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Fri, 06 February 2026

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この記事は2021年に掲載された記事です

インタビュー No.2
地震をさまざまな角度から考察できる作品を

ヴィジュアル・アーティスト / ルーク・ジェラム氏

続いてインタビューしたのは、英国を代表するヴィジュアル・アーティスト、ルーク・ジェラム氏。同氏はこれまで大規模なインスタレーションから繊細なガラス彫刻まで、多様な手法を用いてきた。 その情熱は作品作りにとどまらず、あるときは大学で教鞭を執り、またあるときは知覚表現についての研究結果をまとめた書籍を刊行するなど、多岐にわたるものだ。東日本大震災の地震の波形データを用いて表現した作品「Tōhoku Japanese Earthquake」に、同氏はどんな思いを込めたのだろうか。

Luke JerramLuke Jerram

1974年生まれ。彫刻、ライブ・アート、インスタレーションなど多岐にわたる表現方法で、国際的に活躍する英西部ブリストル在住のヴィジュアル・アーティスト。代表的な作品の一つに「ミュージアム・オブ・ザ・ムーン」(「Museum of the Moon」)が挙げられる。NASAの月面画像を用いた直径約7メートルの球体を屋内、屋外で吊るし幻想的な空間を世界各地で創る作品で、英国ではグラストンベリー・フェスティバルやロンドン自然史博物館などで展示された。日本では東京の公共スペースにピアノを配置し、他者と音楽を共有する「プレイ・ミー、アイム・ユアーズ」(「Play Me, I’m Yours」)を行った。
www.lukejerram.com

アート作品
「Tōhoku Japanese Earthquake」

東日本大震災の強震波形データを、ラピッドプロトタイピングを用いて3Dプリントした彫刻作品。縦20センチメートル 、横30センチメートルのなかに、約9分間計測した地震の揺れを立体的に表現している。初公開はロンドンのアート・ベニュー、ジャーウッド・スペース(Jerwood Space)で開催されたエキシビション「テラ」(TERRA 2011年11月9日~12月11日)。その後、米国、フランス、中国など世界各地をまわり、現在は米ノックスヴィル美術館に収蔵。同作品はガラス製も作られ、こちらは米ニューヨークのヘラー・ギャラリー(Heller Gallery)にて展示された。

Tōhoku Japanese Earthquake

東日本大震災のニュースを聞いたときのことを覚えていますか。どのようにこの災害を知りましたか。

世界中の多くの人が知ったのと同じように、テレビの報道を通して知りました。目にしたのは海の近くの公衆電話から撮影された映像で、津波が陸地に押し寄せてくる様子が映されていました。とてもショッキングな光景で、目を覆いたくなるほどに恐ろしい映像でした。

この震災から作品「Tōhoku Japanese Earthquake」を作るに至った経緯について教えてください。

当時、私は2004~12年のニューヨーク証券取引所と、1980~2012年のダウ平均株価のデータを元にした作品「ストック・エクスチェンジ・アートワークス」(「Stock Exchange Artworks」2012年)に取り組んでいる最中でした。これは平面的であるグラフ・データを回転させることで、起伏のある円柱状のガラス彫刻に結晶化させるというもので、私たちがメディアで触れる無機質な数値やその背後に隠された意味を、より深く理解しようとする試みです。この時期は、このようなグラフの新しい見方やその体験方法を新たに生み出すことに興味がありました。

また、かねてからシリーズものとしてウイルスやバクテリアの形状を表現した一連のガラス彫刻「グラス・マイクロバイオロジー」(「Glass Microbiology」2004年~)を制作していました。透明な見た目で美しいものの、そのテーマだけにゾワゾワと人を不快にさせる何かがある。地震の彫刻も、オブジェ自体の美しさ、シンプルさと、それらが表す事実の間には、独特の緊張関係が存在しています。

グラス・マイクロバイオロジー」の一環で、パンデミックと戦う科学的、医学的な努力に敬意を示し、制作されたガラス彫刻作品「COVID-19」「グラス・マイクロバイオロジー」の一環で、パンデミックと戦う科学的、医学的な努力に敬意を示し、制作されたガラス彫刻作品「COVID-19」

日本人は地震の強震波形データを目にする機会が比較的多くありますが、これを3D化する、という発想はなかったように思われます。3Dプリントしようと思ったのはなぜなのでしょうか。

ニュースの映像で見た言葉にできない惨状と、地震計が吐き出した無機質なデータには感覚的な隔たりがあるように思われます。立体作品を作ることで、人々がほかの方法でこの災害を捉える価値があるのではないかと思いました。地震計のデータを統合し、なんとかして命を与える方法が欲しかったのです。

そこで鑑賞者がさまざまな角度から地震のことを考え、数値を眺めることができる9分間の揺れを記録したデータを含むオブジェを作りました。

CADデータを用い、3DでプリントするCADデータを用い、3Dでプリントする

なぜラピッドプロトタイピング*を使おうと思ったのでしょうか。

ラピッドプロトタイピングは当時の最新技術であり、その可能性を探ることに興味がありました。作品を3Dプリントで出力するのが最も簡単な方法だったので、使ってみることにしました。

* 3Dテクノロジーを活用して迅速(rapid)に製品の試作品を作成する方法。設計図だけでは見抜けない構造状の問題点を浮きぼりにし、開発プロセスを短縮させる方法として用いられている

使用した強震波形データの画像はどのように手に入れたのでしょうか。

言葉の壁があり、正確な出典先を自力で見つけることは難しかったため、地震に関するテレビの報道ニュースから入手しました。

この強震波形データを元に作品が作られた(出典不明)この強震波形データを元に作品が作られた(出典不明)

制作にあたって苦労したことはありましたか。

プリンター自体がとても小さかったため、作品を二つに分けて制作する必要がありました。幸いにも、それ以外は特に大きな問題はありませんでした。

作った直後のご自身の感想や周りの反応について教えてください。また、10年が経過し、改めて作品に対して思うことはありますか。

作品の仕上がりも、オンライン上での肯定的な反応も満足のいくものでした。今後、私たちに提示されているただの波形データの代替表現として、この作品を見ることが一般の人々にとって有益な意味を持ち続けていることを、心から願っています。

ジェラムさんの作品は自然現象や社会問題、また新型コロナウイルスのように社会と人がテーマの作品作りが多いように感じます。なぜ、そのようなテーマを選ぶのでしょうか。また、今後新たに取り組みたいテーマやイメージがあれば教えてください。

アーティストは自分たちの作品を通じて社会の変化に反応を示すことが多々あります。私の作品はそういった要素が強いものもあれば、そうでないものもあったりとまちまちですね。個人的には、物事を別の視点から見てみようと呼び掛けることに興味があります。それで真実が明らかになることもありますからね。

最近では、先に述べた「グラス・マイクロバイオロジー」シリーズの一環で、製薬会社アストラゼネカとオックスフォード大学が共同開発した新型コロナウイルス・ワクチンの接種1000万回を記念し、ガラス彫刻「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」(「Oxford-AstraZeneca Vaccine」2021年)を新たに作りました。試験管や蒸留器など、医療の現場で使用されているホウケイ酸ガラスを用いた作品で、こちらも美しい仕上がりでとても気に入っています。この作品の収益は、新型コロナウイルスの影響を大きく受けているコミュニティーを支援するため、国境なき医師団に全額寄付される予定です。人々がこの作品を見ることで、予防接種に行くきっかけになることを願っています。

ジェラム氏の最新作「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」。
直径34センチメートルで、実際のナノ粒子の100万倍サイズに当たるジェラム氏の最新作「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」。直径34センチメートルで、実際のナノ粒子の100万倍サイズに当たる

 
この記事は2021年に掲載された記事です

東日本大震災から10年
英国のジャーナリスト&アーティスト インタビュー
2人の英国人が見たあの日のこと

2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の激しい揺れが東北地方を中心に東日本を襲ったあの日。地震と津波で1万8000人以上の犠牲者が出たあの東日本大震災から、今月11日で10年を迎える。まずは、改めて亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。今回は、未曾有の事態を「本と活字」で世に伝えた「タイムズ」紙のアジア・エディター、リチャード・ロイド・パリー氏と、「彫刻作品」として新しい解釈を広めた英国を代表するヴィジュアル・アーティスト、ルーク・ジェラム氏にインタビューした。表現を生業とする2人の英国人にとって、東日本大震災はどのように映ったのだろうか。

「タイムズ」紙 アジア・エディター
リチャード・ロイド・パリー氏 Richard Lloyd Parry

ヴィジュアル・アーティスト
ルーク・ジェラム氏 Luke Jerram

インタビュー No.1
ジャーナリストとして、感情にのまれず犠牲者に共感し続けること

「タイムズ」紙 アジア・エディター / リチャード・ロイド・パリー氏

1人目は「タイムズ」紙のアジア・エディターのリチャード・ロイド・パリー氏。1995年より東京在住のロイド・パリー氏は、2011年3月11日、東京のオフィスにいた。長期間に及ぶ取材を経て、被災者の心の動きに迫った「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」(2017年)は、翌年に日本語翻訳版も発行され、「英国人記者が日本人の特性を正確に捉えつつも、俯瞰的な視点で震災を見つめたルポ」として、好評を博した。本インタビューを通し、記者らしい的確な言葉選びに垣間見える、同氏の日本に対する温かなまなざしを感じてみてほしい。

Richard Lloyd ParryRichard Lloyd Parry

1969年生まれ、オックスフォード大卒。「タイムズ」紙のアジア・エディター。1995年より東京在住。「インディペンデント」紙の特派員として来日、2002年からは「タイムズ」紙のエディターとして、日本だけでなく北朝鮮、アフガニスタン、イラクなど29カ国をカバーし、ニュースを伝えてきた。書籍は本作のほか、1990年代後半に訪問したインドネシアのスハルト政権下における闇を描いた「In The Time Of Madness」(2006年)、2000年、神奈川県で英国人女性がバラバラ遺体で発見されたルーシー・ブラックマンさん事件を記した「People Who Eat Darkness Love, Grief and a Journey into Japan’s Shadows」(2012年、 翻訳版は早川書房「黒い迷宮─ルーシー・ブラックマン事件 15年目の真実」)がある。
Twitter: @dicklp

書籍
「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」
「津波の霊たち─ 3・11 死と生の物語」

東日本大震災発生直後から現地に通い、6年の歳月をかけ、震災が人々にもたらした心の傷とその後を丹念に追ったルポ。津波に巻き込まれてしまった宮城県石巻市立大川小学校の74人の児童と10人の教職員の遺族たち、被災者が紡ぎ出す言葉に耳を傾ける仏教僧など、さまざまな立場の人物を通じ、同地に残る震災の余波を取材した。本作は2018年、優れた英文学作品に贈られるラスボーンズ・フォリオ賞を受賞、2019年にはジャーナリズムの発展につながる活動をした者に贈られる日本記者クラブ賞特別賞を受賞した。

Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan(英語版)Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan(英語版)

発行元: Vintage Books
定価: £7.99(キンドル版、ハードカバーもあり)

www.penguin.co.uk/authors/1016706/richard-lloyd-parry.html

津波の霊たち─ 3・11 死と生の物語(日本語翻訳版)津波の霊たち─3・11 死と生の物語(日本語翻訳版)

発行元: 早川書房
翻訳: 濱野 大道
定価: 1122円(キンドル版、ソフトカバーもあり)

www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014726

あの日、何が起こったか

2011年3月11日は、どこで何をされていましたか。

地震が発生したとき、私は銀座にある10階のオフィスにいました。当時すでに16年の在住歴があり、小規模の地震には慣れていましたが、あの日の揺れは私が今まで経験したなかで最も強いものでした。私は生まれて初めて自分の机の下に潜り込みました。窓ガラスがブーンと低くと唸り、ブラインドのビニール部分の端同士がぶつかり合いシャーッと震えたあの音を今でもはっきりと覚えています。後になって振動が6分間続いたことを知りましたが、揺れている間、時間の経過を測るのは困難でした。恐ろしかったのは、揺れそのものではなく、いつ終わるか分からないまま揺れが強くなり続けたことでした。

幸いにも、私のオフィスで被害はありませんでした。ようやく電話で連絡が取れたとき、パートナーも幼い娘も無事でした。2日後、別の地震(この地震の余震)がありましたが、大きな事故はなくおさまりました。私はこの地震もある程度の被害の原因になると考えましたが、「災害」と呼ぶレベルではありませんでした。巨大な波が野原、家、車を襲う空撮の映像を見て、先の地震がどんな大惨事であるかを理解し始めたのは後になってからのことでした。

震災後、すぐに取材のため現地に向かわれたようですが、そのときに目にした光景や感じたことを教えてください。

翌朝、同僚のジャーナリストの小さなグループと一緒に現地へ向かいました。高速道路は閉鎖されており、東京から仙台まで24時間かかりました。最初に訪れたのは、波で浸水した仙台空港で、木の枝に押し上げられている軽飛行機があったのを覚えています。

約2週間三陸海岸沿いをあちこち移動し、波にさらわれた町を訪ね回りました。南三陸町はおそらく最悪の被害状況で、町のほぼ全域が壊滅状態でした。最も変わり果ててしまったのは気仙沼でしたね。津波で港に停泊していた大型外航船が岸に激突し、燃料が漏れて発火。これによりある地域ではまず浸水、次に火災に見舞われました。巨大な船の一つは町のなかに漂着し、そのまま道路に残っていました。

最も奇妙なことは、この種の破壊は私にとって初めてみる光景ではなかったという点です。2004年のスマトラ島沖地震の津波について報告したインドネシアのアチェ州で、同じような惨状を見ているのです。あのとき、私はこう思いました。「人間が100年に一度見るか見ないかくらいの異常な経験だ。ひどすぎる。ぞっとする意味での『名誉』とも言える。私はこのようなものを目にすることは今後二度とない」と。

しかし、7年も経たないうちに、今や故郷となった日本で再びそれを見ることになってしまいました。

この本を書いたり、新聞に津波の記事をレポートする過程で、私は悲嘆に暮れ、耐え難い苦悩に直面しました。時に悲しさで満たされてしまうこともありました。これは、戦争や災害を報道するジャーナリストや、そのような状況下で働く援助労働者や医療の専門家が直面する課題です。どうすれば痛みに圧倒されることなく、大惨事の犠牲者に共感し続けることができるのでしょうか。

