:00-17:00(6月30日~8月31日は17:30まで)
£15.90(子供£9.50、Hall's Croft、New Place & Nash's House、Shakespeare's Graveとの共通パス)
www.shakespeare.org.uk

メアリー・アーデンの農場2母親の生家は現役農家
Mary Arden's Farm
メアリー・アーデンの農場

郊外の村ウィルムコートに位置する、シェイクスピアの母親メアリー・アーデンの家は、現在も農場として機能しており、牛や羊、豚などが出迎えてくれる。あちらこちらで当時の衣装を身に着けた人々が会話しながらパンを焼いたり、洗濯をしているのが面白い。愛らしいフクロウのショーは子供たちに人気。

(写真上)何羽もいるフクロウはとってもキュート
(写真右)当時の手法でパンを焼く人たち

Wilmcote駅から徒歩10分
Station Road, Stratford-upon-Avon CV37 9UN
Tel: 01789 204016
月~日 10:00-17:00
£12.50(子供£8)
www.shakespeare.org.uk


3結婚前に何度も通った妻の生家
Anne Hathaway's Cottage & Gardens
アン・ハサウェイの家

アン・ハサウェイの家シェイクスピアの妻であったアン・ハサウェイの生家。こんもりと曲線を描いた茅葺屋根にハーフティンバーの壁面がチャーミングな家と広々としたガーデンが、牧歌的な風景をつくり上げている。花々が咲き誇るガーデンには、柳の小屋や、現代的な彫刻の数々も。シェイクスピアにヒントを得て作曲されたという音楽を聴きながら*、遊歩道をゆっくり散策してみよう。
*春夏の期間のみ、チケット・オフィスでヘッドフォンを貸し出している

写真)春から夏にかけては美しい花が咲き誇る

Bridge Streetのバス停から19番のステージコーチに乗り、Cottage Lane下車
Cottage Lane, Stratford-upon-Avon CV37 9HH
Tel: 01789 204016
月~日 9:00-17:00
£9.50(子供£5.50)
www.shakespeare.org.uk

4娘とその婿が住んだ知的な家
Hall's Croft ホールズ・クロフト

ホールズ・クロフトシェイクスピアの長女スザンナは1607年、地元在住の医師ジョン・ホールと結婚した。医者の家だけあって、内部には診察室があるのに加え、調薬器具、医療書などのユニークな展示物も。静けさに満ち、整然としたガーデンには、当時は治療にも利用されていたというハーブなどが植えられている。

写真)端正な外観が知的な雰囲気を醸し出す 写真)当時の診察室の様子を再現

Old Town, Stratford-upon-Avon CV37 6BG
Tel: 01789 204016
月~日 10:00-17:00
£15.90(子供£9.50、Shakespeare's Birthplace、New Place & Nash's House、 Shakespeare's Graveとの共通パス)
www.shakespeare.org.uk


5シェイクスピアはここで学んだ?
King Edward VI School エドワード6世校

エドワード6世校シェイクスピアが通ったとされるこの学校は、1295年創立の教育施設をエドワード6世が16世紀に再設立したものなのだそう。ブレザー服姿の生徒たちが闊歩し、バンドの音楽が鳴り響く校舎は、外から見る限りほかの学校と何ら変わりないが、シェイクスピアが学んだという教室(ビッグ・スクール)は、当時の面影そのまま。ごく限られた期間のみ一般公開され、現役の生徒のガイドで見学することが可能。

写真)シェイクスピアが座ったとされる席もある

Church Street, Stratford-Upon-Avon CV37 6HB
Tel: 01789 293351 
www.kes.net
*一般公開日は学校の公式ツイッターなどで直前に発表されるので要確認

6晩年住んだ家は孫の家と隣同士
New Place & Nash's House
ニュー・プレイスとナッシュの家

ニュー・プレイスとナッシュの家ナッシュの家は、シェイクスピアの孫、エリザベスが最初の夫、 トマス・ナッシュとともに住んだ家。ニュー・プレイスはシェイクスピアが晩年を過ごした家だが、18世紀に当時の持ち主が観光客の多さに辟易して取り壊してしまったため、現在見学できるのは低木を結び目のように交錯させたノット・ガーデンと、戯曲をモチーフにした彫刻が置かれたガーデンのみ。彫刻の裏側には台詞の一部が彫られているのが興味深い。

写真)まるで絵画のようなノット・ガーデン

22 Chapel Street, Stratford-upon-Avon CV37 6EP
Tel: 01789 204016
月~日 10:00-17:00
£15.90(子供£9.50、Shakespeare's Birthplace、Hall's Croft、Shakespeare's Graveとの共通パス)
www.shakespeare.org.uk

7生と死を見守った教会
Holy Trinity Church ホーリー・トリニティー教会

エイボン川のほとりに佇むホーリー・トリニティー教会は、シェイクスピアとその一族の誕生から結婚、死去に至るまでを見守り続けてきた。内陣の祭壇の前に並ぶのは、一族の墓。左から2番目に位置するシェイクスピア本人の墓の上には、「我が骨を動かす者に呪いあれ」という呪詛が刻まれている。向かって左側の壁には、シェイクスピアの胸像が。その右手に握る羽根ペンは、毎年彼の誕生日に新調されるのだとか。

ホーリー・トリニティー教会
(写真左)シェイクスピア一族皆が埋葬されている
(写真右)呪詛が刻まれたシェイクスピアの墓

Old Town, Stratford-upon-Avon CV37 6BG
Tel: 01789 266316
月~土 8:30-18:00(3、10月は9:00-17:00、11~2月は9:00-16:00)、日 12:30-17:00
www.stratford-upon-avon.org


 

ストラトフォード・アポン・エイボンの食

7Lambs

Lambs16世紀に建造された建物を利用した、地元民にも人気の高い落ち着いた雰囲気のレストラン。観劇前にはセット・メニューがお勧め。味もプレゼンテーションも抜群の料理をお手頃価格でいただける。

12 Sheep Street, Stratford-upon-Avon
CV37 6EF
Tel: 01789 292554
月・火 17:00-21:00、水~土 12:00-14:00、17:00-21:00、日 12:00-14:00、18:00-21:00
www.lambsrestaurant.co.uk

7Othello's Bar & Bistro

老舗ホテルであるシェイクスピア・ホテルの一角にある、モダン・ヨーロピアン・レストラン。16世紀の香りが漂う重厚な雰囲気を味わえる一方で、サービスはとてもフレンドリーなのがうれしい。夏季にはオープン・エリアでの食事も楽しめる。

Chapel Street, Stratford-upon-Avon CV37 6ER
Tel: 01789 269427
月~金 12:00-22:00、土 12:30-22:00
www.othellosbrasserie.co.uk

7Loxleys Restaurant & Wine Bar

Loxleys Restaurant & Wine Bar真紅の壁とシャンデリア、アンティーク家具が絶妙に溶け合ったこの店は、近年オープンしたばかりだが、既に地元では味の良いレストランとして名を馳せている。鮮やかな赤がまぶしいビートルートのリゾットなど、料理にもセンスの良さが感じられる。

3 Sheep Street, Stratford-upon-Avon
CV37 6EF
Tel: 01789 292128
月~土 9:30-23:00、日9:30-22:30
www.loxleysrestaurant.co.uk

7The Garrick Inn

ちょっと歪んだチューダー朝の建物に柱の彫物が何とも言えない趣を醸し出すThe Garrick Innは、ストラトフォード・アポン・エイボン最古のパブといわれている。1594年からサーブしているというリアル・エールをぐびりと飲めば、タイムトリップした気分になれるかも。

