誰が味方で誰が敵なのか――権謀術数渦巻く20世紀半ばに暗躍した
4人の英国人スパイたち。
彼らの正体が明らかになったとき、英国内が大いに揺れたのは、
彼らの生まれ育った背景にあった。
裕福な家庭の出身で、名門パブリック・スクールを経て
ケンブリッジ大学を卒業した同窓生たち。
そんな彼らがなぜ、ソビエト連邦のスパイに自らの人生を捧げたのか。
英国の現在にもつながる当時の時代背景を知ることで、その理由をたどってみたい。
1930年代のエリート学生が見た現実
1956年2月11日。ソ連・モスクワのホテルの一室で、ジャーナリストたちを出迎える2人の男性の姿があった。ドナルド・マクリーンとガイ・バージェス。1951年に英国から突如姿を消し、メディアを騒がせた外交官2人が、5年の年月を経てついに公に姿を現わした瞬間だった。ジャーナリストに手渡された共同声明文には、自分たちがスパイではないと主張する一方で、ソ連に対する共感を示し、イングランドを去ってソ連に来たのは、「ロシアにのみ、自らの信念を何らかの形で実現する機会がある」と信じたからだと訴える言葉。これが後に「ケンブリッジ・ファイブ*」と呼ばれることになるケンブリッジ大学を卒業したスパイたちの全貌があぶり出される序曲となる。
ドナルド・マクリーン、ガイ・バージェス、キム・フィルビー、アンソニー・ブラント。第二次大戦から冷戦期にかけて、ソ連のスパイとして活動していた英国人4人に共通していたのは、いずれも中流階級以上の恵まれた環境に育ち、同時期に英国最高峰の大学、ケンブリッジ大学で学び、MI5(保安局)やMI6(秘密情報部)、外務省といった情報・外交当局の中枢で活躍した生粋のエリートたちであるという点だった。本来ならば国を背負って立つはずの彼らがなぜ、よりにもよって共産主義国家のソ連に機密情報を渡していたのだろうか。

1932年、ロンドンのトラファルガー広場に集まる
ハンガー・マーチ参加者たち
英国全土を覆った不況の影
この謎を解き明かす一つのキーワードが「不況」だ。1929年10月には米ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。世に言う世界恐慌が始まった。英国にも不況の嵐が吹き荒れ、一時は300万人近くの失業者が出たとされる。国内各地で失業者や低所得家庭出身者たちを中心にハンガー・マーチ(飢餓行進)が行われ、ケンブリッジでもその姿を見ることがあったという。裕福な家庭に生まれ育ったケンブリッジ大学の学生たちにとっては、貧困を肌で感じ、資本主義の崩壊を予測させる衝撃的な光景だったのかもしれない。
労働党の「裏切り」
1929年、英国で行われた総選挙で労働党が初めて第一党となり、同党による単独政権が誕生した。しかし緊縮財政を敷いたことなどから1931年に内閣は分裂・崩壊。その後、首相のマクドナルドは保守党、自由党とともに挙国一致内閣を発足させた。こうした労働党本来の主義・思想から離れた動きは、理想に燃える左派の若者の目には、「裏切り」とも映った。若いころから「強く、裕福で、傲慢な人々に比べ、弱く、貧しく、恵まれない人々に対して深い精神的つながりを感じていた」というフィルビーは、労働党の社会主義に対する「裏切り」が、労働党に代わる存在、すなわち共産主義へと自らを導いたと語っている。
ファシズムに対抗する唯一の手段

左)ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラー
右)イタリア・国家ファシスト党のベニート・
ムッソリーニ
1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を獲得。イタリアでは国家ファシスト党のベニート・ムッソリーニが独裁体制を確立していた。英国でも1932年に結成された英国ファシスト連合が保護貿易主義などを謳い失業者や労働者にアピール。党員には貴族や軍人なども多かった。また、着々と領土拡大を進めていたナチス・ドイツに対し、英国政府は戦争回避のために宥和政策(ゆうわ)をとり続けていた。こうした流れに対し、当時の高学歴の若者たちの間には、ファシズムに対抗できる唯一の手段として共産主義を信奉する者が多かったという。ブラントは晩年、「1930年代半ばには自身も同世代の多くの若者たちも共産党とロシアだけがファシズムに対抗する確固たる防波堤に見えた」とし、スパイになった理由を「国への忠誠」か「政治的良心」のうち、「良心を選択した」結果だと主張した。
システムの主軸から外れた指向