まだ自分のキャリアが浅いころは、それが難しく感じられました。しかし、しばらくすると、分離のコツを会得できるようになります。重要なことは仕事に集中すること。もし痛みに押しつぶされてしまうならば、良いインタビュアーやレポーターになることはできません。状況を分析し説明することは、ある程度状況から身を引くことを余儀なくさせます。結局のところ、ジャーナリストとしてどんなに辛く感じても、友人や家族、家を失った人々の悲しさに匹敵するものではありませんから。

だから私は職務を果たすことができました。代わりにその年はたくさんの悪夢を見ましたけれど。今でも海が近い場所でぐっすり快適に眠ることはできません。

書籍「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」について

「タイムズ」紙でのお仕事を抱えながら、書籍の執筆に取り組まれたその原動力は何だったのでしょうか。また、震災にまつわる痛ましい出来事が数多くあったなかで、大川小学校を選んだ経緯を教えてください。

新聞を通したジャーナリズムで災害の規模と恐怖を捉えるのは非常に難しいことだと早い段階で認識しました。私は以前に本を出版していたので、今回のことが書籍レベルの長さに値する物語であると理解していましたが、それを伝える方法を見つけるのには苦労しましたね。この災害全体を網羅する本を作ることはできない。ならば入口を狭く、一個人についての人間的なストーリーを追うことで、より大きな部分、自然の脅威やコミュニティー、そして当局の対応が見えてくるのでは、と。鍵のかかったドアの開け方を見つけるようなもので、私にとって大川小学校と幽霊の話がそれでした。

全ての死は痛ましいことで、悲劇をランク付けするのは間違っています。しかし、大川小学校と石巻市釜谷地区で失われた命よりも悲惨な事件を特定するのは困難です。

本書を書くにあたり、現地の人に多くのインタビューをされたと思います。そのときはどのような気持ちで行われたのでしょうか。その中で記憶に残っている印象的な話、また本に書ききれなかったエピソードがありましたら教えてください。

東北でたくさんの方々に会いました。その人々は私と話したいと思った人、話したくない人の2つのカテゴリーに分類されました。

執筆した本に登場した人物は、明白な理由で、私と話した方々です。私は数年にわたり、この本の中心となる何人かと会話を重ねました。会話を続けるなか、私はその方々に親しみを覚えました。話し手の気持ちや経験を書くことに最善を尽くし、それ自体はある程度の成功を収めたと信じています。しかし、私はほかの全ての人々、沈黙を守る被災者の存在を心に留めていなければなりません。その人たちにも一人ひとり異なる物語や感情があります。東北地方には震災について話さない、あるいは話したことが一度もない人が多いように感じます。私には謎ですが、きっと目には見えない悲劇があったかもしれず、それは10年後も続いているのでしょう。

私がそう思う一人に、大川小学校の被災校舎に行くたびに見掛けていた男性が挙げられます。その男性の7歳の息子は学校で亡くなりましたが、遺体はまだ回収されていません。男性は雨の日も晴れの日も、息子を探しに毎日出掛けました。時に泥を掘り、時にボートに乗って海にも出ました。ジャーナリストと一切話すことはありませんでした。

ラスボーンズ・フォリオ賞を受賞し、多くの人が本を手にしました。執筆後、何か心境の変化はありましたか。

質問を正しく理解しているかどうか分かりませんが、本の書き方について考えを変えたかどうかを尋ねられた場合、答えはノーです。書き直したいことは何もありません。

地震発生時刻に大川小学校の前で黙とうする人たち=2020年3月11日、宮城県石巻市「時事(JIJI)」地震発生時刻に大川小学校の前で黙とうする人たち=2020年3月11日、宮城県石巻市「時事(JIJI)」

東日本大震災から10年。これからのこと

岩手県陸前高田市立気仙小学校では迅速な避難により全児童の命が守られました。一方、大川小学校は天災に加え、人災によって拡大した被害がありました。命の明暗を分けたのは防災意識にあったと言われていますが、そうした意識は時間の経過とともに薄れてしまうのが現状です。数年にわたり足繁く被災地へ通われたロイド・パリーさんだからこそ言える、これだけは覚えていて欲しいと思うことは何でしょうか。

私は日本人に講義をするためにこの本を書いたのではありません。私の役割は、読者が各々の結論に到達することを期待して、可能な限り完全かつ示唆に富んだ物語を伝えることです。

日本は私が知るほかのどの国よりも、自然災害に対する備えが整っています。遅れているのは政治です。私の経験から言うと、日本人は政治を自分たちからかけ離れているものと見なしているように感じます。まるで政治が「別の自然災害」であり、その国民は無力な犠牲者であるかのようです。しかし、民主主義下では、自分でリーダーを選び、そしてある程度のふさわしいリーダーを獲得するものです。

新型コロナの影響で、国内移動が制限されている昨今ですが、状況が落ち着いたら東北地方へ足を運ぶ機会があることを祈っております。

英国とは異なり、国内旅行に法的な制限は現在ありません。来週は4年以上ぶりに大川小学校に行ってみたいと思っています。

 

没後200年を迎えた私たちの知らない
ロマン派の詩人ジョン・キーツ

1819年に友人のチャールズ·ブラウンが描いたキーツ1819年に友人のチャールズ·ブラウンが描いたキーツ(枠内)
John Keats, by Charles Brown, 1819. Print from a drawing. Image courtesy of Keats House, City of London Corporation, K/PZ/01/110.

19世紀英国を代表するロマン派の詩人ジョン・キーツ(John Keats 1795~1820年)。自然や人間の美をうたうことを自らの使命としながら、25歳という若さで死去して今年でちょうど200年を迎える。詩人としての活動期間はわずか4年あまりであるにもかかわらず、ロード・バイロンやパーシー・ビッシュ・シェリーとともに、ロマン派の第2世代の詩人として、その作品は今も色あせることなく人々を魅了し続けている。キーツの作品は生前、批評家たちに受け入れられなかったものの、死後にその評価が高まり、19世紀の終わりまでには全ての英国詩人のなかで最も愛された一人になった。世界中の多くの詩人や作家に大きな影響を与え、南米出身の幻想作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスも、キーツの名を挙げている。今回はキーツの人物像や作品、後世への影響などを改めて探っていこう。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Poetry Foundation、English Poetry and Literature、「イギリス文学入門」石塚久郎 編集、ウィキペディアほか

キーツが詩と巡り合うまで

ジョン・キーツは1795年にロンドンのシティ、モーゲートで4人兄弟の長男として誕生した。父親は、*1「スワン・アンド・フープ」(Swan and Hoop)という宿屋に付属する厩舎で馬丁として働いていたトーマス・キーツ、母親は宿屋の娘フランシス。キーツは当時のほかの多くの文学者がそうであったように、上流家庭に生まれたわけではなかった。

夢見るような瞳を持ったキーツの肖像画(ウィリアム·ヒルトン作)夢見るような瞳を持ったキーツの肖像画(ウィリアム·ヒルトン作)

一家はキーツをイートンやハーローなど、良家の子どもたちが通うパブリック・スクールに送ることはできなかったものの、1803年、8歳のキーツをロンドン北部エンフィールドの学校に入学させた。近代的で進歩的なカリキュラムで知られる、ジョン・クラーク・アカデミーというその小さな学校で、キーツは古典と歴史に興味を持つ。また、校長の息子であるチャールズ・カウデン・クラークが重要な指導者、かつ友人となり、キーツに16世紀イタリアの詩人タッソーをはじめとするルネサンス文学を紹介した。若いキーツは「極端で不安定な性格」と評されながらも読書と勉強に力を注ぎ、13歳で学術賞を受賞している。

一方、1810年にキーツが学校を卒業するまでに、一家の暮らしには大きな変化が起きていた。1804年に父親が落馬事故で死去。同年、母のフランシスが再婚し、キーツを含む4人の子どもたちは祖父母の元に引き取られた。しかし1805年の祖父の死により「スワン・アンド・フープ」が売却され、祖母は子どもたちを連れてロンドン北部エドモントンに引越す。1809年、そこへ結核を患った母親が戻ってきた。学校の休暇中にはキーツも献身的な看護をするが、1810年に死去。キーツはこのときまだ14歳だった。

同年、祖母の計らいでキーツは一家の家庭医である外科医・薬剤師のトーマス・ハモンドの見習いになる。肉親を次々に失っていたキーツにとって、医師という職業は自然な選択だったに違いない。約5年の見習い期間を終えたのち、サザークの*2ガイズ・ホスピタルで研修医として学ぶ。1815年、薬剤師の資格を獲得した。当時の薬というのは薬草であり、キーツはロンドン西部のチェルシー薬草園(Chelsea Physic Garden)にも足しげく通ったという。同時に、このころからホメロスの神話詩やエドマンド・スペンサーの長編寓意詩「妖精の女王」(「The Faerie Queene」)を耽読。やがて、詩人で批評家のリー・ハントが編集する文芸誌「エグザミナー」を愛読するうち、詩作に傾倒するようになっていった。1816年、ついにキーツは医者ではなく詩人として生きることを決意する。

*1 当時の建物は現存しないが、現在ここにはKeats at The Globe(83 Moorgate, London EC2M 6SA)というパブになっており、外壁には「In a house on this site the ‘Swan & Hoop’ John Keats Poet was born 1795」と記されたブルー・プラークが見られる。
*2 病院の中庭にはキーツの彫像が座るアーケードがある(St Thomas Street, London SE1)。2007年にアーティストのスチュワート・ウィリアムソンによって制作・設置された。

キーツの生きた時代

18世紀後半から19世紀初頭にかけての英文学界は、それ以前の啓蒙時代の形式主義と理性ある科学的探究とは正反対の、個人の感情や内面世界を重要視した美を見つけようとしている最中だった。詩人トマス・パーシーの編纂した「古英詩拾遺集」(「Reliques of Ancient English Poetry」1765年)には中世の吟遊詩人たちによる古いバラッドやソネットなどがまとめられ、これがロマン派の詩人たちの制作欲を刺激した。ウィリアム・ワーズワース、ウィリアム・ブレイク、サミュエル・テイラー・コールリッジといった人々が活躍し、また、ロード・バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリーも、論理ではなく創造性を賛美する作品を次々に発表していた。

キーツと同時代の詩人ロード·バイロン(トーマス·フィリップ作)キーツと同時代の詩人ロード·バイロン(トーマス·フィリップ作)

パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画

キーツがペンを執ったのは、そんな自然の摂理をうたう詩や中世の騎士道精神がリバイバルしていた時代だった。キーツはソネットの実験的作品をいくつも作り、1816年5月、「ああ孤独よ」(「O Solitude」)が「エグザミナー」誌に掲載された。翌年には処女詩集「詩集」(「Poems by John Keats」)を出版するなど意欲的な活動を開始。ただし、この詩集の評判は芳しくなかった。影響力のあるリー・ハントと知り合い、出版者や作家、有力なパトロンなどと交流を深めながらも、キーツは「気分が定まらず、人前でおどおどと気後れしている様子」だったと友人の弁護士、リチャード・ウッドハウスが記述している。当時からキーツの才能にほれ込み、その天才を確信した数少ない一人であるウッドハウスは、文学者サミュエル・ジョンソンの一語一句を記録した弁護士ジェームズ・ボズウェルのように、キーツにまつわるものなら何でも集めて保管した。後年、これがキーツを知るうえで非常に貴重な研究資料になったと言われている。

1808年にリー・ハントとジョン・ハントによって創刊された「エグザミナー」誌1808年にリー・ハントとジョン・ハントによって創刊された「エグザミナー」誌

恋愛を創作の原動力に

1817年、処女詩集の出版直後に大英博物館に出掛けたキーツは「エルギン・マーブル」と呼ばれる古代ギリシャの大理石彫刻群を見て、ショックを受ける。キーツは詩集のなかで詩とは「至高の力」であり「人間の苦悩を癒やし、思想を高めるもの」でなければいけないと説いているのだが、「エルギン・マーブル」から受けたのはまさにキーツが理想とする芸術の姿だった。間もなく、ギリシャ神話を題材にした4巻からなる大長編叙事詩「エンディミオン」(「Endymion」)を出版。ところがこの大作は批評家たちから酷評されたうえ、これまで看病を続けていた弟のトーマスが結核で死去するという不幸に見舞われ、公私ともに災難が続いた。

落胆するキーツを気遣う友人チャールズ・ブラウンの勧めで、1818年12月からキーツはブラウンの住むハムステッドのウェントワース・ハウスに間借りをする。その隣家に住んでいたのがファニー・ブローン(Fanny Brawne 1800~65年)という当時18歳の少女。自分の服は自らデザインし、詩を学ぶなど進取の気性に富んだファニーと23歳のキーツはすぐに恋に落ちた。ただし、キーツはこの先も金銭的な安定が保証できない身分であるうえ、弟の看病から体調不良となり、自分も結核に感染しているのではないかという恐れを抱いていた。心が通じ合っているのに成就することのないこの恋愛は、キーツの創造力を研ぎ澄ませ、やがて「秋に寄せて」(「To Autumn」)、「ギリシャの古壺のオード」(「Ode on a Grecian Urn」)、「ナイチンゲールに寄す」(「Ode To A Nightingale」)などの代表的オード(頌歌と呼ばれる抒情詩の形式)を次々と生むきっかけとなった。

「ナイチンゲールに寄す」の草稿(キーツ・ハウス所蔵)。
キーツは筆跡の美しさでも知られている「ナイチンゲールに寄す」の草稿(キーツ・ハウス所蔵)。キーツは筆跡の美しさでも知られている

翌1819年に秘かに婚約した2人だが、喀血(かっけつ)するなどしてすでにキーツの病状は悪化の一途をたどっていた。文学仲間たちは療養させるため見舞金を集め、キーツを暖かいローマへと送り出した。キーツはこれがファニーとのこの世の別れになるだろうと確信しつつも、1820年9月13日に英国を離れた。キーツが死んだのは翌21年2月23日。ローマのプロテスタント用墓地に葬られた。遺言により、墓石にはキーツの名は刻まれず、「その名を水に書かれし者ここに眠る」(「Here lies one whose name was writ in water」)とだけ彫られている。