25 High Street, Stratford-upon-Avon CV37 6AU
Tel: 01789 292186
月~日 11:00-23:00

Shakespeare Birthplace Trust

シェイクスピア一族の家々やガーデン*を管理するチャリティー団体。管理下の5カ所をすべて回れる共通割引パスなどを販売しているので、ウェブサイトを参照してみよう。
*Shakespeare's Birthplace、Mary Arden's Farm、 Anne Hathaway's Cottage & Gardens、Hall's Croft、New Place & Nash's House
www.shakespeare.org.uk


シェイクスピアCity Sightseeing Stratford Upon Avon

中心部は歩いて回れるものの、郊外にあるアン・ハサウェイの家やメアリー・アーデンの農場は徒歩だと20~40分はかかる。時間に余裕がある人ならば散歩がてら歩くのも良いが、効率良く回りたいならば周遊バスを使うのがお勧め。バースプレイス・トラストが管理する5カ所を20~30分毎(季節によって異なる)に回っていて、自分の都合に合わせて乗り降りできる。
£13(子供£6.50。24時間乗り放題)


 

ストラトフォード・アポン・エイボンにお泊まりの際は
ムーンレイカー・ハウス Moonraker House

純英国スタイルに日本人ならではの心配り
駅から徒歩約5分という便利な立地が人気の4ツ星のゲスト・ハウス。

シェイクスピアの戯曲に出てくる登場人物の名が付けられたゲスト・ルームは、部屋ごとに雰囲気の異なるインテリアが特徴。青色で統一された「オーベロン」や、天蓋付きベッドがロマンティックな「ティタニア」など、ウェブサイトで写真を見ながら自分のイメージに合う部屋を選んでみよう。

地元産の食材にこだわった朝食は、ボリュームたっぷりなのに油控えめでさっぱりいただける。オーナーの大畑さんは、観光地はもちろん、景色の美しい散歩道や食情報にも通じているストラトフォード・アポン・エイボンの達人。大畑さんのアドバイスを基に街散策をすれば、より一層充実した旅を楽しめること間違いなしだ。

*画像をクリックすると拡大します

INFORMATION

宿泊料金
シングル:50ポンド〜、ツイン / ダブル:72〜88ポンド
ファミリー:95ポンド〜
*朝食込み、長期滞在割引あり

40 Alcester Road, Stratford-upon-Avon CV37 9DB
Tel: 01789 268774
Email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
www.moonrakerhouse.com




 

アーセナル入団!近賀ゆかり&大野忍 インタビュー:女子サッカー日本代表選手

近賀ゆかり&大野忍インタビュー近賀ゆかり&大野忍インタビュー

2011年にドイツで開催されたサッカーの女子ワールド・カップ(W杯)優勝や、2012年ロンドン五輪の銀メダル獲得で日本中の人々そして在英邦人を熱狂させた、日本のサッカー女子代表「なでしこ」のメンバーたち。その中枢を成す大野忍選手と近賀ゆかり選手が、この春、イングランドにおけるサッカー女子の強豪アーセナル・レディースに入団した。渡英してまだ間もない3月末には欧州チャンピオンズ・リーグの試合にさっそく出場し、今後国内リーグでの活躍が期待される両選手に話を聞いた。(取材・本文執筆: 木村正人)


近賀ゆかり Yukari Kinga
1984年5月2日生まれ、神奈川県出身。なでしこリーグの日テレ・ベレーザ、INAC神戸レオネッサを経て、2014年にアーセナル・レディースに入団。大野選手とともに、サッカー女子の日本代表として、世界一となった女子W杯のドイツ大会や、銀メダルを獲得したロンドン五輪など数々の国際大会に出場している。

大野忍 Shinobu Ohno
1984年1月23日生まれ、神奈川県出身。なでしこリーグの日テレ・ベレーザ、INAC神戸レオネッサ、仏リーグのオリンピック・リヨン、なでしこリーグ2部のASエルフェン狭山FCを経て、2014年にアーセナル・レディースに入団。なでしこリーグでは最優秀選手に3度選出され、得点王に4回輝くなどしている。

 

3月の欧州チャンピオンズ・リーグ(CL)が初の公式戦となりました。

大野:練習試合には出ていましたが、公式戦はCLが初めてでした。楽しめた戦いでした。負けたのは悔しかったですが。試合後は真っすぐ家に帰ってきて、キンちゃん(近賀選手の愛称)と2人で反省もしましたし。失点のところだったり、得点のところだったり。自分に関しては何回か決定機も作ったんで、それを決めていれば雰囲気も変わったと思います。そういう責任感はすごくありました。

近賀:CLに出たくて英国に来たと言っても過言ではありません。CLへの思いがすごくあった中で、いきなり公式戦を迎えた。それが、第2戦で本当に犯してはいけないミスを私が犯して失点して、忘れられない試合になってしまった。それはセンターバックを初めてやったとか、慣れていないポジションだからとか、そういう言い訳では済まないミスだったんです。ただ下を向いてばかりはいられないので、後半は点を取りに行くとなって、自分が一つ前の列のポジションに入ったときに得たヒントはありました。だから、様々な意味で印象深い試合となりましたね。普段は全然平気で寝られますが、この試合は寝られないというか、目をつぶると思い出すという感じでした。

日本のサッカーと英国のフットボールの違いについて何か感じたところはありますか。

大野:自分はここに来る前、フランス女子サッカー・リーグのオリンピック・リヨンにもいたんですが、そこでもサッカーの違いというか、日本にはあって海外にはないもの、逆に海外にはあって日本にはないものを実感したということがあったので。その難しさというのは慣れるまでに時間がかかるのかなという部分はあります。海外の場合は個の力を発揮しなくてはいけない部分がすごくあるので、個を出しつつ、チームのコンセプトに対応していかなければならないのかなと思います。

近賀:自分のイメージでは1対1の勝負になってくるのかなと想像しながら来てみて、(それまでのポジションであったサイドバックから)センターバックをやることになったので、色々な確認をこの短い中でも監督やチームメートとしています。日本はどちらかと言ったらカバー、カバー、カバー。日本代表では、自分たちよりもフィジカルが上になる相手が多いので、カバーを大切にするんです。アーセナルでも監督はカバーと盛んに言っているので、やろうとしていることは日本と近いのかな。いざ、試合になると、どこまでカバーに行くのかという微妙な距離感の違いはあるとは思いますが。

守備において空いているスペースを埋めたり、相手選手に味方選手が抜かれたときに助けに行く行為

センターバックがしっかりしているチームは強いですね。近賀選手への期待の表れなのではないでしょうか。

近賀:たぶん、監督が私のことをよく分かってないのだと思います(笑)。まだ、自分の中でも疑問があります。一番大事なところを任せてもらっているのはありがたいですし、その分、期待に応えたいなという気持ちはあります。

アーセナル・レディース
3月30日に行われた欧州チャンピオンズ・リーグでの
対バーミンガム戦で敗退し、アーセナル・レディースの
シェリー・カー監督に声をかけられる
近賀選手(写真左)と大野選手(同右)

監督からはいつセンターバックで行くぞと言われたんですか。

近賀:入団してすぐにセンターバックでと言われました。両サイドに良い選手がいるというのもあると思います。「まあ、できるだろう」という感じで言われました。でも、やったことはなかったので、できるも、できないも、やったことがありませんという返ししかできませんでした。たぶん守備面より攻撃面の理由でセンターバックをやってくれと言っているのではないかなと思います。ボランチっぽいというか、しっかり後ろから前の人にボールを運ぶというところを求められているというか。

大野選手のポジションはトップ下ですね。

大野:日本でもやっていたプレーだったので。トップ下にしっかりパスを出せる選手もアーセナルにはいます。自分としては近賀選手が一つ前の中盤のボランチをやってもらった方が助かりますが、監督がどうしても近賀選手のセンターバックが気に入っているみたいなので(笑)。

近賀:違う、違う。何かそう仕立てようとしてない?