1930年代、同性愛は罪とされていた時代にあって、パブリック・スクールや名門大学では同性愛が「公然の秘密」として存在していた。公になれば身の破滅、しかし表立って分からなければ問題がない。そして卒業すれば今度は同性愛者を取り締まる側になる――そんな欺瞞とも偽善とも言える状況があった。ケンブリッジ・ファイブ4人のうち、バージェスとブラントは同性愛者、そしてマクリーンは両性愛者だったと言われている。その性的指向が実際にどの程度彼らの決断を左右したかは定かではないが、真実の姿を隠して生きていくという生活を強いられていたのは確かだろう。また、フィルビーは幼いころから無神論者で祖母を嘆かせ、早い段階から社会的弱者への共感を高めていたとされる。望むと望まざるとにかかわらず、彼らは支配階級にいながらしてシステムの主流からは一歩外れた場所に生きた人間だったと言えるのかもしれない。

ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジ
当時、ソ連の情報機関・秘密警察であるソ連国家保安委員会(KGB)は、将来、英国を動かすことになる才能豊かな若者を英国内の名門大学で「青田買い」することに注力していた。多感な大学生時代に共産主義やソ連への共感を強めていた4人は、恰好の漂的となったことだろう。
大学という象牙の塔を出て、第二次大戦、冷戦という激動のときをスパイという立場で生きた彼らの信念は、現実を目の当たりにして揺らぐことはなかったのだろうか。第二次大戦では英・ソはともに連合国側であったことから、国を裏切るというよりも、自らの信じる道を突き進んだという意識の方が強かったのかもしれない。しかしその一方で、当時のKGBの記録には、KGBが彼ら4人を英国のスパイなのではないかと疑い、その素性を明らかにしようとやっきになっていた様子が記載されている。家族や友人、同僚を欺き、仲間からは疑われる日々。そして1951年にマクリーンがスパイであることを英当局に感づかれ始めたことから連鎖的に4人の正体が明かされていき、ブラント以外の3人はソ連へと亡命。ブラントは英国内で衆目にさらされることとなる。
ソ連にわたった3人は、その後の人生を彼の地で過ごした。「生まれ変わってももう一度同じ人生を送る」とうそぶく者がいれば、「人生の最大の間違い」とスパイとしての生き方を悔いた者もいたという。欺瞞に満ちた半生を送った彼らの心の奥底に最後に残ったものが何なのか、公になった様々な言葉や証拠も、その真実を明かしてはくれない。ただ、時代の波が青い理想に燃える若者たちをスパイの道へと進む後押しをしたとは言えるのではないだろうか。そして、不況、政権への不信、極右の台頭と時代は繰り返し、冷戦は終わりこそすれ世界各地でテロリズムが跋扈(ばっこ)する現在、彼らの歩んだ人生は、遠い昔に起こった別世界の物語であるとは言い切れないのだ。
*ケンブリッジ・ファイブと呼ばれているが、5人目については公に認められておらず、数人の名が挙がっている
ケンブリッジ・ファイブ
重なり合い、離れゆくそれぞれの人生
ソ連になじんだ外務省エリート
ドナルド・マクリーン
Donald Duart Maclean
1913-1983
大物政治家の息子として生まれ、大学卒業後は外務省に勤務。スパイとして活動しているうちに精神的に追い詰められていったものの、ソ連に亡命後には同地になじみ、英国外交の専門家として活躍した。
1913年、ロンドン生まれ。父親は自由党の政治家で影の首相を務め、マクドナルド挙国一致内閣でも活躍したドナルド・マクリーン。リベラルで進取の精神にあふれた学校として知られたグレシャムズ・スクールを経て、1931年にケンブリッジ大学のトリニティー・ホールへ入学、専攻は現代語。最終学年のとき、アンソニー・ブラントによりソ連の諜報部に勧誘されたと言われる。
卒業後は外務省へ。ソ連側のスパイ管理者の女性と恋愛関係に陥り、数年にわたり関係を続けたが、1940年には裕福な米国人女性メリンダ・マーリングと結婚。スパイの中には家族にもその真相を明かさない者も多いが、メリンダは共産主義者との親交もあり、マクリーンは自身の立場を伝えていたという。
1938年、在仏英大使館書記官に。その後ロンドン勤務を経て、1944年から48年まで在米英大使館の一等書記官として働く。後半には原子力爆弾開発計画に関する英米の合同政策委員会に所属し、原爆関連の情報をソ連に流していたと言われている。その後は在エジプト英大使館参事官に任命されたが、このころから飲酒量が増え、精神的にも不安定な部分が見られるようになったという。
1951年、外務省米国課長としてロンドンに滞在しているときに、スパイ容疑者の一人として名が挙がる。機密文書へのアクセスも禁じられる中、同年5月25日、38歳の誕生日当日に、バージェスや家族と食事をした後、バージェスとともにサウサンプトンからパリ経由でソ連へ向かった。当局の尋問が予定されていた実に3日前のことだった。