ローマにあるキーツの墓ローマにあるキーツの墓

うたい継がれる美意識

傷心のままローマに没したキーツは自分の作品が後世に読み継がれるようになるとは、夢にも思っていなかった。しかし、同時代の詩人シェリーはキーツの死を悼み、壮大な挽歌にして自身の最高傑作「アドネイス」(「Adonais」)を書いた。また、若き日のオスカー・ワイルドにとってもキーツは理想の詩人だった。長髪で病弱な美の殉教者キーツは、その作品ばかりか生き方やファッションすらも憧憬の対象となったのだ。ワイルドはキーツをラファエル前派の先駆者であるとも述べている。産業革命の反動として現れた英国ロマン主義の詩人の一人として、ジョン・キーツの名は今もしっかりと歴史の中に根を下ろしている。

キーツの住んだハムステッドのウェントワース・ハウス。キーツの住んだハムステッドのウェントワース・ハウス。現在はキーツの資料館「キーツ・ハウス」(Keats House)として一般に公開されている(10 Keats Grove, London NW3 2RR)

現代に通じるキーツの哲学

ネガティブ・ケイパビリティーとは

キーツが現代にも影響を与えているものの一つに「ネガティブ・ケイパビリティー」(Negative Capability)という言葉がある。これは、キーツが不確実なものや未解決のものを受容する能力を説明する際に編み出した考え方で、弟へ向けた1817年12月21日の手紙に出てくる。「シェイクスピアがこの能力を著しく有している。作家ばかりでなく、詩人もこの能力を持つべきだ」とキーツは書く。

この理論は、第二次世界大戦中に精神科医のウィルフレッド・ビオンがキーツの言葉を再発見したことで広まった。日本の小説家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)は、精神分析の世界ではこれは「答えの出ない事態に耐える力」と説明され、せっかちな見せかけの解決ではなく、共感の土台にある負の力が発展的な深い理解へとつながる能力だと説明する。複雑なものをそのまま受け入れず、単純化やマニュアル化したり、答えがすぐ出ないものは最初から排除しようとする傾向がある現代社会とは対極の理論と言える。

キーツの代表作を詠む

繊細な美的感覚と豊かな言語構成能力を持つキーツの魅力が十分に発揮された大作「エンディミオン」(1718年)は、羊飼いの美青年エンディミオンに恋をした月の女神が、青年を独占するため、永遠に眠らせておいたというギリシャ神話にアイデアを得た作品。ここでは有名な冒頭の部分の口語訳を紹介しよう。

Endymion
John Keats

A thing of beauty is a joy for ever:
Its loveliness increases; it will never
Pass into nothingness; but still will keep
A bower quiet for us, and a sleep
Full of sweet dreams, and health, and quiet breathing

Therefore, on every morrow, are we wreathing
A flowery band to bind us to the earth,
Spite of despondence, of the inhuman dearth
Of noble natures, of the gloomy days,
Of all the unhealthy and o'er-darkened ways
Made for our searching: yes, in spite of all,

Some shape of beauty moves away the pall
From our dark spirits. Such the sun, the moon,
Trees old and young, sprouting a shady boon
For simple sheep; and such are daffodils
With the green world they live in; and cleasr rills
That for themselves a cooling covert make
Gainst the hot season; the mid forest brake,
Rich with a sprinkling of fair musk-rose blooms:

And such too is the grandeur of the dooms
We have imagined for the mighty dead;
All lovely tales that we have heard or read:
An endless fountain of immortal drink,
Pouring unto us from the heaven's brink.

美しいものは永遠の喜びだ
それは日ごとに美しさを増し
決して色あせることがない
わたしたちに安らぎをもたらし
夢多く健康で静かな眠りを与えてくれる

それ故毎朝わたしたちは花輪を編み
自分たちを大地に結び付けるのだ
落胆していようとも 暗澹とした日々に
生きるのがままならないとも
なにもかもが意に反して
むしゃくしゃしていようとも

わたしたちの心の暗闇から不吉なものを
追い払ってくれる美しさがある 
太陽や月の美しさがそうだ
また若葉を芽吹いて繁みとなる木々
緑に包まれてのびのびと咲く水仙たち
灼熱の季節にも自分のために
涼しさを生み出す小川の流れ
麝香バラの咲き乱れる森の繁み

またわたしたちが偉大な死者について
思い描く運命の壮大さや
聞いたり読んだりした美しい物語の数々
天空の一端からわたしたちに降り注ぐ
不死の飲み物の尽きせぬ泉に 
そんな美しさを感ずるのだ

(出典: 壺齋散人訳 English Poetry and Literature)

 

映画「キッド」にまつわる6つのストーリー - 公開から100周年

< 公開から100周年 > 映画「キッド」にまつわる
6つのストーリー

映画「キッド」の主役、チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)映画「キッド」の主役、チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)

喜劇王チャールズ・チャップリンが手掛けたサイレント映画「The Kid」(邦題「キッド」)が、米ニューヨークのカーネギー・ホールで1921年1月21日に公開されてから今年で100年を迎えた。故郷の英国を離れ、米国を拠点に活躍していたチャップリンは、本作公開前も一定のヒット作品を出していたが、「キッド」はそれまでの映画史を大きく変えるマイルストーン的作品となった。自身初となる長編喜劇映画の監督として、また脚本、製作、約50年後のサウンド版の音楽にいたる全てを自身で徹底して作り込んだわけだが、天才が作る作品には一般人には想像できないさまざまなエピソードが付随している。今回は、数あるその中から英国との接点や、ハリウッドらしい名声や富にまつわる印象的なエピソードを6つ紹介しよう。(文・英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Charlie Chaplin(Official representative of Charlie Chaplin)、University of Southampton Special Collections、Encyclopædia Britannica ほか

1笑って泣ける作風は実生活から生まれた

「キッド」が生まれる前まで、サイレント映画業界では、「コメディー」「ドラマ」など、基本的には1作品に対し一つのジャンルに絞られていた。2つ以上の要素が入ってしまうと、ストーリーに一貫性がなくなる、というのが当時の映画業界における共通認識。また、すでに映画が一大産業として発展していた米国では、コミカルな動きで視覚的に笑わせる「Slapstick comedy」(ドタバタ喜劇)が1920年代の流行りだった。しかし、その常識は本作によって突如打ち破られることになる。

人生に浮き沈みがあるように、ドラマとコメディー要素を自然に織り交ぜることで、笑って泣けるストーリー展開に仕立てた本作は映画史における革命だった。情景描写が妙にリアルで、観客の感情に直接訴えてくるストーリーは、チャップリンの実生活におけるさまざまな体験に基づいて作られた緻密なものであった。例えば、「(チャップリン扮する)リトル・トランプが捨てられた子ども(キッド)の父親になる」という大まかなプロットは、1人目の妻、ミルドレッド・ハリスとの間にもうけた男の子が生まれて3日で亡くなり、埋葬されたわずか10日後に完成した。また、孤児院の職員がキッドを施設へ無理やり連れて行こうとする描写は、同じように幼少時代に母親から引き離され、孤児院での生活を余儀なくされたチャップリンの辛い記憶にリンクしている。

撮影期間は数週間の休みを除き約9カ月。チャップリンは各シーン納得がいくまでリテイクを重ね、結果的に上映68分の映画に対し、50倍以上ものフィルムを回し続けた。

チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)

1922年に撮影されたチャーリー・チャップリン。その素顔は青い目をしたチャーミングな顔立ちの男性だった1922年に撮影されたチャーリー・チャップリン。その素顔は青い目をしたチャーミングな顔立ちの男性だった

2天才子役、ジャッキー・クーガン

母親に捨てられ、リトル・トランプに拾われる孤児を演じたジャッキー・クーガン(John Leslie Coogan, 1914~84年)とチャップリンの出会いは諸説あるものの、とても運命的だったと言われている。

「キッド」に出演する前から生後18カ月にしてサイレント・コメディー映画「スキナーズ・ベイビー」(1917年)に出演していた。クーガンの父親もまた舞台で活躍するコメディアン兼ダンサーで、その公演を偶然見に来ていたチャップリンに息子を引き合わせた。

クーガンはチャップリンの軽快な動きを完璧にコピーすることができた。驚きを隠せないチャップリンは、クーガンに職業を尋ねると、「僕は早業の世界の手品師なんだ」と即答した。ウィットの効いた返答にチャップリンは胸を打たれ、この時5、6歳のクーガンを次作の子役に抜擢した。ダンスの才能はもちろんのこと、クーガンは子どもながら目元に悲しみをたたえた印象的な顔でも皆を魅了した。映画のプロットに合わせ、「キッド」は別名「The Waif」(浮浪児、顔色の悪い子ども)とも呼ばれた。

2人は約50年後の1972年、米ロサンゼルスで再会を果たしている。この時の様子についても、いろいろなエピソードが残されているが、「チャップリンがクーガンに『誰よりも会いたかった』とささやいた」「クーガンとの再会を喜び、同席していたクーガン夫人に、『あなたの旦那は天才だ、これだけは決して忘れてはいけないよ』と伝えた」など、総じて心温まるものである。

1920年ごろに撮影されたジャッキー・クーガン1920年ごろに撮影されたジャッキー・クーガン

3離婚騒動で秘密裏に行われた編集作業

「ミルドレッドは息をのむ(美しさ)というのではなく、かわいらしかった」。チャップリンは後の妻となるミルドレッド・ハリス(1901~44年)に出会った瞬間をこのように回想している。1918年、映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィン主催のパーティーで初めて会ったとき、チャップリンは29歳、ハリスは16歳。ハリスもチャップリン同様、若くして俳優キャリアをスタートさせていた。

同年、ハリスから突然妊娠を知らされたチャップリンは大慌てで結婚することを決める。しかし初めこそ良かったものの、互いに相手の人物像を大きく勘違いしており、特に若いハリスは夫の並外れた才能やそれによる劣等感など、複雑な思いを抱えていた。無論結婚生活は長続きせず、「キッド」の撮影中に離婚訴訟が進む。ハリスの弁護士らが映画の製作を妨害するのではないか、と考えたチャップリンは、編集前のフィルムをコーヒーの缶に詰め、信頼できる製作メンバーと共に米西部ソルトレイクシティのホテルとニューヨークの匿名スタジオへ飛び、秘密裏に編集を進める羽目になった。

チャップリンの最初の妻であるミルドレッド・ハリス。「キッド」の撮影期間と離婚訴訟がまるかぶりで、チャップリンは公私ともに忙しかったようだチャップリンの最初の妻であるミルドレッド・ハリス。「キッド」の撮影期間と離婚訴訟がまるかぶりで、チャップリンは公私ともに忙しかったようだ

4一躍スターになった子役クーガンの功罪

世界恐慌の真っ只中の当時、ハリウッドでは子どもが親のために金を稼ぐ手段になることに疑問を抱く者はいなかった。本作で一大子役スターになったクーガンは、その後も数々の映画に出演し、週に2万2000ドル(現在で32万1200ドル、日本円で約3351万円)を稼ぐ超売れっ子になったが、母親と元マネージャーの継父(実の父親は離婚後、1935年に自動車事故で他界)の金銭の管理はずさんだった。数百万ドルはあるはずだった財産は、ギャンブルなど2人の浪費によって、ほとんど手元に残っていなかったのだ。これをきっかけに、1939年、子役の収益の一部を本人に残すよう義務付ける「クーガン法」がカリフォルニア州で成立。「子どもは楽しんで撮影しているから」という親の言い分は法をもって阻止できるようになった。近年は映画子役のみならず、YouTubeで子どもを使って金を稼ぐ親が増えているため、何かと引き合いに出される法律となっている。

5「キッド」の裏で公開されなかったもう一つの作品

米国を拠点に活躍していたチャップリンには、英国に意外な交友関係を持っていた。その人物とは、フィリップ殿下の叔父にあたる、ビルマの初代マウントバッテン伯爵ことルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン(1900~79年)だ。詳細は語られていないものの、ミルドレッド・ハリスを通して出会ったとされている。

1922年、マウントバッテン伯爵はエドウィナ・アシュレイ夫人とハネムーンでハリウッドを訪れる。伯爵がハリウッドにいる間、チャップリンは結婚のお祝いとして短編映画「Nice and Friendly」(「ナイス・アンド・フレンドリー」)を即興で製作。これはアシュレイ夫人の真珠のネックレスをめぐり、さまざまな人物がそれを盗もうとする物語で、新婚2人のほか、チャップリン、ジャッキー・クーガンなど「キッド」のキャスト、ワシントンDCの英国大使館スタッフなど、周囲にいた人物を役職関係なく巻き込んだ豪華なホーム・ムービーだった。撮影は米俳優ダグラス・フェアバンクス、元妻のメアリー・ピックフォードが住む邸宅の庭で行われた。

ルイス・マウントバッテン伯爵(写真右)とエドウィナ・アシュレイ夫人(同左)。ハネムーンで米ニューヨークも訪れたルイス・マウントバッテン伯爵(写真右)とエドウィナ・アシュレイ夫人(同左)。ハネムーンで米ニューヨークも訪れた

6独特の山高帽スタイルは米国生まれ

チャップリンのトレードマークである、山高帽にちょび髭、ぶかぶかのズボンのキャラクターは米国で誕生し、「トランプ」「リトル・トランプ」と呼ばれ親しまれ、「キッド」を含む一連の作品に登場した。そもそもチャップリンはどのような経緯で米国へ拠点を移したのだろうか。

チャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin, 1889~1977年)の俳優キャリアは英国で始まった。1889年4月16日、歌手で俳優の両親のもとに、ロンドンで生まれたチャップリンは、両親の離婚後、幼くして母親に引き取られた。しかし後に母親が精神病に侵されてしまったため、異父兄のシドニーと共に孤児院を転々とする困窮した生活を強いられる。しかし、両親の才能を受け継いだチャップリンが、ライブ音楽を提供するミュージック・ホール(ヴォードヴィル)でデビューを飾るのに時間はかからなかった。

転機となったのは、コメディー劇団として有名だったフレッド・カーノー(1866~1941年)率いるファン・ファクトリー(the Fun Factory)への入団だった。当時、ミュージック・ホールでの演目がそのままサイレント映画になることもあり、舞台と映画は強固な関係で結ばれていた。

「Jimmy the Fearless」(「ジミー・ザ・フィアーレス」)など、数々の演目で活躍し、注目を浴びたチャップリンは、1910年に同劇団の海外巡業で米国を訪問する。この公演が大成功に終わり、1913年に公演のため再び米国を訪れた際、現地の映画プロデューサーに声を掛けられたことをきっかけに、活動の拠点を米国に移したのだった。

チャップリンは英国の映画界への直接的な貢献はないに等しかったものの、「キッド」の成功で英国へ凱旋帰国した際は、市民から熱烈な歓迎を受けた。

チャップリンがこの扮装で初めてスクリーンに登場したのは映画「Kid Auto Races at Venice」(「キッド・オート・レーシーズ・アット・ヴェニス」)(1914年)だと言われているチャップリンがこの扮装で初めてスクリーンに登場したのは映画「Kid Auto Races at Venice」(「キッド・オート・レーシーズ・アット・ヴェニス」)(1914年)だと言われている

フレッド・カーノーチャップリンの世界的な活躍を後押ししたフレッド・カーノー。チャップリンは、世話になったカーノーが晩年借金で困窮したときに資金援助を惜しまず、カーノーの葬儀には「深い同情を込めて」と感謝の言葉をおくったという

The Kid

貧しそうなシングル・マザーが置き手紙を添えて、男の赤ちゃん(ジャッキー・クーガン)を道に停めてあった高級車に置き去りにする。しかし泥棒が車を盗み、赤ちゃんを路上に残してしまう。通りかかったトランプ(チャーリー・チャップリン)は、その子を自身で引き取り育てることにする。そして5年の月日が流れ子どもはたくましく育ったが……。

The Kid

(U)68分
監督: Charles Chaplin
出演: Charles Chaplin, Jackie Coogan, Edna Purviance ほか
1921年1月21日米国プレミア公開
(1972年サウンド版リリース)

 

ポストEU時代の英国 - 何が変わった? これからどうなる?