大野選手はロンドン五輪のブラジル戦で左足のうまいシュートを決めました。左利きのメッシみたいにプレーしたいということですが。

大野:もともと右利きなんですが、今からでも遅くないかなと思って、左足の練習をしています。今からでも練習すれば左利きになれると信じています。少しでもメッシ選手に近付けたら良いなと。ドリブルもそうですし、一人で試合を決めてしまうじゃないですか、メッシ選手は。

自分のスタイルを貫くのか、チームのスタイルに合わせるのかという点で迷われたりはしますか。

大野:リヨンの場合は自分のプレーよりチーム優先だったので。チームとしてこういうサッカーをしたいから、お前もそのプレーじゃなくて、変えてくれみたいな感じだったんですよ。一方で、自分の個の力を存分に出して、チームとしてこういう風にやりたいから、こういうのも出してくれ、というチームもある。アーセナルはそういうチームなので、自分のプレーを曲げなくてもいい。慣れの部分では、なじみやすいというか、すぐに入りやすいかなというのはあります。チームとしてどうしたいというのを理解しつつ、その中で、自分のプレーがチームとしてどう機能していけるかというのは自分次第かなと思いますけど。

近賀:その質問で言えば、貫くとしたら、センターバックをやってくれと言われて、やりませんというのが、もしかしたら貫くということになるのかもしれません。そういう意味では自分を貫いているわけではないと思う。私としては、チームに求められていることをやりたい。その中で、思い切りやってくれ、自分の特徴を出してくれという感じでチームは言ってくれていて。これをやるなとか、今のプレーはしないでくれとか、そういうことを言われたことはないです。自分はスタミナの部分はある方なので、色々な所で顔を出して、守備でも何回も食らいついたりとか、そういうところではサイドバックをやっているときと似ていると思います。まあそれに、チームで求められていることが自分のプレーを出すことなので、早くチームのやるものにフィットしていきたいですし、チームのプラスアルファになりたいなとは思います。

イングランド代表の弱点を見つけに来たというのは本当ですか。

大野:こちらでは、W杯チャンピオンってすごいことだって言ってくれます。日本ではもう、あまり騒がれません。自分たちは過去の話なんで、もういいという感じなんですが、イングランドの選手に「いや自分たちはそのチームに勝ったし」と言われたんです。確かにそうなんです。イングランドには勝ったイメージがない。自分たちが帰国するときは少しでも何か持って帰れればいいなと思って今、弱点を見つけているところです。

近賀:本当にイングランドに勝っているイメージがないので、弱点を見つけるというか、特徴をつかんで、勝つための情報を集めたいです。

大野:将来、イングランド代表と試合をしたとき、あの2人にやられたと思われたいですね。

渡英が決まったのは。

近賀:ギリギリでした。こちらに来たのが2月18日。ビザが出るのが長引いて、2月に入国しました。

大野:ビザの話は12月ぐらいから始まりました。準備したことはそんなになかったですね。アーセナルのウェブサイトを見ましたが、日本語版があまり更新されていなくて、これは古いなと思って。選手も違うし。一体誰なんだ、誰がいるんだ、という情報はすごく知りたかった。

近賀:こちらに来る準備は全然していませんでした。イングランド代表の選手が何人かチームにいるというのは聞いていましたが、その選手がこのシーズンにいるのかどうかというのも分からなかった。残っていたらいいなと思う選手が来てみたらいたという、そんなもので。あとは色々な人が「キンちゃん、ロンドンはこういうところだよ」という話をしてくれたくらい。ギリギリに決まったんで周りの人にもきちんと言えてなくて。あとは旅行の本をくれた人はいました。

英会話学校には行きましたか。

大野:行ってないです。英語は話せたら格好良いなと思っていたぐらい。行かなきゃ、行かなきゃと思っていても時間がなくて行けなかった。

監督さんの説明は英語で聞いていて分かりますか。

大野:いやあ。2人で今のはこう言っていたよね、と確認を取ったりはします。ただアーセナルの監督は日本と近い感覚を持っているので、その部分でやりやすさというのはありますね。それを早く自分たちも理解してしっかり結果につなげていければ。ボードに監督が結構書いてくれるのですが、自分たちがメモする前にチームもさっさと帰ってしまうので、確認できない部分がちょっとあるんです。単語さえ分かればいいかなと思っています。

近賀:いくつかの表現は、やっぱりセンターバックなので言わなきゃいけないし、本当に何個かは最初に覚えなきゃというのはありました。ディフェンス・ラインを上げるタイミング、ここはラインを止めるタイミング、下がるタイミングとか、自分がマークを取るとか、マークを任せるとか、そういうことに関連した表現は必死で覚えました。

アーセナルのチームメートとはどうですか。

大野:チームメートはすごく優しいです。びっくりしちゃうぐらい優しくて、いつも2人で「優しすぎる」と言っています。アーセナルの男子の試合を初めて観に行ったとき、電車で行ったのですが、帰るときにすごいじゃないですか、人が。チームメートたちはきっとテケテケ自分のペースで行ってしまうんだろうなと思っていたんです。自分たちは迷子にならないように一生懸命ついていこうとしていたんですが、前に行きながら何度もウチラのことを確認してくれて。えー、すごく見てくれている、早く追いつかなくっちゃ、と。すごく気を遣ってくれます。練習中もこう言っているよとか説明してくれたり。まだ、じゃれ合うぐらいのコミュニケーションは取っていませんが。

近賀:想像していたよりも親切すぎてビックリしています。最初だけかなと思っていたら、1カ月ぐらいたってもまだ親切です。シャイな感じ、恥ずかしがり屋な感じがします。すごく心配してくれるというか、試合に行くときも、試合を観に行くかと聞かれているけど2人はどうするとか、あと車の送り迎えをしてくれることもありますし、とにかく何かと気にかけてくれます。練習中も、たぶん話しても分からないだろうなという感じだとは思うんです。それでも嫌にならずに話してくれる。分からないことがあったらセンターバックのチームメートに聞くと噛み砕いて話してくれますし、本当にビックリしています。

大野選手と近賀選手
英国ニュースダイジェストのオフィスでインタビューに応えてくれた、
大野選手(写真左)と近賀選手(同右)

チームの中ではどのように呼ばれていますか。

大野:「シノ」と呼ばれています。

近賀:「キンガー」です。

自分で判断するプレーの範囲はどうですか。

大野:日本の方が自分で判断しろという範囲は大きいと思います。こちらはシステムというか、すごくポジションにこだわるような気がします。

渡英されてから、2人で来て良かった、助かったと思うことはありますか。

大野:そんなの、毎日思っています。自分はサッカーをしに英国に来て、そのサッカーをする上で自分のことを理解してもらうことが一番重要だと思うので、そういう選手が1人でもいるというのは本当に楽ですし、自分としては助かっている部分は大いにあります。

近賀:チームメート全員に「シノにボールを預けとけばいいんだよ」って言いたいくらい。預けておけばチームはきっとうまくいく。そう信じることができる選手がいて、しかもその選手が自分のことを分かってくれている。1列前にそういう選手がいるというのは心強いの一言ですね。

プライベートはどうですか。

大野:出掛けてないですね。出掛けるとしたら近くのスーパーに買い物に行くぐらいです。テスコもありますし、サンズ……

セインズベリーズのことですか。オレンジ色のところですか。

大野:そう、そこに行ったりしています。

近賀さんはどうですか。

近賀:似ていますね。近くに英語のレッスンをしてくれている人がいて、この間はその人の家で日本食を振る舞ってもらいました。それで結構リフレッシュしたりとか、休日はそんな感じですかね。