ソ連ではロシア語を学び、西側諸国の経済政策及び英国外交の専門家として活躍、ソ連外務省や世界経済・国際関係研究所などに勤務した。労働赤旗勲章及び戦闘勲章を受勲し、ソ連共産党にも入党する。
妻のメリンダと子供たちはマクリーンの亡命後1年以上経った後にソ連へやって来たが、1964年、メリンダとフィルビーの不倫が発覚。その後、フィルビーは妻と離婚したものの、メリンダは2年後にマクリーンの元に戻る。1983年に心臓発作で死去した。
最もスパイらしくないスパイ
ガイ・バージェス
Guy Francis de Moncy Burgess
1911–1963
友をして「うるさく、飲んだくれでだらしがなく、人の注目を集めるのが大好き」と言わしめたガイ・バージェスは、「最もスパイらしくないスパイ」と言われた異色の人物だ。派手な交友関係を持ち社交的だったバージェスは、それゆえにソ連での亡命生活にはなじめず、故郷を懐かしんでいたという。
イングランド南西部デボン出身。海軍将校を父に持つバージェスは、イートン・カレッジを経てダートマスの海軍兵学校に通っていたものの退学。その後ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに進み、近代史を学んだ。在学中は、ブラントとともに同大のエリート・グループ「ピット・クラブ」及び秘密結社「アポスルズ(使徒会)」*(下記参照)のメンバーとして活動していた。
スパイになったタイミングと経緯については他メンバー同様、いくつかの説があるが、1934年ごろにはナチス寄りの立場をとる団体に加入していたことなどから、このころには隠れ蓑として右翼活動に従事しつつ、スパイとして活躍していたのではないかとみられる。
大学卒業後は保守党議員のアシスタントとして働いた後にBBCに入社。その後、MI6の秘密工作活動を専門とするセクションDに勧誘され、プロパガンダ専門家として働くも、間もなくBBCへ戻り、ラジオ・プロデューサーとして政治ラジオ番組など様々な番組を制作。このころ、政府要人との知己を得た。
ロンドンでは、戦時中、ボヘミアンの拠点の一つとして知られたロスチャイルド卿所有のフラットでブラントやテレサ・メイヤー(後のロスチャイルド卿の妻)と同居していたことも。バージェスとブラントがともに同性愛者だったこともあり、2人が一時恋愛関係にあったとする向きもあるが、ブラントはその噂を否定している。
1944年には外務省の情報部に所属。翌年には同省の外交担当大臣のアシスタントとして働くようになった。同省極東局に勤務した後、二等書記官としてフィルビーが勤務する在米英大使館へ。ワシントンではフィルビーと同じフラットに同居していた。1951年5月、スパイ容疑がかかっていたマクリーンをソ連に亡命させるため、3回の交通違反を意図的に行い、英国に送還された上でマクリーンに会い亡命計画を伝達。バージェス自身に疑惑がかけられていたわけではなく、当初亡命するのはマクリーンのみの予定だったが、ソ連側に指示されてともにソ連へわたったとされる。
派手な生活を好んでいたバージェスは、ソ連でも英国風の生活を続けた。ロンドンから家具を運ばせ、オーダーメイド紳士服店の集まるサヴィル・ロウのスーツを注文していたという。ホームシックにかかり、飲酒癖はさらに悪化。英国の代表団がモスクワを訪れた際には、母の死に目に遭いたいと英国への帰国を願い出たがかなわず、52歳で死去。遺体はイングランド南部ハンプシャーにある母親の墓に入れられた。
MI6長官候補にまでなった野心家
キム・フィルビー
Harold Adrian Russell (Kim) Philby
1912–1988
ソ連のスパイでありながら英国諜報機関のトップであるMI6の長官候補にまで上り詰めたキム・フィルビー。自らの正義を貫くために独裁者のそばで働くことも厭わなかった強い信念の持ち主は、一方で4度の結婚を経験し、友でありスパイ仲間であるドナルド・マクリーンの妻とも関係を持つ恋多き男でもあった。
1912年、英国領インド帝国のアンバラ生まれ。父のセント・ジョン・フィルビーはイスラム教に改宗した高名な作家にしてインド高等文官で、サウジアラビア国王の側近としても活躍した人物。名門ウェストミンスター・スクールを卒業後、1929年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学し、歴史及び経済学を専攻。在学中に同地で行われたハンガー・マーチに参加するなど政治活動に熱心だったという。