ポストEU時代の英国何が変わった? これからどうなる? ポストEU時代の英国

ポストEU時代の英国

2020年12月31日、ブレグジットに伴う移行期間が終了した。当初、同年6月までに交渉を進めるという予定が組まれていた離脱交渉は、英EU双方の姿勢の違いや新型コロナウイルスの流行が響き、延期や中止を繰り返した。一時は「合意なき離脱」の可能性も浮上したものの、同24日に駆け込み合意が成立。英国は27年ぶりに、EU法に従わない完全自立の地位を取り戻した。英国に住む日本人にとっても人ごとではないブレグジット。EU離脱の影響で、私たちを取り巻く環境には、どのような変化が起きていくのだろうか。今回は、2020年の離脱交渉の流れや重要な議題を中心に、ブレグジットの「これまで」をおさらいし、2021年から新たに変化するポイントを含めた「これから」の予想図を見ていこう。

(文: 小林恭子、英国ニュースダイジェスト・ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考: 英国政府ホームページ、Jetro(日本貿易振興機構)、BBC、「Guardian」紙、Reuters、Deloitteほか


離脱の背景に歴史あり
そもそもなぜブレグジットに至ったのか

英国は1973年、単一市場への参加という主として経済的な理由から欧州連合(EU)の前身、欧州共同体(EC)に加盟。しかし、1993年にECがEUとして発展し、政治的統合への道を歩みだすと、国内ではEUへの懐疑感情が高まった。2004年、旧東欧諸国を中心とした10カ国が一挙にEUに加盟。英国内ではEUからの移民が増加し、国民は雇用、教育、公的サービスを含む生活面で圧迫感を抱くようになった。こうした国民感情を背景に、EUからの離脱を求める英国独立党(UKIP)が欧州議会で議席を増やし、強力な政治勢力として成長。保守党のEU懐疑派議員らからの圧力もあり、当時のデービッド・キャメロン首相は、EUからの離脱を問う国民投票の実施を決定した。2016年に行われた国民投票では僅差で離脱派が勝利し、2020年1月末、英国はEUから離脱した。

(文・小林恭子)

一筋縄ではいかなかった……
国民投票以降、離脱日を2度も延期!

2016年6月
EU離脱を問う国民投票実施、離脱派が勝利
2017年3月
テリーザ・メイ首相がEU条約第50条を発動、交渉期間の開始
2018年11月
英政府とEU間で離脱協定案と政治宣言案に合意
2019年3月
離脱協定案を英下院が否決
2019年4月
EU首脳会議開催、離脱日を10月31日まで延期
2019年7月
ボリス・ジョンソン首相就任、離脱に関する法案を見直し
2019年9月
離脱日を2021年1月31日まで延長する法案を可決
2019年10月
ジョンソン首相が離脱協定案を提示、離脱日延長

(英国ニュースダイジェスト編集部作成)

ポストEU時代の英国2020年 英EU間の離脱交渉を振り返る

2020年1月31日にブレグジット・デーを迎え、同年3月からはいよいよ本格的な離脱交渉が開始。しかし、新型コロナウイルスの影響も受け、交渉はことごとく中止や合意期限延長を余儀なくされた。ジョンソン首相率いる英国政府は、一方的な離脱協定ほご法案の提出など、からめ手を繰り出し、EU側は「国際法違反だ」と猛反発。交渉は双方が互いに譲らない膠着(こうちゃく)状態に陥った。世論をひやひやさせた一連の交渉が決着したのは12月24日。「クリスマス・ホリデーまでの合意を」という双方の意思に基づき、落とし所を見つける形での合意となった。ここでは、離脱交渉で特に重要視された議題について、交渉結果の概要を紹介する。また、2020年中から制度変更が進んでいる5つの分野に関しても、説明していこう。

離脱交渉の流れ

   協議会    意思決定期限    英国のアクション

2020
Jan
1月31日
英国のEU離脱
Feb
Mar 3月2〜5日
英EU合同協議会 第1ラウンド
→離脱交渉が本格的にスタート
Apr 4月20〜24日
第2ラウンド
→漁業権、公平な競争に関する交渉が難航
May 5月11〜15日
第3ラウンド
→目立った進展なし
Jun 6月2〜5日
第4ラウンド
→FTAに関する交渉が難航
  6月30日
移行期間延長の決定期限
→年末での移行期間終了が確定
  6月29日〜7月2日
第5ラウンド
→FTAの月内合意を断念
Jul 7月20〜23日
第6ラウンド
→双方歩み寄らず
Aug 8月18〜21日
第7ラウンド
→交渉姿勢の違いが際立つ
Sep 9月8〜10日
第8ラウンド
→協定ほご法案の影響で対立悪化
  9月9日
英政府、「離脱協定ほご法案」を下院に提出
  9月29日〜10月2日
第9ラウンド
→モノの貿易など一部で
交渉進展
Oct 10月15日
FTA交渉期限
→合意ならず 
年末の発効を目指す
  10月22〜28日
第1回再開後交渉
→漁業権、公平な競争条件(レベル・プレイング・フィールド)で解決に至らず
Nov 11月9日〜12月
第2回再開後交渉
→ほご法案の実質破棄、公平な競争条件など、一部歩み寄り
Dec 12月24日
英EUが交渉合意、
自由貿易協定(FTA)を締結
  12月31日
移行期間終了

結局どうなった? 離脱交渉の重要議題

(文・小林恭子)

ビジネスFTA締結により関税ゼロをキープ

英国とEUは自由貿易協定(FTA)を締結したため、モノの貿易は従来通り関税ゼロ、割り当てなしのルールが継続する。しかし、新たに通関業務が行われるようになったため、国境での流通が滞る可能性は懸念として残る。金融を含むサービス業については、英国はEU市場への自動的なアクセス権を失い、活動が制限されることに。医師や建築家をはじめとする英国の専門職資格は、これまでEU加盟国でも自動的に認可されてきたが、今年からはこの制度がなくなり、サービス提供のハードルが高くなった。

公平な競争条件独自の基準規程で合意

「公正な競争条件」(レベル・プレイング・フィールド)とは、英EU間で2019年に合意した「将来に関する政治宣言」の中で定められていた、公正で開かれた競争を実現するための条件を指す。今回の離脱交渉でEU側は、政府補助金、競争法、社会・雇用規制、環境基準、気候変動、租税の分野で英国がEUと共通の規則・基準の採用することを求めたが、最終的には譲歩。英国とEU両者が独自に規定することで合意した。また、公正な競争が阻害された場合は、両者が対抗措置を発動できるルールを盛り込むことでも合意に至った。

北アイルランド国境物理的な国境は設けず

EU加盟国であるアイルランド共和国と、英国領北アイルランド間での貿易や人の移動に関する取り決めでは、ほかの重要議題に先駆けて合意が成立した。「アイルランド/北アイルランド議定書」は、アイルランド共和国と北アイルランドの間に物理的な国境を設けない旨を規定。EU加盟国と北アイルランドの間での物品取引には、通関手続きや管理が適用されない方針が決まり、北アイルランドは実質的にEU単一市場に留まることとなった。今回の議定書の適用継続に関しては、4年後に北アイルランド議会が改めて議論・決定する予定だ。

英海域での漁業権英国側が大きく譲歩

これまでEUが管理していた英海域での漁業は、今年から英国による独自管理に戻った。従来はEUの共通漁業政策に基づき、EU加盟国も漁獲上限に達しない限りは英国の排他的経済水域(EEZ)で操業できていた。しかし今回の合意により、EU側は今後5年半で英海域での漁獲量を段階的に25%削減することが決定。5年半経過後は、毎年英国側と漁獲量を交渉する必要がある。また、英EU両者は漁業管理についての情報を共有し、漁業委員会を設置して話し合いの機会を持つことでも合意した。

最後の最後まで議論がもつれた英国領海での漁業権最後の最後まで議論がもつれた英国領海での漁業権

将来関係のガバナンス紛争発生時の対応方針を決定

英EU間において、将来発生する紛争の解決方法を定めることも、重要論点の一つとされた。離脱交渉の結果、紛争発生時にはまず当事者同士の交渉による解決を試み、解決しない場合は事案ごとに設置される独立裁定機関に判断をゆだねる旨の方針を決定。独立裁定機関は各案件に対し、160日以内に判断を下す必要がある。英EUのいずれか一方が独立裁定機関の判断に従わない場合は、貿易協定が停止される可能性もある。なお今年より、英国はEU司法裁判所の介入を受けない立場となった。

2020年から制度変更が始まった5分野

(文・小林恭子)

1 移民労働許可にポイント制を導入

2020年2月18日に発表された新移民制度が今年1月1日に施行され、EUとそれ以外の国の市民との区別がなくなった。新制度では複数項目から成るポイント制を導入し、合計70ポイント以上で労働許可の申請対象となる。また、科学や人文、デジタル・テクノロジーなどの分野で高いスキルを持つ人材を受け入れるため、内務省認定団体が承認した人物であれば求人がなくても労働許可が申請できる「グローバル・タレント」枠を導入。今夏までに英国の高等教育機関の学位を取得した留学生は、「卒業生ビザ」を取得すれば2年間の労働許可が得られる。

2 関税独自制度「英国グローバル・タリフ」を導入

英国は独自の関税制度である「英国グローバル・タリフ」(UKGT)を導入した。英国と自由貿易協定を結んでいる国からの輸入品、一般特恵関税制度の対象となっている国からの輸入品、一時的な免税措置の対象となっている輸入品などを除く、各種物品に対して適用する。UKGTの関税分類品目は計1万1830品目。全体の34%は従来の税率を維持、無税となる品目は27%から47%に増加した。具体的には、従来の関税が2%未満の物品、英国製造業による生産工程が入った物品、グリーン成長産業に貢献する製品などが無税対象となっている。

3 旅行EU加盟国への入国条件が変更に

2021年1月1日以降、英国パスポート保持者がEU加盟国に旅行する場合、パスポートの有効期間が最低半年以上残っていること、10年以内に発効されたものであることが必要になる。アイルランドへはこれまで通りに英国パスポートでの旅行が可能。英政府発行の欧州健康保険証はEU内で継続して使用可能だ。EU加盟国のほとんどに加え、スイス、アイスランド、リヒテンシュタイン内で英国の運転免許証が通用するが、一部の国では国際運転免許証が必要になる場合も。EU、アイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェーで英国の携帯電話を使う場合、ローミング料金がかかる。

空港での入国審査でも、英国市民とEU市民は別々に空港での入国審査でも、英国市民とEU市民は別々に

4 教育EUの留学制度が利用不可に

昨年末時点でEU加盟国に居住している英国籍の留学生は学業を継続できるが、教育受託機関に在留資格や学費変更の有無について再確認が必要。今年から留学する場合、教育受託機関や大学入試機関「UCAS」に要相談となる。EUの高等教育交流プログラム「エラスムス+」が利用不可になり、英国独自の留学資金援助策「チューリング・スキーム」が開始される。昨年末以前から英国に居住するEU加盟国、アイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェー、スイス国籍の学生は「EUセトルメント・スキーム」に申請し、在留資格を得る必要がある。

5 貿易EU以外の国・地域と協定発効

EU加盟時は、70カ国以上と約40の貿易協定を締結していた英国。今年1月からは60の国・地域(1月13日現在)との貿易協定が発効した。競争力低下を懸念した英国は、EU外の主要国との貿易促進を狙い、昨年10月には日本と日英包括的経済連携協定(日英EPA)を締結。工業製品の関税を撤廃、日本ワインの英国への輸入規制を撤廃するなどした。女性労働者や事業経営者の能力向上に関する活動でも協力する。2019年の日英貿易総額は316億ポンド(約4兆4368億円)、英国の貿易総額の2%を占める。英国政府は、日英EPAが長期的には英国のGDPを0.07%上昇させると予想した。

さらばEU! 2021年、英国の未来はいかに?