自炊されていますか。

近賀:自炊です。日本のときから基本的には自炊です。パスタもゆでるだけですし。

大野:得意料理はないんですよ。お肉を焼いたりとかはできるじゃないですか。英国にもモヤシとかはあるので。あとはキンちゃんと一緒でパスタをゆでたりとか。

サッカー選手はよくパスタを食べるんですか。

大野:ウチラの考えでは、楽だからです。たぶん……(笑)。

渡英してから、お互いに対して意外な発見はありましたか。

大野:キンちゃんはクールなイメージなんですよ、日本では。すごくクールな近賀選手で通っているのに、こちらではふざけたキャラで通ちゃってるので。こっちに来て逆転じゃないですけど、皆とのコミュニケーションでもしゃべるし、英語で話そうともするし、今度、日本代表に行ったときにみんなにバラしてやろうと思っています。

アーセナル男子の宮市亮選手やチェルシー女子の大儀見優季選手との交流はありますか。

大野:宮市選手とは、渡英したばかりのころ、アーセナル側の手配で写真を一緒に撮ってもらう機会がありました。大儀見ちゃんはハイ、一回。彼女が所属しているチェルシーには韓国代表のチ・ソヨン(INAC神戸レオネッサ時代のチームメート)がいて、そのソヨンが誕生日だったので、キンちゃんと2人でサプライズに行ってという食事会はしました。ただ彼女たちがいるところは電車で1時間ぐらいと若干遠いので、ちょくちょく会えるという感じではないのですが。

リヨンでの経験は生きていますか。

大野:経験が生きていると感じている部分はあります。またリヨンに行って悔しい思いはしましたが、後悔はしていないので、アーセナルで同じことの繰り返しにはしたくないなと思います。

近賀選手は海外で暮らすのは初めてですね。

近賀:携帯でメールもできますし、パソコンではスカイプで話したりできます。まだホームシックは大丈夫ですね。Wi-fi の環境もすぐに整えてくれたりとか、すごくよく対応してくれました。後から聞いたらそんなスピードで準備を整えてもらえるというのは普通では無理みたいですね。本当によくチームからサポートをしてもらっているので、ありがたいです。

ロンドンで行ってみたいところは。

大野:観光名所には全部行ってみたいです。

近賀:ハリー・ポッターの名所にも必ず行かなきゃ。

大野:(ホグワーツ特急が発着するれんがの壁に)突っ込んでみたいですね。

5月18日(日)ホーム開幕戦!

アーセナル vs マンチェスター・シティ
大野選手、近賀選手を応援しよう!

5月18日(日)にロンドン郊外で行われるサッカー女子の国内リーグ、アーセナル・レディースのホーム開幕戦に行って、大野・近賀選手を応援しませんか。試合当日に英国ニュースダイジェスト本誌、またはウェブサイトの本記事のプリントアウトを持参した方には、試合会場で「Eikoku News Digest」と書かれた案内を持つスタッフより、両選手のサイン入り写真をプレゼント致します。試合後には、競技場内で選手と握手や写真撮影を行うことも可。当日は、ホーム開幕戦に臨む両選手を目一杯応援しよう!

● 日時:5月18日(日)14:00
● 場所:Meadow Park
  Broughinge Road, Boreham Wood, Hertfordshire WD6 5AL
● 入場料:£5(子供£2.50) *試合当日、競技場にて購入
● WEB:www.arsenal.com/ladies

ロンドンからの行き方

St Pancras International駅からFirst Capital Connect線に乗り、
「Elstree and Borehamwood」駅下車(乗車時間は約30分)。
駅を出てすぐ左手にある大通り「Shenley Road」を右に進み、
しばらくすると左手に見えるマクドナルドを通り過ぎてBrook Roadに入ると、
競技場の住所となるBroughinge Roadへとたどり着く。
競技場隣接の駐車場有り。


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マルセイユに行ってみよう

マルセイユに行ってみよう - フランス第2の都市で太陽を満喫!

ロンドンーマルセイユ地図日照時間が延びるこれからの季節、英国を飛び出して、
思う存分に太陽の光を浴びてリフレッシュしたい
―――そんなあなたにお勧めしたいのが、
南仏らしい穏やかさと港町の活気を併せ持つ
フランス第2の都市、マルセイユ。
日光の力でエネルギーをチャージしたら、
マルセイユが誇る文学、
建築、そして食の世界を堪能しよう!
(フランスニュースダイジェスト: Kei Okishima)

港町を見守ってきた800年の歴史
旅の始まりはノートルダム・ド・ラ・ガルドから

ノートルダム・ド・ラ・ガルド

ボンヌ・メール19世紀まで、貿易の中心地として栄えたマルセイユ。旧港の南の丘、147.85メートルの高台にノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院(Notre-Dame de la Garde)はそびえる。現在の寺院は19世紀に建築家エスペランデュによって建てられたものだが、歴史をたどれば基となった寺院は、1214年に丘の上に建てられていた。今年、誕生から800年を迎える。寺院の上には黄金に輝く9.72メートル、重さ約1トンの聖母マリア像が町を見下ろすように立っている。この黄金に輝く聖母マリアは「ボンヌ・メール(良き母)」と呼ばれ、これまで漁を、町を、そして住民を見守ってきた。内部のモザイク装飾は圧巻。内部には天井から幾つもの船がつる下げられていたり、海にまつわる絵画などが飾られていたりと、漁や平癒に対する感謝の気持ちから納められた奉納品が飾られている。ここから見るマルセイユは絶景。市内から徒歩で来るには、かなりの坂道を登ることになるので、バスが便利。

Basilique Notre-Dame de la Garde

Rue Fort du Sanctuaire 13281 Marseille
TEL:+33 (0) 4 91 13 40 80
開館時間:10月~3月 7:00~18:15 / 4月~9月 7:00~19:15
交通:Vieux-Portからバス 60番で、ノートルダム・ド・ラ・ガルドのパーキングまで。
www.rtm.fr

小説の舞台で一休み
モンテ・クリスト伯の舞台、イフ島へ

イフ島

1529年、フランソワ1世が町を守るための要塞として建設したイフ島の城、シャトー・ディフ。その後、逃亡不可能な建築スタイルと立地から、監獄として使用されるようになった。フランス革命のリーダーとなったミラボーもここに監禁され、「専制政治論」を完成させた場所として知られている。また、作家アレクサンドル・デュマは、フランスの新聞「ジュルナル・デ・デバ」に連載した「モンテ・クリスト伯(巌窟王)」の小説の舞台にシャトー・ディフを選んだ。主人公、エドモン・ダンテスは無実の罪でシャトー・ディフに投獄され、14年間をこのイフ島で過ごしたという設定だ。シャトー・ディフの窓からは、マルセイユの高台にそびえるノートルダム・ド・ラ・ガルドが見える。

シャトー・ディフ

Château d'If

Embarcadère Frioul If
1, Quai de la Fraternité, 13001 Marseille
4月1日~5月15日 9:30-16:45、
5月16日~9月16日 9:30-18:10、
9月17日~3月31日 9:30-16:45(月休)

アクセス

マルセイユ市内からイフ島までは
旧港からフェリーで約20分

イフ島行きのフェリー

Frioul If Express
TEL:+33 (0) 4 96 11 03 50
www.frioul-if-express.com

ル・コルビュジエの集合住宅を体感
Unité d'Habitation

ル・コルビュジエ20世紀最大の建築家と言われるル・コルビュジエが建てた巨大な集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」。中でも一番初めに建てられたマルセイユのユニテ・ダビタシオンは、今日でも世界中の人を魅了している。

この集合住宅は戦後復興期の1947~52年、理想的な生活のスタイルを実現するために作られた。137メートル×56メートル×24メートル、18階建てという巨大な建物の中には23種類の異なる部屋のタイプがあり、1600人が生活することができる。この集合住宅は一つの玄関ホールから出入りするようになっており、建物全体が一つの小さな町のようなコンセプトで作られている。1階部分はピロティになっていて、この巨大な建物を柱がしっかりと支えている姿は圧巻。ピロティのお陰で自転車を置いたり、自由に通り抜けることができたりと、ゆったりとしたスペースが確保されている。多くの部屋がメゾネット形式になっているため、エレベーターは3階、6階のように数階ごとに停止するのも特徴の一つ。中間階には共同のスペースや店舗があり、屋上にはプールや運動ができる場所などが設置されている。屋上ではマルセイユの空、海、山、そして太陽を満喫できる。

コルビュジエの建築内で宿泊

ユニテ・ダビタシオンの見学は、個人で見る分には無料で、売店などがあるエリアや屋上を見学することができる。しかしこの世界にゆっくりと浸りたい建築ファンやコルビュジエファンにお勧めなのが、同集合住宅内にあるホテルだ。部屋は16 平方メートルまたは32 平方メートルがあり、1~ 4 人まで宿泊可能。世界中のファンが予約をする人気ホテルなので、旅が決まったら早めに予約を取ろう。

ユニテ・ダビタシオン内にはミシュラン・ガイドにも紹介されているレストラン「Le Ventre de l'Architecte」がある。宿泊が難しい人は、こちらでゆっくりと食事を堪能してみては?