卒業後、オーストリアでナチス・ドイツからの亡命者の救援活動を行っていたときにユダヤ系の共産党員リッツィー・フリードマンと出会い、結婚。ファシズムの台頭により、数カ月後にはリッツィーを連れて帰国した。一説によるとフィルビーは、ロンドン在住のリッツィーの友人であったソ連の諜報員経由でスパイになったとされる。
1937年にはジャーナリストとして内戦まっただ中のスペインへ。やがて「タイムズ」紙の記者となり独裁者フランコ寄りの記事を執筆するようになる。1940年にバージェスが所属していたMI6のセクションDで働き始めたフィルビーは、1944年、対諜報部門セクションVのトップにまで上り詰めた。
1949年には在米英大使館に一等書記官として赴任。MI6と米中央情報局(CIA)の渉外担当責任者としても活動した。翌年にはバージェスが同大使館での勤務を開始し、フィルビー宅に同居するように。大酒を飲み、素行に問題のあったバージェスを監視する意味合いもあったと言われている。着々とMI6内での足場を固め、末は長官候補とも目されていたフィルビーだったが、マクリーンにスパイ容疑がかかっていることを知り、バージェスとともにマクリーンをソ連に亡命させたころからその人生に綻びが生じ始める。
自らもスパイ容疑をかけられたフィルビーは、解雇される前にMI6を去り、1956年にはジャーナリストとしてレバノンへ。しかし1961年、米国に亡命した元KGBにより身元を暴露され、1963年1月、ソ連へ亡命した。
ソ連では当初、フィルビーが英国に戻ることを恐れた当局により軟禁状態に置かれたが、10年後からはKGBで勤務するように。ソ連政府から数々の勲章を受けた。同地でも「タイムズ」紙を読み、BBC放送を聞き、クリケットを愛し続けたフィルビーは、晩年に行われたインタビューでは自分の決断を後悔してはいないと語ったが、当時のロシア人の妻は後に、彼がモスクワで「色々な点に失望していた」ことを明かしている。1988年に心不全で死去。
王室と深くかかわった美術史家
アンソニー・ブラント
Anthony Frederick Blunt
1907–1983
パブリック・スクールのころからエリート・グループの一員になるなど才気の片鱗を垣間見せ、英王室とも深いかかわりを持っていたアンソニー・ブラント。他の3人と異なり、仲間の名を明かして身を守り、英国に留まり続けたブラントは、偽りの人生を生きるスパイの中でもその真情が見えにくい人物である。
イングランド南部ハンプシャー出身。父は教区牧師。母はエリザベス女王の母、クイーン・マザー(エリザベス・ボーズ=ライアン)の親戚筋に当たり、幼いころはロンドンのボーズ=ライアン家でお茶を楽しむなどしていたという。名門マルボロー・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティー・カレッジへ入学(現代語専攻)。在学中はバージェスとともに「ピット・クラブ」「アポスルズ」に所属していた。卒業後も特別研究員として同大学に留まり、KGBのスカウトマンとして何人もの学生をスパイに勧誘したとされる。ブラントがスパイとなった経緯については、同大の特別研究員としてソ連を訪ねたことがきっかけで勧誘されたとする説もあるが、ブラント自身はバージェスに誘われたと語っている。
1939年、英国陸軍の諜報部隊で活動した後、1940年にはMI5に勧誘される。MI5では解読されたナチス・ドイツ軍のエニグマ暗号文の情報をソ連側に渡すなどしていたという。
1945年にジョージ6世の絵画鑑定士となり、同国王崩御後はエリザベス女王の元でも活動を続け、27年にわたり同職に留まった。1947年にはロンドン大学美術史教授及びコートールド・インスティテュート・オブ・アートのディレクターになり、美術史家としての地位を確固たるものにした。
1951年にマクリーンとバージェスがソ連に亡命すると、親交のあったブラントもスパイとして疑われるように。MI5の度重なる尋問に対し、否認を続けていたが、1963年に、かつてブラントがスパイに勧誘した米国人のマイケル・W・ストレートがMI5に対し、ブラントがスパイであることを暴露。翌年、自らもそれを認める。その際に複数のスパイの身元を暴露することで、15年間はスパイであることを非公式にされるとともに訴追免責の特権を与えられた。
驚くべきことにブラントは、その後も女王の絵画鑑定士を続けるなどそれまでとさほど変わらぬ生活を送る。しかし1979年に作家のアンドリュー・ボイルが、ブラントが「第4の男」であることを示唆する著作を出版するのを差し止めようとしたことがメディアにすっぱ抜かれたことから事情が一転。同年11月にはときの首相、サッチャーが下院でブラントの名前を公表した。このニュースは世間を大いに騒がせ、1956年に受勲したロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・コマンダー(2等)ははく奪。しかし美術史家としての活動は続けた。