2020年12月24日、離脱交渉合意の連絡を受け喜ぶジョンソン首相2020年12月24日、離脱交渉合意の連絡を受け喜ぶジョンソン首相

合意は火種含み。取り戻した「主権」で何をするかが課題に

今年1月1日から、英国と欧州連合(EU)の関係は大きく変わった。

英国はEUとの自由貿易協定(FTA)を成立させ、EU非加盟国でありながらモノの貿易には関税がかからず、数量制限も課されない独自の立場を獲得した。また、EU司法裁判所の管轄には入らない方針を死守し、EU単一市場から抜け出したことで、離脱志向を加速化させる一因となったEU移民の無制限流入にも歯止めをかけた。ボリス・ジョンソン首相が繰り返した「英国を国民の手に取り戻そう」というスローガンをひとまずは実現させた形と言えよう。取り戻した「主権」で何をどうするのか。ジョンソン政権は未来図を描く必要に迫られている。

一方、失ったものも少なくない。金融、建築業、会計などのサービスを提供する企業はEU市場に自動的にアクセスする権利を失った。安全保障にかかわるEUのデータへの自動アクセスもできなくなった。また、FTAは締結されたものの、検疫や原産地証明の確認といった税関手続きが新たに必要となるため、物流に一定の混乱が出ることも予想される。今後、細かな点は随時アップデートされていくが、EU加盟国と同等の扱いになるかどうかは不透明だ。

離脱はスコットランド地方の独立機運を高めるとも言われている。EU離脱を問うた2016年の国民投票で離脱票が残留票を上回ったのはイングランド地方のみ。スコットランド、ウェールズ、北アイルランド地方では残留派が勝利した。北アイルランドでもアイルランド共和国との統一を求める声が強まりそうだ。

政治統合の深化に向かうEUに背を向けた英国。その代わり、米国や英連邦諸国、日本を含むアジア各国と関係を深める方向に向かうという見方が強い。日英包括的経済連携協定(日英EPA)はその一歩ともいえる。

英国がジョンソン政権の宣言どおりこれまで以上に繁栄していけるのか、ここからの動きに引き続き要注目だ。

(文・小林恭子)

EU加盟国はブレグジットをどう見たか

EU諸国では、ブレグジットをどのように受け入れたのだろうか。実は、新型コロナウイルスの感染拡大でそれどころではなかった、というのがEU市民の本音かもしれない。それでもFTAの合意期限が迫るにつれて、EU離脱関連のニュースが各国紙面のトップ・ニュースに上がるようになった。

EU加盟国はブレグジットをどう見たか

EUのリーダー的存在ドイツとフランスの反応

独「ハンデルスブラット」紙の報道によると、12月までEU議長国を務めたドイツはウルズラ・フォンデアライエン欧州委員長と非常に密接な関係にあり、フランスの協力も得て、12月24日にFTA合意を導いた。アンゲラ・メルケル首相は声明のなかで、この合意を「歴史的に重要」として歓迎の意を表明。締結内容は結果的にEU、とりわけ輸出経済に強いドイツにとって有利となり、特に自動車業界がいち早くこの合意を祝福したのは偶然ではないという。またドイツは親EU派が多く、「シュピーゲル」紙(オンライン)の政治部編集者ケヴィン・ハーゲン氏は、「歴史的な誤りにして自己破壊行為」などとブレグジットを痛烈に批判している。

一方のフランスでは、漁業権をめぐる交渉が最も注目を集めていた。英海域には豊かな漁場があり、フランスやオランダなどの漁業関係者にとっては死活問題だ。2022年に再選を狙うエマニュエル・マクロン大統領は、10月に行われたEU首脳会議の前に「漁師たちをブレクジットの犠牲にすることはできない」と表明。良い条件で合意することができなければ、譲歩せず承認を拒否するとみられていた。その後、ジョンソン首相は交渉決裂を回避するため、土壇場でEUに大幅譲歩。EUの漁業者は今回の合意に胸をなで下ろした。マクロン大統領は大晦日のTV演説で、フランスは今後も英国との協調関係を重要視しつつ、欧州と共に歩むことを明言した。

さらなる離脱国は現れるのか?

ほかのEU加盟国もこの合意を「欧州の力」の表れであるとして歓迎。イタリアのジュゼッペ・コンテ首相は、英国は引き続き主要なパートナーであり同盟国であると述べた。また長い間論争の的となっていた、北アイルランドの国境管理について、アイルランドのミホル・マーティン首相は、お互いに良い妥協点を見つけられたと好意的に受け取っている。

一方で、英国に次いでEUを離脱する国が現れるのではないかという危惧もある。例えば、ポーランドやハンガリーでは近年、強権的な政権の下で司法などの独立が脅かされている。EUは、経済回復のためのコロナ復興基金を設立し、その分配条件として権力の乱用を法で縛る「法の支配」の順守を加盟国に求めていたが、上記二国は反発。一時は年内の予算成立もあやぶまれたが、最終的には合意に応じた。

英国のEU離脱という重要課題に終止符が打たれ、EU諸国もまた束の間の安堵を得ているかもしれない。しかし、新型コロナウイルス対策や経済復興策などの立ちはだかる大きな壁に、連帯を強めることができるのか、あるいは分断が進んでしまうのか。EUとしての結束力が、引き続き問われている。

(文・ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:Handelsblatt「Deutschland hat seine Ziele erreicht – mit Pragmatismus und Hartnäckigkeit」、tagesschau.de「Merkel nennt Einigung "historisch"」、Der Spiegel「Warum wir uns niemals an den Brexit gewöhnen dürfen」、France TV3「Brexit & pêche. 25% de perte d'activité pour l'Europe: quelles aides pour les pêcheurs et mareyeurs bretons?」、Deutsche Welle「EU-Rechtsstaatsstreit: Polen und Ungarn erklären sich zu Siegern」

 

ソーシャル・メディアとうまく付き合うためのQ&A - つながりっぱなしの世界、どうやって過ごす?

ソーシャル・メディアとうまく付き合うためのQ&Aつながりっぱなしの世界、どうやって過ごす?

今日、大量の情報やその中に紛れているフェイク・ニュースが多くの人を悩ませている。コロナ禍でも「お湯を飲むと予防効果がある」、「感染者が空港から脱走した」などの偽情報がソーシャル・メディア上をかけめぐったのは記憶に新しいだろう。本特集の最後に、そんな情報過多社会においてどのように情報と付き合うべきか、ソーシャル・メディア論の専門家である藤代裕之さんにお話を伺った。

ソーシャル・メディアとは

インターネットを介して、誰でも情報を発信・受信し、双方向的なやりとりができるメディア。代表的なものとして、ツイッターやインスタグラムをはじめとするソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、ユーチューブなどの動画共有サイト、ブログ、ラインなどのメッセージング・アプリなどがある。

お話を聞いた人

藤代裕之さん Hiroyuki Fujishiro

法政大学社会学部メディア社会学科教授、ジャーナリスト。徳島新聞社で記者として、司法・警察、地方自治などを取材。NTTレゾナントで新サービスの立ち上げや研究開発支援担当を経て現職。日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)代表運営委員。専門は、ジャーナリズム論、ソーシャル・メディア論。

Q. スマートフォンは生活に欠かせないのに、ずっと一緒は疲れる……これって現代人共通の悩み?
A. スマートフォンは「便利でやや不快なもの」

スマートフォンが手放せない理由の一つは、ずばり「身体的・物理的な距離の近さ」。テレビや新聞などのマスメディアの時代には、特定の場所や時間において情報に触れることが一般的でしたが、スマートフォンならベッド、風呂、トイレ……いつでもどこでも持ち歩けます。

日本人のメディア接触時間は、2019年時点で1日当たり400分を超える日本人のメディア接触時間は、2019年時点で1日当たり400分を超える

一方でNHK放送文化研究所の調査では、日本に住む18~69歳の回答者のうち、およそ8割が「情報が多すぎる」と回答。マスメディアが主流の時代、「ニュースを読む・見る」ことは、新聞を取りに郵便受けに行ったり、テレビのチャンネルを選んだりと能動的な行動に紐付いたものでした。しかしスマートフォンは常時ネットに接続されており、一日中アプリからのプッシュ通知が届きます。この大量の情報に受動的に接し続けなければならない状況が、いわゆる「情報疲れ」や「スマホへの不快感」の原因に。とはいえ、人間は1度手に入れた便利なものからなかなか離れられないので、メディアに対する意識と現実の間で、あらゆる世代の人が揺れ動いているのが現状です。

Q. ネットによって視野が狭くなっている若者が多いと聞きますが、実際のところは?
A. 実は中高年世代よりも若者の方が「合理的かつ冷静」に情報に触れている

「フィルター・バブル」(泡のフィルター)という、ネットの検索結果が利用履歴などをもとにカスタマイズされ、各ユーザーにとって心地良い情報ばかり入ってくる現象があります。それによって利用者の視野が狭まり、似た意見がつながりやすくなるというのですが、これはインターネット黎明期からずっと議論されてきました。

従来、ソーシャル・メディア上の不確実な情報を鵜呑みにするのは若者だといわれてきました。ところが最近の10~20代のメディア接触の仕方は、合理的かつ冷めたものだということが明らかに。彼らの検索行動を調べると、グーグルなどの検索サイトではなくソーシャル・メディアでの「ハッシュタグ検索」を多く利用しています。ハッシュタグ検索では、アルゴリズムを使った検索結果の順位付けもなく、極端なものも含めた意見の「相場観」を知ることが可能。日本の若者が突出することを嫌う傾向にあることから、まんべんなく全体の意見を知ろうとする検索態度が垣間見られます。

一方、中高年世代はメディアに対して「正しさ」や「真実」を求める傾向が強いです。かつて、テレビや新聞は取材から配信まで一貫して行い、間違った場合はその媒体自ら訂正しました。そのため、基本的に「情報」は信用できるものとして受け取られていたのです。それゆえ彼らが当時の感覚でスマートフォンを使用すると、自分の意見に近い不確実な情報に接触し、フェイク・ニュースに騙される……なんてことも起きています。

インターネットの閲覧履歴に基づくレコメンドの認知

Q. 昨今、世界的にマスメディアへの不信が広がっています。その理由は何でしょうか?
A. 誰もが発信者になれるというメディア環境の変化

元来マスメディアやジャーナリズムは、政府や公権力の監視、あるいは社会的な弱者への眼差しとして、社会の中でも非常に重要な役割を担うものです。昨今のメディア不信の背景には、マスメディア側にも誤報や不祥事などの問題はもちろんありますが、ソーシャル・メディアの発達によって誰もが発信者になれるといった環境変化があるでしょう。

例えば2016年の米大統領選で、トランプ氏がソーシャル・メディアを巧みに利用して勝利したことは有名です。同氏は、「ニューヨーク・タイムズ」紙やCNNのような大手メディアによる情報を「フェイク・ニュース」と攻撃し、支持者と反トランプ派の亀裂を深めました。大手メディアはそういった政治家への有効な対抗策を見いだせないまま、「トランプ氏が○○とツイートした」といった取材や調査を必要としないニュースを流すなど、むしろ世論の分断を助長する面もあります。

無数のユーザーが発信できる今、伝統的なメディアには、しっかりとした調査に基づいた良質な情報発信が求められています。一方で、紙面販売や広告収入の減少など、経済的な苦境を抱えているのも現実。マスメディアが「誠実にいい記事を作ろう」というだけでは解決しません。情報が拡散されることによってアクセス数や広告収入を稼いでいるインターネット・メディアや、ツイッター、インスタグラムなどのプラットフォームなど、「偽情報でもアクセス数が伸びればそれでいい」というビジネスが成立する仕組み自体を変える必要があります。

質の高いニュースほど制作費がかかる一方で、フェイク・ニュースはコストが安い上に拡散力も高いというジレンマがある

Q. 「メディア・リテラシーを身に付けることが大事だ」といわれますが、それがあれば「フェイク・ニュース」を見抜けるのでしょうか?
A. 個人のメディア・リテラシーだけでなく、ソーシャル・メディア環境の整備が急務!

玉石混交の情報を見分けるには、「誰がどんな意図で書いているか」を批判的に考える力、つまりメディア・リテラシーが必要だと、いろいろなところでいわれています。もちろんそれは大切なことですが、メディア・リテラシーがあれば偽情報を見抜けるかというと、私は懐疑的です。

ソーシャル・メディア環境を車社会に例えてみましょう。昔より今の方が、圧倒的に事故数って少ないですよね。道路の整備、車体の安全性能の向上、シートベルトの義務化など、さまざまな理由があります。その上で私たちは「安全に車を運転する方法」を知る必要がありますが、これがメディア・リテラシーに当たる部分です。しかし、今のメディア環境で私たちに求められるのは、「時速300キロの車が走る道で、故障車を見破って事故を防ごう」というくらい難しいもの。

そんな状況下ではまず、情報を売っているメディアや、拡散しているプラットフォームの責任を問うべきでしょう。例えばツイッター社は昨年の米大統領選に際し、誤情報の拡散防止や、情報拡散のスピードを緩めるため、一部仕様を変更しました。まだ実施されていないだけでシステム的・技術的に可能なことや、法整備が必要なことは数多くあります。そうした基盤が整うことで初めて、私たちは「情報を読み解く」ことが可能になるのではないでしょうか。そのため残念ながら、今のところ「誰でもフェイク・ニュースを見抜ける方法」は存在しません。逆に言えば、今のままではメディア・リテラシーがうまく機能しないこと、そのためにプラットフォーム運営者や政策が何をすべきかを言い続けることが、私自身の仕事かなと思っています。

これから求められるのは「生活に根ざしたメディア」

大量の情報に溢れる現在、多くの人がメディアとの付き合い方を見直し、どんなメディアを選択するかについて意識的になっている。だからこそ、良質なメディアからフェイク・ニュースを発信するメディアまで、あらゆる新しいメディアに均等にチャンスがあるだろうと、藤代さんは語る。藤代さんが特に可能性を感じているのが、「地に足の着いた、生活に根ざしたメディア」だ。正しさについて論評するばかりではなく、身の回りのもっと違った価値に目を向けら れるメディアが、どの情報を信じていいか分からない時代において、人々の支えとなるのかもしれない。ニュースダイジェストは2021年も引き続き、読者の皆様に寄り添った誌面作りを目指したい。

もっと知りたい人におすすめの書籍

「コロナの情報に疲れた」、「若者の話が分からない」……そんな悩みを抱える人も少なくないだろう。本書では、ソーシャル・メディアが広く普及した後の世界(=アフター・ソーシャル・メディア)で、人々がどのように情報接触を行っているかについて、さまざまな調査データをもとに分かりやすく解説し ている。情報過多社会を生きる私たちにとって、多くの発見が得られる一冊だ。

多すぎる情報といかに付き合うかアフターソーシャルメディア多すぎる情報といかに付き合うか
アフターソーシャルメディア

著者:藤代裕之ほか
発行元:日経BP 2020年6月刊行

 

英独仏三国の識者に聞く - 新聞の強みと日本のジャーナリズム

Web限定インタビュー!英独仏三国の識者に聞く新聞の強みと日本のジャーナリズム

ニュースダイジェスト2021年新年号では、英独仏のメディア事情に詳しい3名の識者に、各国新聞の特徴についてうかがった。ここでは、紙面では語り尽くせなかったインタビュー内容を、余すことなくご紹介する。三つの視点から浮かび上がった、「新聞メディアの強みと、日本のジャーナリズムの課題」とは?