Unité d'Habitation

280, Boulevard Michelet 13008 Marseille

個人での見学(共有部分のみ可能)

毎日9:00-18:00

ガイド付き見学

火~土 14:30~、16:30~(各1h30、要予約)
www.marseille-tourisme.com
(Visites-GuidéesからLe Corbusier en exclusivitéを選択)

ホテル

Hôtel Le Corbusier
TEL:+33 (0) 4 91 16 78 00
www.gerardin-corbusier.com

レストラン

Le Ventre de l'Architecte
TEL:+33 (0) 4 91 16 78 23 
www.leventredelarchitecte.com

アクセス

マルセイユ駅から地下鉄2番線(Dromel方面)Rond Point du Prado駅下車。
その後21番、22s番、22番、22S番のいずれかのバスでLe Corbusier駅下車。

肌が喜ぶ植物オイル
職人が作るマルセイユせっけん工場を見学

マルセイユせっけんマルセイユのせっけんは、植物性のオイルと苛性ソーダを混ぜたもの。ルイ14世の時代の1688年10月5日、財務総監を務めていたジャンバティスト・コルベールにより、原料の油脂はオリーブ・オイルにすることなど、マルセイユのせっけん作りの製法が定められた。現在でも伝統的な方法で作られているマルセイユせっけんは、72%の植物オイルを含んでおり、かま炊きけん化法で植物オイルとソーダを煮詰め、その後、塩水で不純物を取り除くなど、約80時間の行程を経て生み出されている。

マルセイユせっけんを代表する「植物油脂72%」と刻印された600gのせっけんは、お土産にぴったり。ほかにも、南仏で特に有名なスポーツ、ペタンクの形をしたせっけんや、パスティス(後述)の香りがするせっけんなどもお勧めだ。また、特別注文で、結婚式の引き出物用に名前が刻印されたせっけんを注文する人や、生まれた赤ちゃんと同じ重さのせっけんを記念に作って欲しいという依頼を受けることもあるのだそう。面白いアイデアがあれば、ぜひ事前に問い合わせをしてみよう。

せっけん作り
左)圧延機に掛け、せっけん素地を均一にしている 右)最後に丸いせっけんの形にプレスする

せっけん作りを見学できるお店

Savonnerie Marseillaise de la Licorne  
34 Cours Julien 13006 Marseille
TEL:+33 (0) 4 96 12 00 91
www.savon-de-marseille-licorne.com
せっけん作り見学: 11時、15時、16時(日祝以外)、無料

憲章で守られている伝統スープ
ブイヤベース(La bouillabaisse)

その昔、漁師たちが売れそうにない魚や売れ残った魚などをスープにして食べたことから始まったブイヤベース(La bouillabaisse)は、今やマルセイユの代表料理として知られている。伝統的なマルセイユの本格派ブイヤベースは1980年に制定された「ブイヤベース憲章」で守られており、材料や調理法には決まりがある。魚は地中海の岩礁に生息するもので、ホウボウ、アンコウ、マトウダイ、カサゴ、足長ガニなどの中から4種類以上の魚を使わなければならず、エビ類や貝タコ、イカなどは入れない。ベースとなるスープは決められた小魚でだしを取ること。ほかに使用される材料は、塩、タマネギ、コショウ、パセリ、じゃがいも、ニンニク、オリーブ・オイル、サフラン、フェンネル、オレンジの樹皮など。ルイユという特製のソースと、ニンニクの香りが付けられたクルトンと一緒に提供される。最初にスープのみを客に出し、その後に魚を別の皿に盛り、提供するというのが基本的なパターンだ。

市街には複数のレストランがブイヤベースを提供しているが、きちんと料理をしているレストランでは待ち時間も長いので、余裕を持って行こう。また、量もかなり多めなことをお忘れなく。

ブイヤベース

お薦めレストラン

小さな港の前にあり、マルセイユの雰囲気にゆっくりと浸りながら
静かに過ごすことができるレストラン。
Chez Fonfon
140, Vallon des Auffes 13007 Marseille
TEL:+33 (0) 4 91 52 14 38
www.chez-fonfon.com

気になる伝統料理・菓子

ピエ・エ・パケPieds et paquets
ピエ・エ・パケ

羊の足と内臓をワインとトマト・ ソースで煮込んだ伝統料理。

ナヴェットNavette
ナヴェット

舟の形をしたビスケット。通常はクレープを食する2月の聖燭節(キリスト教の祭)にナヴェットを食べる習慣も。


ご当地ものにこだわってマルセイユでアペリティフ

アペリティフの歴史をたどっていくと、古代ローマ時代から存在していたことが分かる。古代ローマ人は食欲を増進させるため、食事の前に少しアルコールを含む特別な効能を持った飲み物を飲む習慣があった。アペリティフという言葉の語源は、ラテン語の「aperire =開く」というもの。この伝統は世紀を越えて受け継がれ、19世紀には食前に飲むすべてのアルコール飲料のことを「アペリティフ」と呼ぶようになった。マルセイユではアペリティフはとても大切。カフェやバーで、また友人を自宅に招いてゆったりとしたアペリティフの時間を楽しんでいる。日が長くなるこれからのシーズン、テラスのあるカフェでゆっくりと楽しもう。

マルセイユ生まれのリキュール「パスティス」

パスティスマルセイユのアペリティフとして欠かせないのが、マルセイユ生まれのアルコール、「パスティス(Pastis)」だ。パスティスの前身とも言われるのが、19 世紀、フランスの芸術家たちを魅了したアルコール「アブサン」。強い陶酔感と興奮をもたらすアブサンは、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ、ロートレック、ランボー、ボードレールなど、フランスにいた多くの芸術家を魅了した魔のお酒と言われている。しかし20 世紀に入りアブサンの製造が禁止され、その代わりにポール・リカールがアブサンの製法を改良して作ったのがパスティスだった。スターアニスやフェンネル、リコリスの香辛料が強いため、スーッとした後味が爽快感を与える。ちなみに「Pastis de Marseille(マルセイユのパスティス)」と表記するためには、アルコール度が45% 以上で1リットル当たり、2 グラム以上のアネトール(アニスの主成分)が含まれていなければならない。パスティスは水割りで飲むのが一般的で、水を入れると白く濁るのが特徴。慣れてきたらカクテルにも挑戦しよう。有名どころでは、グレナデン・シロップ(sirop de grenadine)を加えたLa tomate、ミントのシロップ(sirop de menthe)を加えたLe perroquet など。

La Cagole
マルセイユご当地ビール「ラ・カゴール」

マルセイユにノスタルジックな思いを抱える幼なじみの友達2 人が作ったビール・メーカー、「ラ・カゴール(La Cagole)」。ビールの色はマルセイユの旧港の水の色と同じだとか! 初めはパニエ地区の小さなブラッセリーで作られたそうだが、今やマルセイユのご当地ビールとして浸透し、市街のブラッセリーやバー、スーパーで購入できる。
www.lacagole.com