晩年、ソ連のスパイだったことは「人生最大の間違い」と供述。1983年、ロンドンの自宅で心臓発作により死去した。
「第5の男」とその他のスパイたち

ケアンクロスが勤務していた政府の暗号学校
「ブレッチリー・パーク」
ケンブリッジ・ファイブのうち、これまで公に認められているのはマクリーン、バージェス、フィルビー、ブラントの4人。5人目に関しては、複数の関係者が4人と同時期にケンブリッジ大学に在籍していたジョン・ケアンクロスであると主張している。ケアンクロスはバージェス、ブラントとともに「アポスルズ」のメンバーで、卒業後、第二次大戦中にはエニグマ暗号解読などを行った政府の暗号学校「ブレッチリー・パーク」などで勤務した。
ケアンクロス以外にもスパイとして疑われていた人物は複数おり、アポスルズでバージェスらと親交を深め、卒業後も長年友人関係を保っていた名門ロスチャイルド家のロスチャイルド卿や、同じくバージェスらの友人だったMI5の副局長、ガイ・リデルらの名が挙がっていた。
自由や美を謳歌した「アポスルズ(使徒会)」

ケアンクロスが勤務していた政府の暗号学校
「ブレッチリー・パーク」
ケンブリッジ大学のキングス・カレッジ、トリニティー・カレッジ、セント・ジョンズ・カレッジなどの学生たちからなる創立1820年の秘密結社。もともとは討論グループとして始まり、創立メンバーが12人であったことから「十二使徒」にちなんでこの名が付けられた。バージェスとブラント、そして5人目の男とされるケアンクロスが同グループのメンバーだった。
同性愛者や両性愛者のメンバーが多く見られ、また第一次大戦時には良心的兵役拒否の立場をとる者もおり、旧態依然とした価値観に対抗し、自由や美を謳歌した。20世紀初めには作家のE・M・フォースターや経済学者のジョン・メイナード・ケインズらそうそうたる人材が集結。彼らはやがて、ヴァージニア・ウルフらとともに文学者や芸術家らの集まりを結成、ブルームズベリー・グループと呼ばれるようになる。
スパイが活躍する英国映画&テレビ・ドラマ
007シリーズのジェームズ・ボンドを始め、英国では今でもスパイ映画の人気は高い。ここでは、ケンブリッジ・ファイブが活躍した時代を描いた映画、テレビ作品を紹介する。
Another Country アナザー・カントリー
1981年の芝居を映画化した作品で、主人公はバージェスをモデルにしている。パブリック・スクールを舞台に、同性愛者であるガイ・ベネットと、マルクス主義者のトミー・ジャッドを中心とした人間模様を描く。脚本を手掛けたジュリアン・ミッチェルは、1930年代のエリート学生がスパイになる理由として、当時の政治・経済情勢とともに同性愛者であったことに着目、そこから話を展開させたと語っている。
(Marek Kanievska) Rupert Everett, Colin Firth, Cary Elwes
Tinker, Tailor, Soldier, Spy 裏切りのサーカス
スパイ小説家ジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を映画化。冷戦下、MI6(サーカス)に入り込んだソ連KGBの二重スパイ「もぐら」の正体を突き止めるために奔走する諜報部員らの姿を追う。この「もぐら」のモデルはフィルビーであると言われている。原作者のル・カレは、MI5及びMI6に勤務していた経歴を持っている。
(Tomas Alfredson) Gary Oldman, Colin Firth, Tom Hardy
Cambridge Spies ケンブリッジ・スパイズ
BBC制作のミニ・ドラマ・シリーズ。全4話。ケンブリッジ・ファイブ4人の学生時代から、1951年にマクリーンとバージェスがソ連に亡命するまでの期間を網羅している。すべてが実話というわけではなく、若き青年たちが苦悩し、理想を追い求め、追い詰められていく様子をドラマティックに描いている。
(Tim Fywell) Tom Hollander, Toby Stephens, Samuel West
参考文献: Twentieth-Century Spies (Neil Root), Anthony Blunt: His Lives (Miranda Carter), My Silent War (Kim Philby), BBC Archive, Daily Telegraph, Another Country (2013 Theatre Programme), 図説「イギリスの歴史」(河出書房新社)など



在留届は提出しましたか?