お話を聞いた人

英国

小林恭子さん Ginko Kobayashi

在英ジャーナリスト。英国をはじめとした欧州のメディア事情、政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。英国ニュースダイジェストでは毎号「英国メディアを読み解く」を執筆。

ドイツ

熊谷徹さん Toru Kumagai

在独ジャーナリスト。過去との対決、統一後のドイツ、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続ける。ドイツニュースダイジェストでは毎号「独断時評」を執筆。

フランス

フィリップ・メスメルさん Philippe Mesmer

ジャーナリスト、ニュースキャスター。Le MondeとL’Expressの在東京コレスポンダントとして活動中。École Supérieure de Journalisme 修士課程修了。

新聞の強みはどのような点にありますか。

小林さん「規制に縛られない自由な報道」

時間をかけて、自分のペースでじっくり集中して読めることでしょうか。また、(英国の)テレビやラジオの報道は、放送網を利用するために英国情報通信庁(Office of Communications)による監査を受けていて、内容の中立性を順守する必要がありますが、新聞にはそのような特定の法律的縛りはありません。事実と情報を流すだけではなく、論説や分析なども多いので、ニュースの背景についてより深く知ることができる点も、新聞の強みだと思います。

熊谷さん「思いがけない情報に出会える」

印刷された新聞の利点は、デジタル化されたメディアよりも、情報を早く吸収できることにあると思います。物理的にページをめくっていくことによって、新しい情報を見つけやすいんですね。

もちろん、デジタル・メディアの場合は、検索すれば知りたい情報がすぐに出てくるという利点がありますが、逆に言えば、検索しない情報は見つけにくい。紙媒体を最初から最後まで読んでみると、あっと思うようなニュースが見つかったということが、これまでに何度もありました。

メスメルさん「読者の知性に訴える『確かな情報』」

新聞の持つ真面目なイメージは、ほかのメディアにない強みだと思います。特に、ソーシャル・メディアや個人ブログなどによる情報発信が増えた結果、フェイク・ニュースが問題になっている現在においては、「信頼に足る情報」を確実に届ける新聞の存在意義が大きいといえるでしょう。

新聞記者は、見聞きした情報を丸ごと信じることはありません。手掛かりとなる情報をもとに、取材やリサーチを通じて深堀りし、ファクトを確かめます。このプロセスが重要であり、オンライン・メディアなどにはない特徴です。

現在はビジュアルの時代ともいわれており、写真や動画といったイメージがニュース視聴者に与えるインパクトが大きいですが、私はこの傾向にも懐疑的です。

私の通ったジャーナリズム学校の講師が言ったことで、印象に残っている言葉があります。「イメージは感情に訴え、言葉は知性に訴える」というものです。言葉を用いて情報発信する新聞は、読者が冷静に状況を把握し、判断を下すために重要な存在だと考えています。

日本の新聞に必要なことは何でしょうか。

小林さん「権力との距離を保ち、市民の側に立った報道を」

新聞の役割は民主主義を守ることなので、日本の新聞はもっと市民の側に立った報道が必要です。そして権力に対する監視をもう少し厳しくしていただきたい。政治家に「メディアは怖い、用心しなくては」と思わせ、緊張感を持たせるような記事を書かなければいけません。昨今の日本の政治を見ていても、もしこれが英国であれば、菅政権はもうとっくにメディアからボコボコに叩かれているはずです。

英国の新聞の特徴は、思い思いの政治的見解を展開することですが、日本の新聞は不変不動、つまり報道の中立性を重視していますね。偏向報道をしないように作る側が心掛けているし、読むほうもそれを期待している。ですから日本ではよく「偏った報道だ」という言い方で批判が起こります。しかしその分、紙面はどっちつかずになり目立った意見が掲載されないともいえるかもしれません。

英国では、政府が政策を発表すると、新聞は市民の視点から報じます。「市民の生活にとってその政策はどうなのか」と、必ず批判的に物事を見ています。これは例えば性犯罪の報道などでも同じで、被害者の側に立った記事になり、「被害者にも悪い点があったのでは」などという、公平を装った報道にはならないわけです。

また、日本のメディアは、大企業について「企業の言うことにも一理あるのではないか」という姿勢で報道することがありますが、英国では、政治家や大企業などの権力者の言うことは最初から「おかしいことがあるかもしれない」と疑った目で見ている。権力の監視を役割としているのです。

取材方法も、日英で大きく違います。2011年に東日本大震災で原発事故が起きたとき、日本の新聞界は「危険だから行ってはいけない」という政府の言葉を守り、現場に足を踏み入れませんでした。しかし英国のチャンネル4などは行ってしまった。これは、与えられたものを報道するだけではなく、一歩踏みこんで自分たちで判断するということを意味します。人種差別に関する問題なども、当事者に話を聞くだけでは分からないことは、潜入取材で自らが当事者になることで記事を書く。公益のためにはかけ引きや危険も辞さず、情報をもぎ取るくらいのやり方です。それに比べると日本はおとなしいですね。特に政治に関しては、日本は政権がなかなか変わりませんから、一定の政党、政治家と仲良くなることで情報を流してもらう形になってしまいがちです。

熊谷さん「複雑な出来事を解説するクオリティー・ペーパーを」

日本にもドイツのような高級紙(クオリティー・ペーパー)ができてほしいですね。これは、日本のマスコミ関係者や新聞記者の間でもよく話されています。

ドイツ語の動詞に「einordnen」という日本語には訳せない言葉があります。これが意味するのは、出来事や事件を解析して、さらにそれにどういう意味があるのかを解説すること。ドイツでは、新聞を読んで単に新しい情報を入手するだけではなく、「einordnen」することが新聞の一番重要な機能なのです。日本の新聞には、この「einordnen」が足りないと感じています。

日本では事実を中立的に報道し、あとは読者が判断するというスタンスが基本です。しかしながら、この世の中には複雑な出来事が多すぎるため、事実を提示しただけでは一般の人が判断できないことが多いんですね。ドイツ人は理論性を好む傾向にあるので、一般の人が理解できるように出来事の歴史的・政治的背景を解説してくれることを新聞に望んでいます。昨今、世界では右派ポピュリズムが勢力を拡大しています。特に若者たちがその主張の問題点を自分の頭で考えられるようにするには、やはり「einordnen」が重要だと思います。

日本の新聞記事に比べて、ドイツの記事は圧倒的に長いです。日本では、できるだけ記事をコンパクトにしないと受け入れられないと思うのですが、ドイツの新聞ではよく取材したものに関しては丸1ページを割いており、記者の取材力と筆力を感じますね。また、一流の経済学者や歴史学者、政治学者が一面を使って評論を書くこともあります。ホットな話題でなくても、例えば第一次世界大戦や第二次世界大戦が現代の政治に及ぼしている影響といったトピックも。ちょっとした本を読むくらいの内容量があり、読むのは大変なのですが、非常に勉強になります。

今の日本には高級紙と呼べるものはありませんが、月刊誌「FACTA」など一般的な新聞には載らないような内容を伝える雑誌が発行されています。現在は関心のある人だけがそういった雑誌を購読しているような状況ですが、時間と費用をかけてでも物事の背景をきちんと解説するような高級紙が、これからの日本に必要だと思います。

メスメルさん「独立独歩の姿勢で、市民の意見形成に貢献を」

日本の新聞は、もっと独立した存在であるべきです。今の新聞は、政府をはじめとする権力からの干渉を許し過ぎています。官邸での記者会見などを見ていると、政府側の誘導に従って、当たり障りのない質問をしているだけで、突っ込んだ質問をする記者はほとんどいません。メディアの経営層が政府に取り込まれているからだと思いますが。ジャーナリストらしい取材をしていると思えるのは、東京新聞の望月衣塑子記者くらいですね。

紙面を見ても、一面を飾るニュースはほぼ横並びで、各紙の特色が見えません。まるで同じ新聞を読んでいるような気になります。もっと自由に取り上げるネタを選んでもいいと思いますね。紙面上でもっと活発な議論を展開することも必要でしょう。新聞が読者に対して具体的な「イデア」(考え方)を提供し、「こうあるべきだ」という提案をするべきです。読者が自分なりの意見を形成するための助けにならなくてはいけません。民主主義国家の言論機関として、それこそが新聞の使命なのですから。

最近は、ソーシャル・メディア上でマスメディアを「マスゴミ」と呼ぶような風潮もありますが、これはマスメディアの記者たちが積み重ねている地道な取材・調査活動のような舞台裏が、一般の人たちに知られていないからという面もあると思います。

これに対しては、米「ニューヨーク・タイムズ」紙が良い試みをしてます。トランプ政権によるマスメディア攻撃が始まっていた2018年、自社の記者たちの日常を映したドキュメンタリー番組である「ザ・フォース・エステート」(The Forth Estate)を公開したのです。「新聞記事が多くの時間と労力をかけ、時には命の危険を冒して作られているという事実をきちんと説明してこなかったことが、信頼不足につながっている」という反省のもとに制作された番組で、視聴者からは「記者たちが地道な取材活動や真剣な議論を繰り返し、悩む様子を観て、彼らも私たちと同じ人間なのだということが分かった」といった感想も出ています。日本の新聞社も、もっとありのままの姿を見せ、等身大の存在として理解してもらう試みをしてみるといいのではないでしょうか。

マスメディアは、市民に寄り添うパートナーとしての情報提供を

お三方のインタビューを通して、新聞やジャーナリズムにとって欠かせない、いくつかの共通ポイントが見えてきた。

まずは、権力との適切な距離を保ち、民主主義国家における「第四の機関」としての役割を果たすことだ。その時その時の政権や大企業と癒着することなく、主権者である市民の利益を考えた報道をすることが求められる。それに伴っては、独立した報道機関の存在意義をしっかりと示し、「新聞が権力批判をするのは政治家叩きがしたいからではなく、民主主義国家を構成する機能としての役割を果たすためだ」という事実を、丁寧に伝えていくことも必要だろう。

また市民の利益を考えるにあたっては、複雑な事象や問題を中立的に報道するだけでなく、背景なども含めて分かりやすく説明し、市民生活にはどのような影響があるのか、といった解説を提供することも重要だ。

メディアは、権力の暴走を食い止め、私たち一人ひとりの手から主権が奪われることを防ぐための重要なツールだ。ソーシャル・メディアを利用したポピュリズムが蔓延する現代こそ、「一般の人々に寄り添うパートナー」としてのマスメディアの在り方が、ますます求められている。

 

皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュア

ニュースを視覚的に読み解く皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュア

欧州の新聞には、社会や個人の過失、欠陥などを批判した風刺画「カリカチュア」の掲載が多く見られる。ニュースの詳細が分からなくても、一目で万人に理解させるこの手法は、描き手のシニカルな態度と卓越したユーモアがあってこそなせる技。ここでは欧州におけるカリカチュア事情を簡単に紹介しよう。

皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュア英国の「ガーディアン」紙に掲載された、スティーヴ・ベル氏による作品。2020年4月、英国内で増え続ける新型コロナウイルスの感染者数に対し、政府ができるソーシャル・ケアの最終プランを描いた。同氏は、ボリス・ジョンソン首相の顔をお尻の形に描くことで有名だ
参考:https://www.belltoons.co.uk/bellworks/index.php/leaders/2020/4488-150420_SOCIALCAREPLAN

皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュアドイツでは毎年カリカチュア大賞を開催しており、2020年の金賞はヴォルフ=リューディガー・マルンデ氏が受賞。洗車やヴィーガン・スナックの販売で生き残ろうとするガソリンスタンドを通じて、ドイツの車社会の危機を描いている

参考:caricatures&caricature「Political Caricature and International Complications in Nineteenth-Century Europe」、visual-arts-cork.com「Caricature Art」、BBC「Political cartoons: Britain's revolutionaries」、Political Cartoon Gallery「The Greatest British Political Cartoon of All Time」、Deutschlandfunk「Deutscher Karikaturenpreis 2020 Weniger ist mehr」

美術界から生まれたカリカチュア

カリカチュア(Caricature)の始まりは、「実在の人物の特徴を誇張して描いた肖像画」で、美術分野に限られた手法だった。語源はイタリア語の「Caricare」(誇張する)。1590年代のイタリア人画家アンニーバレ・カラッチが、誇張して描いた肖像画のスケッチに対して、最初にこの言葉を使っている。当時のイタリア美術界では、人体比や色彩を誇張した技巧的表現を特徴とするマニエリスムが展開していた。それまでの盛期ルネサンスで到達した「調和のとれた表現」を、ユーモアをもって分解していく作業がカリカチュアだったのだ。

この手法が欧州各地に広まり、18世紀後半から19世紀半ばにかけて、英国ではジェームズ・ギルレイ、トマス・ローランドソン、ドイツではヴィルヘルム・ブッシュ、フランスではシャルル・フィリポンなど、日常生活や政治を風刺する画家が次々に誕生する。テレビやラジオがない19世紀の欧州で、カリカチュアは識字率の低い貧困層にとって情報源になった一方、政府にとっては脅威の存在でしかなかった。特に自国で他国を嘲笑する風刺画が出回ることは、外交上の不都合以外の何ものでもない。各国で対応にばらつきはあるものの、1815~1914年の間、政治批判のカリカチュアは英国を除くほとんどの国で政府による検閲の対象になった。

独自路線派、慎重派、そして過激派

2020年は新型コロナウイルスを扱うカリカチュアが多数登場した英独仏の3国。しかしカリカチュアの扱いは、近隣国同士でありながら大きく異なる。

まずは、英国のカリカチュア。前述の通り英国ではこれまで政府の検閲が行われなかったが、その理由は人々が自国の支配者を笑うことで政治への不満を抑え、社会を安定させることを狙った政府の戦略にあった。そのような基盤の上に成り立つカリカチュアは、政治家を知るのに「(公式の肖像画より)よっぽど有用だ」とされ、むしろ題材になることを名誉に感じる政治家もいるほど。