Fada Cola
マルセイユ発の炭酸飲料「ファダ・コーラ」

お酒はちょっと、という人には、マルセイユ発の炭酸飲料水「ファダ・コーラ(Fada Cola)」を。レモネードなどの炭酸飲料を展開している。ラ・カゴールも、ファダ・コーラも、パッケージのイラストがかわいいので、ちょっとした手土産にも喜ばれるかも。
www.fadacola.fr

ロンドンからの行き方

OUIGOロンドンからマルセイユまでは飛行機の直行便を利用するのが便利。ロンドンの各空港からマルセイユ・プロヴァンス空港までは格安航空便も飛んでおり、約2時間で到着する。同空港から市内までは、シャトル・バスでマルセイユ・サン・シャルル(Marseille-Saint-Charles)駅まで約30分、またはタクシー。

パリ旅行と併せてマルセイユも訪れたい、という場合には、フランス国鉄(SNCF)が昨年、営業を開始した格安列車ウイゴー(OUIGO)を利用する手もある。パリとリヨン、ヴァランス、アヴィニョン、エクス・アン・プロヴァンス、マルセイユ、ニーム、モンペリエを結んでおり、チケット料金は最安値のものだと片道10ユーロから販売している。所要時間は3時間強。ただし、パリの駅はRER線のマルヌ・ラ・ヴァレ・シェシー(Marne-la-Vallée-Chessy)駅となるので要注意。

OUIGO公式ホームページ www.ouigo.com
 

ルイス Lewes「本当の英国」を感じる地方の旅

「本当の英国」を感じる地方の旅 ルイス

ルイス

ロンドンでの暮らしに少し疲れてきたら、晴れ間が覗いた日にふと電車に乗っただけで非日常空間へとワープしてしまうような小旅行に出掛けるのがいい。

今回は、イングランド南東部イースト・サセックス州の街ルイスに注目。日本からの団体ツアーは立ち寄らない、しかし英国の地方ならではの魅力がいっぱい詰まったこの地をめぐる旅を紹介する。

ロンドンからのアクセス:
ヴィクトリア駅から列車で約1時間

ルイスってどんな街?

11世紀にフランスのノルマンディー地方から襲来してイングランドを征服したウィリアム1世(征服王)が、天下分け目の合戦「ヘイスティングスの戦い」で戦功を挙げた義理の兄弟であり忠臣でもあったウィリアム・ドゥ・ウォーレンに報奨として与えたのが、このルイスの土地だった。

13世紀には、国政への権限をめぐって当時のイングランド王であるヘンリー3世と有力諸侯たちが争った「ルイスの戦い」の戦場に。

またプロテスタントを迫害して「ブラディー・メアリー(血のメアリー)」と恐れられたメアリー1世の治世下となる16世紀には、プロテスタント信者たちがこの地で処刑された。その後、街の中心を流れるウーズ川近辺では、ビールの醸造所や造船所が集う港湾都市として栄えたという歴史を持つ。

本特集で紹介した歴史的建造物と数々のアンティーク・ショップは全て徒歩圏内に位置しているため、ロンドンからの日帰りでの小旅行に打ってつけの場所だが、夏季でもそれほど混雑していない。日曜日は多くの店が休業し、平日でも夕刻時を過ぎれば早々と店じまいをしてしまうなど、イングランドにおける典型的な小さな田舎町の趣を残している。

また街の近郊には、白亜の断崖が特徴的なサウス・ダウンズ国立公園や、毎年夏に大規模なオペラ音楽祭が開催される街グラインドボーンなどがある。

ルイスの地図(クリックすると拡大します)
ルイスの地図

1〜3絵葉書のような街並みを楽しむ街歩き

鉄道駅からルイス城へ至るまでには急勾配の坂が続く。道の両脇には個性的なお店がちらほら。遠景には丘陵地帯を切り裂くような白亜の絶壁がそびえ立つ。どの角度を眺めても美しい景色ばかりが目に入る、それがルイスという街の魅力だ。

1〜7掘り出し物を見つけるための買い物歩き

ルイスはアンティークの街としても知られている。街の中心部では毎日蚤の市が開かれ、また至るところにアンティーク・ショップがある。ロンドン市内に乱立する大手デパートやチェーン店では絶対に入手できない、味わい深い家具や置物は眺めているだけでも楽しめること請け合い。※②④移転しました。ご注意ください

 

 

1〜3絵葉書のような街並みを楽しむ街歩き

ルイス城1街全体を見下ろす石城
Lewes Castle ルイス城

ウィリアム征服王の臣下であったウィリアム・ドゥ・ウォーレンによって今から約950年前に建てられた城。高台の上に建てられた塔の上からは、街全体を見下ろすことができるだけでなく、緑に覆われた丘陵地帯と見事なコントラストを成す白亜の断崖などを眺めることができる。ルイスの戦いを前にして、ヘンリー3世の息子であるエドワード王子がこの城に潜伏したと伝えられている。

(写真上)ルイス城の一部を貫通する道は一般道路として利用されている
(写真下)受付で手渡された鍵をかざして門を開錠させると入場できる

169 High Street, Lewes BN7 1YE
(チケット売り場)
Tel: 01273 486290
10:00-17:00(11月以降は開館時間が変更)
£10
http://sussexpast.co.uk/propertiesto-discover/lewes-castle

2ヘンリー8世から元妻への贈り物
Anne of Cleves House Museum
アン・オブ・クレーヴズの家

Anne of Cleves House Museum自身の離婚問題を理由にカトリック教会から離脱したヘンリー8世。彼の4番目の妻であるアン・オブ・クレーヴズに離婚条件の一つとして与えられたのが、この木造の邸宅だった。だがアン元王妃自身がこの家を訪れたことはなかったという。チューダー朝の様式を忠実に再現した庭園には独特の風情がある。16~18世紀にかけてイングランド南東部で盛んだったという製鉄の技術に関する展示も充実している。

写真)街の中心部から若干離れているため、周囲は静けさに包まれている

52, Southover High Street, Lewes BN7 1JA
Tel: 01273 474610
木〜日 11:00-15:00(10月29日まで開館)
£6.60
http://sussexpast.co.uk/attraction/anne-of-cleves-house

3ピクニックするには絶好の場所
Southover Grange Gardens
サウスオーバー・グレンジ・ガーデンズ

Southover Grange Gardens万有引力を発見した科学者アイザック・ニュートンの先祖が所有していた邸宅とその広大な庭が、現在では一般開放されている。ガーデンの中心部には小川が流れ、廃墟のような囲いに仕切られた芝生の上には水仙やダリアが眩しいほどに咲き誇る。ランチを食べたり、お昼寝休憩をしたりするには絶好のスポット。

写真)地元民たちの憩いの場となっているガーデン

Southover Road, Lewes BN7 1TP
8:30-日没, 無料
www.visitlewes.co.uk/things-to-do/southover-grange-gardens-p1096611

 

 

1〜7掘り出し物を見つけるための買い物歩き

1うれしい驚きにきっと出会える
Flea Market 蚤の市

Flea Market毎週数千人単位が訪れるという蚤の市。翼を付けた女性の姿が彫られた戦没者記念碑の近くにある、かつて教会として使われていた建物の中で毎日開かれている。各種の家具を中心に、動物の剥製、アール・デコの置き時計をはじめとする骨董品が並ぶ。思わず悲鳴や笑い声を上げてしまうような変わり種の掘り出し物にもきっと出会えるはず。

(写真上)レンガ造りの教会の建物の中で蚤の市が開かれている(写真下)目印となる戦没者記念碑

14a Market Street, Lewes BN7 2NB
Tel: 01273 480328
10:00-17:00
http://flea-markets.co.uk