左)ウィンブルドンにある室内練習場で実践練習を行うBGGたち






















今回参加したのは、ストラトフォード・アポン・エイボン近郊で約15年にわたりナロー・ボート運営をしているというアンディーさん、淳子さんのブラウン夫妻が経営を行う「Narrowboat Guide」。ときに河岸を散歩し、ときにお2人からナロー・ボートの歴史や面白エピソードをうかがいつつ紅茶やコーヒーを味わう船旅は、のんびりゆったりしているのにあっという間に時間が過ぎてしまう。街の観光と併せてショート・クルーズを楽しむも良し、宿泊コースで地元のパブの夕食を楽しみながら船上で一夜を過ごすも良し。古き良きイングランドの水辺の生活を、ここストラトフォード・アポン・エイボンで垣間見てみては?








ウィリアム・シェイクスピアは1564年4月23日、イングランド中部ウォーリックシャーに位置するストラトフォード・アポン・エイボンでその生を受けた(*1)。父のジョンは皮手袋職人で、羊毛取引などで財を成し、後には町長にまで登り詰めた地元の名士、母のメアリー・アーデンは、ジェントリー(紳士階級)出身。恵まれた環境で育ったものの、父親はシェイクスピアが10代前半のころ、地位も財産も失ってしまう。1582年には18歳で近隣の村ショッタリーにある農家の娘で8歳年上のアン・ハサウェイと結婚。3人の子供に恵まれたが、20歳のときに突如姿を消し、数年後にはロンドンの劇壇で活躍するようになる。


エイボン川を臨み、街を睥睨(へいげい)するレンガ造りの堂々たる建物は、英国が誇る劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが拠点にしている劇場。大・中・小の劇場を抱え、シェイクスピア作品はもちろん、現在はロンドンで上演中の「マチルダ」など子供向けのミュージカルなども制作している。観客の目と鼻の先で役者が演技を繰り広げ、ときに観客に語り掛けることもある張り出し舞台は迫力満点だ。
現在上演中の芝居の大道具もそのままの舞台裏から客席、最高責任者が使用するコントロール・ルームに至るまで、劇場の隅から隅まで見ることのできる人気のツアー。芝居で使う血液や、役者の驚くべき早替えの秘密など、シェイクスピア・ファンでなくても満足できる充実の内容だ。
劇場上部に位置し、界隈を一望できるブリティッシュ料理レストラン。美しい盛り付けの料理の数々に舌鼓を打った後に芝居を観れば、身も心も満足できるはず。なお、壁の上部に3脚の椅子が貼り付けられているのが目につくが、これは改築前の劇場の客席をそのままの位置で残しているのだとか。
街のシンボル的存在であるこの建物内でシェイクスピアは生まれ、結婚後数年して引っ越しをするまでの年月を過ごした。隣接するシェイクスピア・センターで世界各国のシェイクスピア関連書物やアートを観てから家の内部へ。庭では当時の衣装に身を包んだ役者たちが即興劇を繰り広げている。ときには観客も参加して、家の2階と庭で「ロミオとジュリエット」の一場面を演じることも。
シェイクスピアの妻であったアン・ハサウェイの生家。こんもりと曲線を描いた茅葺屋根にハーフティンバーの壁面がチャーミングな家と広々としたガーデンが、牧歌的な風景をつくり上げている。花々が咲き誇るガーデンには、柳の小屋や、現代的な彫刻の数々も。シェイクスピアにヒントを得て作曲されたという音楽を聴きながら*、遊歩道をゆっくり散策してみよう。
シェイクスピアの長女スザンナは1607年、地元在住の医師ジョン・ホールと結婚した。医者の家だけあって、内部には診察室があるのに加え、調薬器具、医療書などのユニークな展示物も。静けさに満ち、整然としたガーデンには、当時は治療にも利用されていたというハーブなどが植えられている。
シェイクスピアが通ったとされるこの学校は、1295年創立の教育施設をエドワード6世が16世紀に再設立したものなのだそう。ブレザー服姿の生徒たちが闊歩し、バンドの音楽が鳴り響く校舎は、外から見る限りほかの学校と何ら変わりないが、シェイクスピアが学んだという教室(ビッグ・スクール)は、当時の面影そのまま。ごく限られた期間のみ一般公開され、現役の生徒のガイドで見学することが可能。
ナッシュの家は、シェイクスピアの孫、エリザベスが最初の夫、
トマス・ナッシュとともに住んだ家。ニュー・プレイスはシェイクスピアが晩年を過ごした家だが、18世紀に当時の持ち主が観光客の多さに辟易して取り壊してしまったため、現在見学できるのは低木を結び目のように交錯させたノット・ガーデンと、戯曲をモチーフにした彫刻が置かれたガーデンのみ。彫刻の裏側には台詞の一部が彫られているのが興味深い。