対するドイツは、掲載内容に関してはかなり慎重派。政治家、移民問題、環境問題などを積極的に取り上げる一方、イスラムを題材にした作品は、2015年にパリで起きたシャルリー・エブド襲撃事件以降、避けられがちに。また、教育関係者の中には、生徒たちにムハンマドのカリカチュアは見せたくないと考える人も多い。

この路線と真逆を行くのがフランスだ。カリカチュアは同国における言論の自由、議論の自由、表現の自由の象徴の一つとして揺るぎない地位を確立している。また、新聞や雑誌に関しては、「皮肉な表現方法も、思想や意見を話し合うための手段」と考えることから、表現の自由が尊重される傾向がある。ただし、その自由は無制限ではなく、特定の人を中傷することや差別的発言、戦争犯罪を称賛することは法的に禁止されている。

 

英国・ドイツ・フランスのメディア解剖 - コロナ時代の「情報力」を身に付ける

コロナ時代の「情報力」を身に付ける 英国・ドイツ・フランスのメディア解剖

欧州では長い歴史の中で、新聞社や公共放送がメディアの中心的存在を担ってきたが、昨今、私たちを取り巻くメディアの様相は大きく変化している。特にコロナ時代になり、情報を意識的に取捨選択することがますます必要になった。2021年最初のニュースダイジェストでは、英独仏の新聞やカリカチュア、さらにはソーシャル・メディアの視点から、今日のメディアのあり方を徹底解剖! 情報とうまく付き合い、困難な時代を生き抜くためのヒントを探る。(文:英国・ドイツ編集部)

全ての「メディア」はローマに通ず
紀元前ローマから始まった新聞

世界最初の「新聞」を発行したのは、共和政ローマ期の政治家カエサルだといわれる。元老院の議事録を中心に、催事やよもやま話も織り交ぜたこの新聞は、掲示板に張り出される形だった。その後、手書きのニュースレターは存在していたが、新聞といえるものの登場は印刷技術の発明まで待たなくてはならない。

活版印刷技術が早く実用化したドイツでは、世界で1番に週刊紙「リレーション」(Relation)(1605年)を発行。フランス初の定期発行された新聞は「ラ・ガゼット」紙(La Gazett)(1631年)、英国ではオランダから輸入された英字新聞が1620年代にあったものの、最初の英国新聞として知られるのは「オックスフォード・ガゼット」紙(Oxford Gazette)(1655年)だ。ドイツの新聞が他国より先に発達したのは、技術的な理由だけでなく、国家が分裂状態にあり、印刷物への検閲が緩かったためだといわれている。この時代、各国では王室や国王を攻撃する新聞などは処罰の対象になった。

報道の自由を求める闘いは17世紀に始まり、最終的に英国では1695年に「権利の章典」として実を結ぶ。フランスではヴォルテールらの啓蒙思想が広まり、フランス革命へと発展。ナポレオンが「新聞によって王朝が終結した」と語ったほど、この時期には次々と新聞が誕生し、世論形成に大きな役割を果たしたのだ。新聞の基本的な役目は19世紀まで変わらなかったが、印刷技術の発達によって大量印刷が可能に。やがて、マスメディアに進展していくのだった。

参考:European History Online http://ieg-ego.eu MITTELDEUTSCHER RUNDFUNK www.mdr.de 小糸 忠吾『新聞の歴史―権力とのたたかい』 (新潮選書)

世界報道自由度ランキング2020
欧州は比較的メディアの自由度が高い!

世界報道自由度ランキング2020※数値が小さければ小さいほど自由度は高くなる。

出典:国境なき記者団「2020 World Press Freedom Index」

世界報道自由度ランキングとは

世界のジャーナリストたちによって構成されるNGO「国境なき記者団」が2002年から毎年発表しているランキング。世界180カ国と地域を対象に、メディアの独立性、多様性、透明性、自主規制、インフラ、法規制などについて、専門家へのアンケートや各国のデータを組み合わせた独自の評価基準と数式によって評価値が算出される。

三国の新聞比較

英国・ドイツ・フランスとも、報道の自由度が比較的高いことで共通しているが、各国のメディアを比較してみると、それぞれお国柄が表れていることが分かる。そんな三国の新聞がどのような視点で世の中の出来事を報道しているのか、各国のジャーナリストにお話を聞いた。

権力に対し健全な批判を展開する英国 権力に対し健全な批判を展開する英国

指導者層の愛読紙からタブロイド紙(大衆紙)に至るまで、英国で発行されている新聞の根本にあるのは「批判精神」。テレビやラジオが英国情報通信庁(Office of Communications)による監督を受け、中立性を順守しているのに比べ、新聞には特定の法律的縛りはない。そのため左派も右派も権力の監視塔としての役目を果たすべく、論鋒鋭く問題に切り込んでいく。保守であっても政府の広告塔ではなく、その新聞の立ち位置であるに過ぎない。それでも過激に走り過ぎず、一定の自主規制の下で報道するところは英国らしいといえる。

お話を聞いた人

小林恭子さん Ginko Kobayashi

在英ジャーナリスト。英国をはじめとした欧州のメディア事情、政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。英国ニュースダイジェストでは毎号「英国メディアを読み解く」を執筆。

英国を代表する新聞

冷静な視点は指導者層が愛読
The Times
タイムズ紙

保守中道の全国紙。政治家、大企業の経営者などの指導層が愛読する。常に冷静な視点から報道し、偏りの少ない公正な論調が基本。先ごろの米大統領選では、他紙がバイデン氏の勝利を大々的に報じていたのに対し、軸足をトランプ大統領側に置いた冷静な見出しを掲げたのも、その表れといえる。

1785年に創刊された英国の老舗メディアの一つであり、「ニュースペーパー・オブ・レコード」、つまり「正式な記録を残す新聞」としての権威がある。2010年からはオンライン版の有料化に踏み切るなど、長い伝統を持ちながらも、常に先手を打って英国の新聞業界を牽引する存在。ポッドキャストにも力を入れ、「ストーリーズ・オブ・アワ・タイムズ」では、米大統領選からシリアの情勢まで、毎日1本、政治や文化を中心に一つのトピックを掘り下げる。姉妹紙には「サンデー・タイムズ」がある。

権力を監視する英国の良心
The Guardian
ガーディアン紙

左派・リベラル系。知識層やアーティスト、中産階級が主な読者。民衆弾圧事件「ピータールーの虐殺」を機に1821年に創刊され、1959年に全国紙となった。営利主義を拒否し、オンラインで全記事が無料で読める数少ない高級紙。基本的に労働党支持だが、かつて労働党のブレア元首相が参加を決断したアフガニスタン侵攻や、イラクでの戦争には猛反対を示し、人々の良心に訴えた。

権力を監視する、積極的な取材に定評がある。NSA(米国国家安全保障局)による国際的監視網「PRISM」の実在を告発したエドワード・スノーデンから託された資料を調査・掲載するなどし、2014年にはピューリッツァー賞を受賞した。ポッドキャスト「トゥデイ・イン・フォーカス」は、ニュースをより深く理解するために週5日さまざまなトピックを解説する。姉妹紙に日曜版の「オブザーバー」がある。

扇動的な見出しで庶民の心をつかむ
Daily Mail
デーリー・メール紙

英国のタブロイド紙としては最も古い保守系右派の新聞。反権力の名の下に庶民の立場から報道するものの、扇動的な見出しが多く、内容が事実と異なることがある。そのため、ウィキペディアは同紙を情報源として引用することを禁止したほど。政治的には、移民や難民の受け入れ反対派。英国の欧州連合からの離脱を決める国民投票の際には、当時の首相デービッド・キャメロンが苦情を訴えるほど、大々的に離脱キャンペーンを行った。

読者層は平均年齢が58歳、「中産階級のやや下」(Lower Middle Class)の女性という結果が出ている。ほかのタブロイド紙同様、王室ネタ、有名人ネタなどのゴシップ記事が豊富で、一面を飾ることも多い。英国は概してタブロイド紙間の競争が激しく、特ダネ記事をめぐる熾烈な争いが展開されており、メーガン妃が悩まされたのもこの点だったといわれている。

ほかにもユニークな視点の新聞

サーモンピンク色のフィナンシャル・タイムズ紙(Financial Times)は、保守中道派の経済紙。国際報道では高い情報力と信頼を得ている。現在オンライン版のみのインディペンデント紙(The Independent)は、1986年発刊の比較的新しい一般紙。ガーディアン紙よりも左派・リベラルで、ジョンソン政権の新型コロナ対策に強く反対するなど、メッセージ性の強い紙面構成が特徴。エコノミスト誌(The Economist)は雑誌の外見をとるが、れっきとした週刊新聞。国際政治と経済を扱い、科学技術系にも強い。記者は完全匿名性で、「本誌は」などの一人称を用いることで知られる。左にも右にも寄らない中道を標ぼうするが、その主張の多くはリベラルな左派といっても良い。

ニュースの背景や影響を徹底解説するドイツ ニュースの背景や影響を徹底解説するドイツ

ドイツでは、日本のように新しい事実をいち早く伝える特ダネは重要視されていない。どのような背景から事件が起きたのか、今後それが社会にどう影響するのかを解説することが、新聞の大きな役割と考えられている。各分野に精通した専門記者が多数活躍しており、報道自体が政治や社会を大きく動かすことも。また、報道自由ランキングで上位になる理由は、ナチス政権時代の反省から言論や報道の自由を重視していることにある。さらにナチスドイツの歴史を繰り返し報道することで、若い世代に伝えていくこともドイツのメディアの使命といえるだろう。

お話を聞いた人

熊谷徹さん Toru Kumagai

在独ジャーナリスト。過去との対決、統一後のドイツ、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続ける。ドイツニュースダイジェストでは毎号「独断時評」を執筆。

ドイツを代表する新聞

政治家や官僚が毎朝必ず読む
Frankfurter Allgemeine Zeitung
フランクフルター・アルゲマイネ紙

フランクフルター・アルゲマイネ紙(F.A.Z.)はドイツを代表する高級紙。政治家や企業の取締役、研究者など、ドイツのかじ取りをする人にとって必読紙であり、中央官庁の官僚たちは毎朝必ず読むという。その理由は、ほかの新聞にはない圧倒的な質の高さにある。良質な記事に丸1ページを割いていることから、F.A.Z.の記者には取材力と筆力が感じられる。読者は中道右派が多い。

また、F.A.Z.の社説は政治にも影響力を持つことで知られる。1990年代に旧ユーゴスラヴィアで内戦が起きた際、東欧情勢に詳しいヨハン・ゲオルク・ライスミュラー記者が「クロアチアがユーゴスラヴィアから独立したら、ドイツはクロアチアの独立を承認すべきだ」と社説で論じた。実際にドイツは非常に早い段階で独立を承認し、独政界ではこの社説が当時のコール政権の政策に大きな影響を与えたといわれている。

調査報道に強い元祖リベラル
Süddeutsche Zeitung
南ドイツ新聞

南ドイツ新聞(SZ)の特徴は、独自の取材・調査によって問題を掘り起こす調査報道の強さにある。2016年に世界を揺るがしたパナマ文書(租税回避に関する機密文書)のスクープは、このSZの調査報道によるものだった。多数の政治家やビジネスマンなどのオフショア資産口座の実態を暴露した報道をきっかけに、パナマ文書のデータを持つ人物がSZにコンタクトし、その存在が明るみに出たのだという。特ダネから次の特ダネにつなげることも、SZの強みである。

国際的なジャーナリスト機関とデータを共有するというネットワークの広さも自慢で、お金と時間と人手が必要な調査報道を国内の他メディアと協力して行っている。調査報道に強い記者が多くそろっており、昨今ではIT テクノロジーを駆使し、膨大な量の文書を分析して記事を執筆。リベラルな論調のため、読者層は中道左派が多い。

政界も揺るがすタブロイド紙
Bild
ビルト紙

ビルト紙は、ドイツで唯一100万部以上を発行するタブロイド紙。スキャンダル報道も多いが、面白いことにドイツの政治家は同紙を非常に重視している。ドイツの政治家は社会に向けて重要なメッセージを発信するとき、一紙のみのインタビューを受けることがあるが、その媒体としてよく選ばれるのがビルト紙なのだ。その理由は、ずばり広く読まれているから。

また、2010年にドイツ連邦軍の指示で起きたアフガニスタンでの爆撃について、ビルト紙の報道が注目された。当時のユング国防相は、死亡したのはテロリストのみであると発表していたにもかかわらず、実は市民も犠牲になったという事実を隠ぺいしていたことを同紙が明らかにしたのだ。ユング国防相はこのスキャンダルにより辞任。ビルト紙の報道があながちばかにできないことを象徴する出来事だった。

ほかにもユニークな視点の新聞

週刊新聞のツァイト紙(Die Zeit)の読者は、社会民主党(SPD)や緑の党を支持しており、圧倒的に中道左派が多い。その論調は非常に穏健で、経済的な利益よりも人権保護や環境問題などに重点を置く。さらにリベラル派には、ベルリンのターゲスツァイトゥング紙(taz)が読まれている。一方、ハンデルスブラット紙(Handelsblatt)は、調査報道を重視する経済新聞。最近ではフォルクスワーゲンの不正排ガス事件やワイヤーカードの不正会計事件など、厚みのある記事を多く発表している。また、地方紙がよく読まれていることもドイツの大きな特徴だ。地方分権が進んでいるため、地域の出来事を重視する人が多く、全国紙より地方紙を読んでいるということも珍しくない。

報道にも思想を求めるフランス 報道にも思想を求めるフランス

フランスの新聞の特徴は、思想的立ち位置が明確なこと。コンテンツ作成の際は、「ファクトよりもイデオロギーに重点を置くべき」という観念があり、事実報道の記事にも、各紙の論調に基づく独自の「アナリシス」が添えられていることが一般的だ。新聞が「何が正しくて、何が悪いのか」をはっきりと主張する傾向が強く、読者は個々の思想信条に沿って、自分の読む新聞を決める。そのため、新聞によって、一面に掲載されるニュースが大きく違うことも少なくない。「新聞報道は中立的でなくてはならない」という常識がある日本とは、全く異なる文化といえるだろう。