2古くて新しいセンスにあふれる店
Closet & Botts
クローゼット & ボッツ

クローゼット & ボッツそれぞれパティシエとディスプレー・アーティストとして働いていた2人が立ち上げたヴィンテージ・ショップ。アンティークなのになぜか最先端の流行を押さえていると感じさせるようなセンスある商品ばかりが並ぶ。経営者の2人は小型トラックに乗って欧州各地の蚤の市を1年中周っていて、「こんなアンティークを探している」という買い付けの要望にも応じてくれる。

写真)心が癒やされるような優しいデザインの商品が並ぶ

37 High Street, Lewes BN7 2LU
(196 High Streetから移転しました)
Tel: 01273 471486
月〜土 10:00-17:00
www.closetandbotts.com


3注射針を製造する工場だった
The Needle Makers
ニードル・メーカーズ

The Needle Makers第一次世界大戦中には注射針を製造する工場が置かれていたという敷地を転用した複合施設。ハンドメイドのジュエリー、ヴィンテージ服、手芸品などをそろえたショップ、ギャラリーに加えてカフェも併設している。レンガの壁、地下にある井戸、そして色鮮やかな雑貨の数々に彩られた店内にいると、童話の世界に紛れ込んでしまったかのような感覚を覚える。

写真)外観は工場跡の趣を残したまま

West Street, Lewes BN7 2NZ
Tel: 01273 480219
月~土 9:00-17:00、日 11:00-16:00
www.needlemakers.co.uk


4黒い建物が目印
No.1 Lewes
ナンバーワン・ルイス

No.1 Lewes手前にインテリアやキッチン用品、店の奥にガーデニング用のアンティーク製品を配置している。カフェやレストランが多数並ぶ通りの入り口に位置しているので、アンティークにあまり興味のない同伴者を近くで休憩させたりする際には好都合。

写真)キッチンやガーデニング関連商品が充実している

19 Cliffe High Street , Lewes BN7 2AH
(1Cliffe High Streetから移転しました)
Tel: 01273 477714
月~土 10:00-18:00、日 12:00-17:00
www.theshoplewes.co.uk


5やっぱり飲みたい地ビール
Harveys Brewery Shop
ハーヴェイズ・ブリューワリー・ショップ

Harveys Brewery Shopルイスの地ビールとして有名なハーヴェイズのビール醸造所に隣接したショップ。創業してから200年以上の歴史を誇る家族経営のブランドで、当代は8代目。醸造所の見学ツアーの予約が2年先まで埋まっているという信じられないほどの人気ぶりを見せている。ショップではハーヴェイズが製造する各種ビールを購入することができるほか、同社が販売を手掛けるワインや蒸留酒もそろえている。

写真)道を挟んだ反対側には
ハーヴェイズ直営のパブもある

6 Cliffe High Street, Lewes BN7 2AH
Tel: 01273 480217
火~土 10:00-17:00 日 11:00-16:00
www.harveys.org.uk


6非日常体験ができる古本屋さん
The Fifteenth Century Bookshop
ザ・フィフティーン・センチュリー・ブックショップ

The Fifteenth Century Bookshopその名の通り、15世紀に建造されたという建物の中にある古書店。児童書や挿絵付きの本を多く取り扱っている。同店の入り口から延びていく小石が敷き詰められた小道の風景と、頭を屈めなければ入ることができないほどの低い天井、そして店内に並んだメルヘンチックな本の数々が非日常体験を与えてくれる。

写真)人通りの少ない平和でひっそりとした場所にある

99-100 High Street, Lewes BN7 1XH
Tel: 01273 474160
土 11:00-17:00 日 12:00-17:00
www.oldenyoungbooks.co.uk


7ポーランドの陶器の里からの贈り物
Baltica バルティカ

Baltica陶器の里として知られるポーランド南西部ボレスワヴィエツから取り寄せた陶器を扱う店。深みのある紺色を使ったデザインは、目に安らぎを与えるような温かな美しさを醸し出している。バター入れやソース差しまでかなり多種の商品をそろえているので、英国の食卓を飾るアイテムが見つかること間違いなし。併設カフェでは、それらの陶器を使ってピエロギやビゴスといったポーランドの伝統料理が供されるという贅沢なおもてなしをしてくれる。

写真)バター入れだけでもさまざまな模様がある

145 High Street, Lewes BN7 1XT
Tel: 01273 483449
月~土 9:30-17:30、日11:00-16:00
www.baltictrader.co.uk


 

ルイスの食

7Bill’s

Bill’sロンドンをはじめとする英国各地で見かけるレストラン・チェーン「ビルズ」の第1号店。最初は果物や野菜を販売する屋台としてスタートしたが、2000年に発生した洪水の被害で営業停止に。翌年にレストランとして開業したところ大ヒットし、全国展開するに至った。気軽なカフェ・スタイルで朝食からディナーまで楽しむことができる。

56 Cliffe High Street, Lewes BN7 2AN
月~水 8:00-22:00、木〜土 8:00-23:00、日9:00-22:00
http://bills-website.co.uk/restaurants/lewes

7Flint Owl Bakery Cafe

自家製造を行うパン屋が、2013年に開業したカフェ。つまり、このカフェではまさに作りたてのパンを味わうことができる。しかもパンの製造には、フランスのアルプス山脈で採取した酵母菌を使っているという本格派。砂を敷き詰めた開放的な裏庭スペースでは、ベビー・カーを必要とするお子様連れのご家族でもゆったりとした時間が過ごせる。

209 High Street, Lewes BN7 2DL
Tel: 01273 472769
月~金 8:30-17:00 土 9:00-17:00 日 9:00-16:00
www.flintowlbakery.com

7Le Magasin

Le Magasinウーズ川を渡る橋の付近にあるカフェ兼レストラン。シチューやパスタといった定番メニューに加えて用意される「本日のお勧め」はいつも美味。テイクアウェイもできて、ほかの多くの独立系店が閉業となる日曜日でも営業しているのがうれしい。

50a Cliffe High Street, Lewes BN7 2AN
Tel: 01273 474720
月~水8:00-17:00、木~土8:00-22:00、日9:00-16:00
www.facebook.com/LeMagasinCafe
※閉店しました

7Lewesiana Tea Room & Florist

ルイス城のすぐ近くにあるので、城の散策を楽しんだ後の休憩にはぴったりのカフェ。花屋を兼ねているため、店内を彩るたくさんの花々が華やかで贅沢な雰囲気を演出してくれる。

85 High Street, Lewes BN7 1TN
Tel: 01273 483085(Tea Room)
月~土8:00-17:30、日11:00-16:00
www.lewesiana.co.uk
※閉店しました

ガイ・フォークス・ナイトの街

ガイ・フォークス・ナイト1605年にカトリック教徒の過激派によるロンドンの国会議事堂を舞台としたテロ未遂事件が発生。以来、11月初旬に平和を願って花火を打ち上げたり、実行犯の一人であるガイ・フォークスを模った藁人形を燃やしたりする習慣が定着した。ルイスは毎年、英国内で最大規模のガイ・フォークス・ナイトを開催。プロテスタント色の強い地域であることや、ルイスの戦いで諸侯が王に勝利したことから民主主義を脅かすテロ事件への強い反発が生まれたなど、ルイスがこのイベントを盛大に祝うようになった理由については諸説ある。


 

高田茜 英ロイヤル・バレエ団ダンサー インタビュー

ロイヤル・バレエ団ダンサー 高田茜インタビューロイヤル・バレエ団ダンサー 高田 茜インタビュー

ロイヤル・バレエ団入団数年にして数々の大役に抜擢され、日本人のみならず、目の肥えた英国のバレエ・ファンからも高い注目を集める高田茜さん。順調にキャリアを重ねていたが、2011年から12年にかけて、怪我で「眠れる森の美女」や「白鳥の湖」といった大作での主役デビューを断念せざるを得なくなるという事態に見舞われた。13/14シーズンは13年10月に「ドン・キホーテ」のキトリ役デビューで華々しくスタート。今月末には満を持して「眠れる森の美女」の主役オーロラ姫を踊る。シーズン途中の休暇を日本で過ごし、ロンドンに戻ってきたばかりという高田さんに、意気込みを語っていただいた。