16世紀に建造された建物を利用した、地元民にも人気の高い落ち着いた雰囲気のレストラン。観劇前にはセット・メニューがお勧め。味もプレゼンテーションも抜群の料理をお手頃価格でいただける。
真紅の壁とシャンデリア、アンティーク家具が絶妙に溶け合ったこの店は、近年オープンしたばかりだが、既に地元では味の良いレストランとして名を馳せている。鮮やかな赤がまぶしいビートルートのリゾットなど、料理にもセンスの良さが感じられる。
City Sightseeing Stratford Upon Avon






日照時間が延びるこれからの季節、英国を飛び出して、
19世紀まで、貿易の中心地として栄えたマルセイユ。旧港の南の丘、147.85メートルの高台にノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院(Notre-Dame de la Garde)はそびえる。現在の寺院は19世紀に建築家エスペランデュによって建てられたものだが、歴史をたどれば基となった寺院は、1214年に丘の上に建てられていた。今年、誕生から800年を迎える。寺院の上には黄金に輝く9.72メートル、重さ約1トンの聖母マリア像が町を見下ろすように立っている。この黄金に輝く聖母マリアは「ボンヌ・メール(良き母)」と呼ばれ、これまで漁を、町を、そして住民を見守ってきた。内部のモザイク装飾は圧巻。内部には天井から幾つもの船がつる下げられていたり、海にまつわる絵画などが飾られていたりと、漁や平癒に対する感謝の気持ちから納められた奉納品が飾られている。ここから見るマルセイユは絶景。市内から徒歩で来るには、かなりの坂道を登ることになるので、バスが便利。
20世紀最大の建築家と言われるル・コルビュジエが建てた巨大な集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」。中でも一番初めに建てられたマルセイユのユニテ・ダビタシオンは、今日でも世界中の人を魅了している。
マルセイユのせっけんは、植物性のオイルと苛性ソーダを混ぜたもの。ルイ14世の時代の1688年10月5日、財務総監を務めていたジャンバティスト・コルベールにより、原料の油脂はオリーブ・オイルにすることなど、マルセイユのせっけん作りの製法が定められた。現在でも伝統的な方法で作られているマルセイユせっけんは、72%の植物オイルを含んでおり、かま炊きけん化法で植物オイルとソーダを煮詰め、その後、塩水で不純物を取り除くなど、約80時間の行程を経て生み出されている。



マルセイユのアペリティフとして欠かせないのが、マルセイユ生まれのアルコール、「パスティス(Pastis)」だ。パスティスの前身とも言われるのが、19 世紀、フランスの芸術家たちを魅了したアルコール「アブサン」。強い陶酔感と興奮をもたらすアブサンは、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ、ロートレック、ランボー、ボードレールなど、フランスにいた多くの芸術家を魅了した魔のお酒と言われている。しかし20 世紀に入りアブサンの製造が禁止され、その代わりにポール・リカールがアブサンの製法を改良して作ったのがパスティスだった。スターアニスやフェンネル、リコリスの香辛料が強いため、スーッとした後味が爽快感を与える。ちなみに「Pastis de Marseille(マルセイユのパスティス)」と表記するためには、アルコール度が45% 以上で1リットル当たり、2 グラム以上のアネトール(アニスの主成分)が含まれていなければならない。パスティスは水割りで飲むのが一般的で、水を入れると白く濁るのが特徴。慣れてきたらカクテルにも挑戦しよう。有名どころでは、グレナデン・シロップ(sirop de grenadine)を加えたLa tomate、ミントのシロップ(sirop de menthe)を加えたLe perroquet など。
ロンドンからマルセイユまでは飛行機の直行便を利用するのが便利。ロンドンの各空港からマルセイユ・プロヴァンス空港までは格安航空便も飛んでおり、約2時間で到着する。同空港から市内までは、シャトル・バスでマルセイユ・サン・シャルル(Marseille-Saint-Charles)駅まで約30分、またはタクシー。


自身の離婚問題を理由にカトリック教会から離脱したヘンリー8世。彼の4番目の妻であるアン・オブ・クレーヴズに離婚条件の一つとして与えられたのが、この木造の邸宅だった。だがアン元王妃自身がこの家を訪れたことはなかったという。チューダー朝の様式を忠実に再現した庭園には独特の風情がある。16~18世紀にかけてイングランド南東部で盛んだったという製鉄の技術に関する展示も充実している。
万有引力を発見した科学者アイザック・ニュートンの先祖が所有していた邸宅とその広大な庭が、現在では一般開放されている。ガーデンの中心部には小川が流れ、廃墟のような囲いに仕切られた芝生の上には水仙やダリアが眩しいほどに咲き誇る。ランチを食べたり、お昼寝休憩をしたりするには絶好のスポット。
毎週数千人単位が訪れるという蚤の市。翼を付けた女性の姿が彫られた戦没者記念碑の近くにある、かつて教会として使われていた建物の中で毎日開かれている。各種の家具を中心に、動物の剥製、アール・デコの置き時計をはじめとする骨董品が並ぶ。思わず悲鳴や笑い声を上げてしまうような変わり種の掘り出し物にもきっと出会えるはず。
それぞれパティシエとディスプレー・アーティストとして働いていた2人が立ち上げたヴィンテージ・ショップ。アンティークなのになぜか最先端の流行を押さえていると感じさせるようなセンスある商品ばかりが並ぶ。経営者の2人は小型トラックに乗って欧州各地の蚤の市を1年中周っていて、「こんなアンティークを探している」という買い付けの要望にも応じてくれる。
第一次世界大戦中には注射針を製造する工場が置かれていたという敷地を転用した複合施設。ハンドメイドのジュエリー、ヴィンテージ服、手芸品などをそろえたショップ、ギャラリーに加えてカフェも併設している。レンガの壁、地下にある井戸、そして色鮮やかな雑貨の数々に彩られた店内にいると、童話の世界に紛れ込んでしまったかのような感覚を覚える。
手前にインテリアやキッチン用品、店の奥にガーデニング用のアンティーク製品を配置している。カフェやレストランが多数並ぶ通りの入り口に位置しているので、アンティークにあまり興味のない同伴者を近くで休憩させたりする際には好都合。
ルイスの地ビールとして有名なハーヴェイズのビール醸造所に隣接したショップ。創業してから200年以上の歴史を誇る家族経営のブランドで、当代は8代目。醸造所の見学ツアーの予約が2年先まで埋まっているという信じられないほどの人気ぶりを見せている。ショップではハーヴェイズが製造する各種ビールを購入することができるほか、同社が販売を手掛けるワインや蒸留酒もそろえている。
その名の通り、15世紀に建造されたという建物の中にある古書店。児童書や挿絵付きの本を多く取り扱っている。同店の入り口から延びていく小石が敷き詰められた小道の風景と、頭を屈めなければ入ることができないほどの低い天井、そして店内に並んだメルヘンチックな本の数々が非日常体験を与えてくれる。
陶器の里として知られるポーランド南西部ボレスワヴィエツから取り寄せた陶器を扱う店。深みのある紺色を使ったデザインは、目に安らぎを与えるような温かな美しさを醸し出している。バター入れやソース差しまでかなり多種の商品をそろえているので、英国の食卓を飾るアイテムが見つかること間違いなし。併設カフェでは、それらの陶器を使ってピエロギやビゴスといったポーランドの伝統料理が供されるという贅沢なおもてなしをしてくれる。
ロンドンをはじめとする英国各地で見かけるレストラン・チェーン「ビルズ」の第1号店。最初は果物や野菜を販売する屋台としてスタートしたが、2000年に発生した洪水の被害で営業停止に。翌年にレストランとして開業したところ大ヒットし、全国展開するに至った。気軽なカフェ・スタイルで朝食からディナーまで楽しむことができる。
ウーズ川を渡る橋の付近にあるカフェ兼レストラン。シチューやパスタといった定番メニューに加えて用意される「本日のお勧め」はいつも美味。テイクアウェイもできて、ほかの多くの独立系店が閉業となる日曜日でも営業しているのがうれしい。
1605年にカトリック教徒の過激派によるロンドンの国会議事堂を舞台としたテロ未遂事件が発生。以来、11月初旬に平和を願って花火を打ち上げたり、実行犯の一人であるガイ・フォークスを模った藁人形を燃やしたりする習慣が定着した。ルイスは毎年、英国内で最大規模のガイ・フォークス・ナイトを開催。プロテスタント色の強い地域であることや、ルイスの戦いで諸侯が王に勝利したことから民主主義を脅かすテロ事件への強い反発が生まれたなど、ルイスがこのイベントを盛大に祝うようになった理由については諸説ある。