ロイヤル・バレエ団ダンサー 高田 茜高田 茜(たかだ あかね)
1990年生まれ、東京都出身。2006年、NBA全国バレエコンクールで審査員特別賞を受賞。奨学金を得て同年からロシアの名門バレエ学校、ボリショイ・バレエ・アカデミーに留学する。08年2月、ローザンヌ国際バレエコンクールでプロ研修賞及び観客賞を受賞。同年9月にロイヤル・バレエ団に研修生として入団する。翌09年にアーティストとして正式入団。10年にファースト・アーティスト、11年にソリストに昇格。今シーズンは13年10月に「ドン・キホーテ」のキトリ役を踊ったほか、3月25日に「眠れる森の美女」のオーロラ姫デビューを控える。

 

3月25日に「眠れる森の美女」でオーロラ姫のデビューを迎えられますが、現在の心境は?

楽しみですね。早く踊りたい、という感じです。この作品ではほかの役も踊るので忙しすぎて、これまで(オーロラ姫の)リハーサルの時間が取れていなかったんです。今週は毎日時間が取れるので、それでどうにかまとまれば、と(笑)。

今回は、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団から移籍したばかりのスター・ダンサー、ワディム・ムンタギロフとパートナーを組むことになりました。

2月に入ったころでしょうか、ケヴィン(・オヘア。ロイヤル・バレエ団芸術監督)から聞かされて。もともとダヴィッド(・チェンツェミエック)と踊るはずだったのですが、彼が退団してしまったので、誰と踊るんだろうと思っていた矢先に、ワディムと組むと知らされました。あんな素晴らしいダンサーと踊ることになって、ちょっとプレッシャーもあるのですが、すごく良いパートナーですね。

以前一緒に踊られたことはあるのですか。 「良いパートナー」ということですが、具体的にどのようなダンサーなのでしょう。

過去に一緒に踊ったことは全くありません。これまで1週間ほど一緒に踊っていますが、パートナリングがすごく上手。やはり経験が豊富なので、安心して任せられます。とにかくノーブルな王子様ですね。どんと来い、みたいな感じで、受け止めてくれそうなダンサーです(笑)。

オーロラ姫と言えば、出ずっぱりで肉体的にも精神的にもかなりきつい役なのではないかと思います。

レスリー・コリア *1 とずっとリハーサルをしているのですが、やはり彼女から学ぶことが多くて。一緒にリハーサルすることができて、幸せです。この作品は3幕あるのですが、そのそれぞれでオーロラ姫は全然違うんですね。1幕のオーロラ姫は16歳で若々しく、2幕では王子の想像上の幻影、3幕では結婚する幸せいっぱいの女性と、全く違う女性を演じ分けなければなりません。(16歳から100年間眠りについていることから)オーロラ姫は116歳まで成長していく、なんてよく言われるんですけれども(笑)。16歳のオーロラ姫は素で出来ているようで、大丈夫と言われるんですが、2幕、3幕と成長していかなければならず、レスリーにもよく叱られています。

全幕物 *2 の主役ということで、肉体的にも厳しそうですね。

まだリハーサルで通して踊ったことがないので、どんな風になるのかちょっと怖いんですが(笑)。でも今シーズン初めに「ドン・キホーテ」で初めてフルレングス(全幕物)のバレエを踊ったので、その経験をアイデアとして生かせるかなと思っています。

「ドン・キホーテ」のキトリ役はいかがでしたか。

始めは一回だけの予定だったんですけれども、ロベルタ(・マルケス。同団プリンシパル)が怪我をしてしまったので、彼女の代役も含め計2回踊りました。初めてのことだらけでしたが、「ドン・キホーテ」は小さいころからずっと観ていた作品ですし、新しい振り付けもあって、すごく楽しかったですね。思ったほど緊張もしなくて。何と言っても楽しいバレエですから。

普段からあまり緊張はしないタイプなのですか。

緊張はしますが、舞台に出たら忘れて踊ってしまいますね。でも日によるかもしれません。主役でなくても、舞台上で考え過ぎてしまうと、良い踊りはできていないのだろうな、と感じます。毎回、パーフェクト目指してやっているつもりですが、その都度、新たな課題が出てくるので難しいですね。

「眠れる森の美女」や「くるみ割り人形」といった古典作品を踊られる一方で、ウェイン・マクレガー作品などのコンテンポラリーものも数多く踊られていますが、個人的な好みややりやすさといったものはありますか。

クラシックは3歳のときからやっているので、通常のステップは体に染みついています。コンテンポラリーに関しては、ウェインの作品はたくさん踊っているので今は慣れてきたという感じでしょうか。それでも新しい作品を作るのは大変。クラシックのステップから少し外れたところでやらなければならず、体が慣れていないので慣れるまでは厳しいですね。ウェインの場合はリピート、リピートで100%を求めてきますので、ほかの作品のリハーサルがあって両立しなければならないときはへとへとになります。今シーズンはいつもよりプログラム数が一つ少ないのですが、「ドン・キホーテ」と今度上演されるクリストファー・ウィールドンの「冬物語」というフルレングスの新作が2本、そのほかにも新しいものがありますので大忙しです。

入団以来、順調にキャリアを積み重ねてこられましたが、2、3年ほど前に怪我で「眠れる森の美女」や「白鳥の湖」の大役を降板されました。その後、復帰されて心境などに変化はありますか。

左足の膝の関節部分を怪我したのですが、今も治ってはいません。もともと若いころに怪我して、弱い部分なんです。(ダンサーにとって)怪我はつきものなので、してしまうときにはしてしまうんですが、それでもできるだけ予防できるよう、マネジメントをしつつ毎日エクササイズを欠かさずするようにしています。

今後踊りたい演目や役柄はありますか。

いつかやりたいのは――皆やりたいと思いますけれども――「ロミオとジュリエット」。クラシックだけではなく、ロマンティック・バレエ、もう少し年を重ねたら「オネーギン」のタチアナ役もできれば、と思います。

将来はどんなダンサーになりたいですか。

(自分の)内にくっと閉じ込めてしまって外に出していないのかな、お客さんに伝わっていないのかな、自己満足で終わってしまっているんじゃないかな、とずっと気になっているんです。「伝えられるダンサー」になりたいですね。レスリーはちょっと踊るだけで全然違うんです。目とかキラキラしていますから。自分は地味なので、もうちょっと「キラキラ~」となれれば(笑)。近い将来は無理ですけれども、いずれはそういうダンサーになりたいなと思います。

リハーサル直後。くっきりとしたメイクもそのままに、インタビュー場所であるバレエ団のオフィスの一室に現れた高田さん。その華やかな笑顔は舞台上の彼女を彷彿とさせる一方で、ときに消え入りそうな小さな声音でおっとりと話し、休暇明けで夜の公演がないため、この後は家に帰ってハンバーグを作りますとうれしそうに語る様子からは、オーラがくっきりと輝いて見えるような陽性の雰囲気を全身に纏い、日々2000人以上もの観客を魅了するダンサーとしての姿は想像しがたい。

数年越しとなる「眠れる森の美女」の主役デビューを目前に控えても構えすぎることなく、心身ともに充実した毎日を過ごしていることを感じさせるその姿に、オーロラ姫という一人の女性が成長していく様をどのように表現してくれるのか、期待が膨らんだ。

*1:元同団プリンシパル。現在は後進の指導に当たる
*2:一つの物語をすべて上演する形態

 
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