お話を聞いた人

フィリップ・メスメルさん Philippe Mesmer

ジャーナリスト、ニュースキャスター。Le MondeとL’Expressの在東京コレスポンダントとして活動中。École Supérieure de Journalisme 修士課程修了。

フランスを代表する新聞

知識層に愛される国際派新聞
Le Monde
ル・モンド紙

1944年に創刊されたル・モンドは、「地球」を意味する紙名に象徴される通り、伝統的に国際情勢を重視する傾向にあり、国際ニュースが一面を飾る頻度も高い。思想的には中道左派で、創刊当時は反植民地主義を唱えるプログレッシブな新聞という立ち位置だった。

現在では、主にパリを中心とする都市部の知識層から支持され、親EU(欧州連合)主義、LGBTの権利の容認など、国際協調や人権主義を基本とした論説を唱える。アナリシスの分量とクオリティーにこだわり、記事の本数を絞ってでもアナリシスに注力するという編集スタイルが特徴的だ。大手新聞の中では最も早い1995年に電子版を発行し、オンラインでの読者獲得と囲い込みに成功。デジタル面での施策に積極的で、2018年には大量の有料記事を無償解放し、会員登録者数を20パーセント以上増やしたことでも話題になった。

カトリック系富裕層からの厚い支持
Le Figaro
ル・フィガロ紙

1826年に初めて発行された、フランスでは最も古い歴史を誇る新聞。「フィガロ」という名称は、モーツァルトのオペラでも知られるボーマルシェの戯曲「フィガロの結婚」に由来している。伝統的にカトリック系のブルジョア層を主な読者とし、資力は抜群。現在、フランスの日刊紙の中では最も発行部数が多い。

思想的には中道右派としてスタートし、第二次世界大戦後はド・ゴール政権を支持する立場を取っていた。2004年に航空機製造企業を起源とするコングロマリット、ダッソー社がオーナーに就任して以降は、右派系の新聞として認知されている。現在の紙面は、反移民主義、自由貿易主義、同性婚への反対など、保守的な論調が強い。2006年には、イスラム教を批判する記事を掲載したとして、エジプトとチュニジアの政府が国内でのフィガロ紙購読を禁止するという事件も起きた。

哲学者サルトルが創設した活動家の愛読紙
Liberation
リベラシオン紙

1973年、実存主義で知られる哲学者ジャン=ポール・サルトルが中心となって創刊。当時は編集長から清掃員までが同じ給料を受け取るという、階層を排除した社会主義的な運営スタイルをとった。伝統的にフランスにおける左派の論壇として知られ、急進左派的な新聞として認知されていたが、2005年にロスチャイルド家が上場株の37パーセントを取得。編集長が解任されるなど社内紛争が起こり、一時ストライキにまで発展した。

現在のリベラシオンは中道左派にシフトし、移民保護、同性婚容認、人工授精の権利拡大などを促進する論調を展開。社会活動家を後押しする新聞としても知られる。業界関係者からは、タイトル・センスの良さ、ユーモアのある文章、高品質な報道写真など、アーティスティックな部分への評価が高く、哲学や精神世界をフィーチャーしたコンテンツにも特徴がある。

ほかにもユニークな視点の新聞

「人道」を意味する名前を持つ、左派系の日刊紙リュマニテ(L’Humanite)。1904 年、フランス社会党の党首だったジャン・ジョレスによって発行され、1921 年からはフランス共産党の機関紙としての役割を果たした。2001年に民営化したが、論説面では変わらず共産主義的な視点を保っている。各地にネットワークを持ち、全国的には知られていない社会現象を取り上げるなど、大手新聞では読むことができない独自の記事を掲載。取材力の高さやユニークな切り口で、ジャーナリストからの評価が高い。庶民の生活に密着した社会問題を取り上げる点は、日本の「赤旗」と似たところがある。株式の60パーセントを読者や著者らが保有し、毎年9月に読者が集まる「ユマニテ祭」を開催している。

 

イングランド国教会とクリスマス

知っているようで知らない イングランド国教会とクリスマス

英南部ワイト島にあるイングランド国教会の聖トマス教会とクリスマス・ツリー英南部ワイト島にあるイングランド国教会の聖トマス教会とクリスマス・ツリー

現在の英国の国教であるイングランド国教会(Church of England)。ローマ・カトリックやルター派のプロテスタントと異なり、国家元首を首長とする、キリスト教のなかでも特殊な教派だ。ロイヤル・ウェディングや女王の即位記念式典など、華やかな式典においても重要な役割を果たしているイングランド国教会。とはいえ、「カトリックやほかのプロテスタントと何が違うのか」といった疑問を抱く人も多いだろう。今回は、イングランド国教会の成り立ちや特徴、伝統的なクリスマスの過ごし方について紐解いてみよう。(文・英国ニュースダイジェスト編集部)

イングランド国教会を知る4つの基礎知識

1成り立ちの歴史ある王様のわがままが始まりだった

イングランド国教会は、チューダー朝の第2代国王、ヘンリー8世の離婚騒動をきっかけに成立した。カトリック教徒であったヘンリー8世は、新興貴族の娘アン・ブーリンと結婚するため、妻であるキャサリン・オブ・アラゴンを離縁しようと試みる。ローマ教皇クレメンス7世に婚姻無効の宣言をするよう求めたものの、認められなかった。

業を煮やしたヘンリー8世は、英国国内における教皇の霊的首位権を否定し、国王こそが宗教的な首長であるという主張を展開した。参謀であったケンブリッジ大学の教授、トマス・クランマーをカンタベリー教会の司教に任命し、アン・ブーリンとの再婚を実現したが、結果としてローマ・カトリック教会から破門されてしまう。これを受けたヘンリー8世は1534年、国王至上法(首長令)を発令し、イングランド国教会の礎を築いた。

イングランド国教会が正式にローマ・カトリックから独立したのは、エリザベス1世時代の1559年だ。英国議会が国王を「信仰の擁護者」として認め、首長令を採択。ついに英国国教としてのチャーチ・オブ・イングランドが誕生した。

イングランド国教会成立のきっかけを作ったヘンリー8世イングランド国教会成立のきっかけを作ったヘンリー8世

2主な教派さまざまな考え方を受け入れる柔軟性

現在のイングランド国教会は、「国教会」と「非国教会」の2種類に大別される。国教会のなかには、カトリック的な伝統を重んじる「ハイ・チャーチ」と、聖書の内容のみを信仰の柱とする「ロウ・チャーチ」の2派があるが、明確な組織として分かれているわけではない。

非国教会は、「ピューリタン」(清教徒)の呼称でも知られ、清教徒革命のきっかけになった「独立派」と、経験豊富な信徒を教会の導き手として選出する「長老派」の2派に分かれている。そのほか、さらに「クエーカー」、「メソジスト」なども生まれたが、英国国内での弾圧をきっかけに、米国をはじめとする世界各国に散らばっていった。

日本国内では、英国海軍の宣教医師だったバーナード・ジャン・ベッテルハイムが、1846年に沖縄で布教を開始。1887年に日本聖公会が設立され、立教大学や桃山学院大学などをはじめとする教育機関も開校した。上皇の教育役として来日した米国人司書、エリザベス・ヴァイニングも、熱心なクエーカーであったことが知られている。

清教徒革命の様子を描いた「ネイズビーの戦い後の風景」清教徒革命の様子を描いた「ネイズビーの戦い後の風景」

3特徴カトリックとプロテスタントのいいとこ取り?

ローマ・カトリック教会から独立したイングランド国教会は、理論的にはプロテスタントに該当する。とはいえ、実質的にはカトリックの伝統を踏襲している点が特徴。聖書のみを信仰の対象とし、教会を権威とみなさない一般的なプロテスタントとは異なり、「聖書の内容と矛盾しない限りは、カトリックの伝統も容認する」という、中道的な立場を取っている。一般的なプロテスタントでは禁止されている偶像崇拝やマリア信仰も、イングランド国教会では許容されている。

また、国家元首であるイングランド国王を宗教的首長とし、上院には聖職者議員が所属するといった、政教不分離の体制も独特だ。

近年注目されているマイノリティーへの対応については比較的寛容で、2010年には女性叙任者の人数が男性のそれを初めて上回った。同性婚に対しては、表向きは反対の姿勢をとっているものの、個別の教会においては同性同士の結婚式を執り行っているところもあるなど、裁量に任せられている。

同性婚の式を行う教会もある同性婚の式を行う教会もある

4代表的な教会ロンドン市内ならここが有名

ロンドン市内にある、イングランド国教会に属する代表的な教会といえば、チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の結婚式でも有名な聖ポール大聖堂だろう。ロンドン教区の主教座聖堂であり、聖ポール大聖堂の主教は、聖職貴族(Lord Spiritual)の地位を与えられている。現在の主教はデイム・サラ・ムラーリー。前職は国民保険サービス(NHS)のイングランド主任看護師というユニークな経歴の持ち主で、2018年に主教に任じられた。

ロンドン西部のスローン・スクエアにあるホーリー・トリニティー教会も、イングランド国教会に属している。19世紀から20世紀にわたって英国で一斉を風靡したアーツ・アンド・クラフト運動の影響を受けた建築が特徴で、エドワード・バーン・ジョーンズやウィリアム・モリス、ウィリアム・ブレイクなど、当時活躍したアーティストが手掛けた、壮麗なステンド・グラスを見ることができる。

聖パウロを祭る聖ポール大聖堂聖パウロを祭る聖ポール大聖堂

イングランド国教会の司祭に学ぶ
クリスマスの伝統的な祝い方

日本人にはなかなか馴染みのないイングランド国教会。教徒たちは、どのようにクリスマスを祝っているのだろうか。ロンドン西部のホランド・パーク地区の教会区司祭、ジェームズ・ハード氏にお話をうかがった。キリスト教徒ではない日本人がイベントに参加するときのアドバイスもご紹介しよう。

ジェームズ・ハード司祭ジェームズ・ハード司祭

Revd Dr James Heard
Vicar, United Benefice of Holland Park

ホランド・パーク周辺にある聖ジョン・ザ・バプティスト教会と聖ジョージズ教会で司祭を務める。チェルシーの聖ルーク教会の教会区副司祭を経て2013年より現職。2教会は、16年にユナイテッド・ベネフィス・オブ・ホランド・パークとして共同活動を行っている。

聖ジョン・ザ・バプティスト教会St John the Baptist

Holland Road, London W14 8AH
Tel: 020 3602 9873

St George’s Church

Campden Hill, London W8 7JG
Tel: 020 3602 9873

https://hollandparkbenefice.org

イングランド国教会のクリスマスにとって最も重要なこととは何でしょうか。

イングランド国教会のクリスマスの精神は、基本的にはカトリックやほかのプロテスタントのそれと大きく変わらないと言っていいでしょう。つまり、神が私たちと一緒にいるために、人の姿で地上に生まれてくださったことを喜び、祝うことです。また、神が人間のために与えてくださった愛、共感、寛容の精神を思い出し、それを自分もほかの人に対して分け与える、ということも、重要な要素です。クリスマスの慈善活動や募金などは、この精神に基づいています。

特に、ホームレスの人や、貧困に苦しむ人へのクリスマス・チャリティーが多いのは、イエス・キリストが、何も持たない貧しい難民の両親の子として生まれたことに意味があると考えるためです。最も弱い者の形で地上にもたらされたイエス・キリストの誕生を祝い、「私たちは神に愛されている」ということを再認識し、その愛を人にも分け与える。それが、教会が大切にしているクリスマスの心だと言えると思います。

クリスマス礼拝のポスター。幼子イエスの絵が描かれているクリスマス礼拝のポスター。幼子イエスの絵が描かれている

国教会のクリスマスならでは要素はありますか。

アドベントやクリスマス礼拝など、基本的な儀式は、カトリック教会とほぼ同様だと言えます。リースやツリーなどのクリスマス・デコレーションは、教派というよりも、各教会によって違いますね。私たちの教会は建物自体が比較的豪華なので、派手な飾り付けはほとんどしていませんが、イエス・キリストの誕生の場面を表現した「クリブ」と呼ばれる人形飾りを、教会内に出しています。

教徒に定着している民間の慣習としては、アドベントの前の日曜日にクリスマス・プディングを作る、「スター・アップ・サンデー」が挙げられます。「混ぜる」を意味する「Stir」と「星」を意味する「Star」が掛かっており、クリスマス・プディングのタネをかき混ぜるごとに、心にクリスマスの星を灯していく、という意味合いがあるのです。家族がキッチンに集まって、交代でプディングを作り上げる、だんらんの機会でもあります。

教会での催しとして独自なものは、「ナイン・レッスンズ・アンド・キャロルズ」。クリスマス・イブの礼拝で、聖書の9つの箇所を読み上げ、9つの聖歌を歌うイベントです。19世紀に英南西部コーンウォールの教会で始まり、今では全国的に広まっています。ケンブリッジ大学のクリスマス礼拝で行われるものが特に有名ですね。

スター・アップ・サンデーに作るクリスマス・プディングスター・アップ・サンデーに作るクリスマス・プディング

洗礼を受けていない日本人がクリスマス礼拝に参加しても大丈夫ですか。どんな準備をしたらいいでしょうか。

教会にもよると思いますが、私たちを含む教会ネットワーク「インクルーシブ・チャーチ」に参加しているところでは、あらゆる人種、性別、文化的背景の人を歓迎しています。ロンドンには、世界各国から人が集まります。そんな人たちが、「安全な場所」として訪れられる教会であることを目的としているためです。

イングランド国教会の礼拝では、参加者に「サービス・シート」と呼ばれる小冊子を配っています。進行プログラムや聖歌の歌詞はもちろん、どこで立つ、どこでひざまずくなど、詳しい案内も書かれているので、初めて参加する人でもサービス・シートにならって行動すれば大丈夫です。ですので、礼拝が始まる10分前くらいに到着して、席に座り、サービス・シートを確認することをお勧めします。座る席は特に決められていないので、好きな場所を選んで構いません。とはいえ、ソーシャル・ディスタンシングにだけは気を付けてくださいね。

礼拝の途中に聖餐式がある場合、すでに洗礼を受けた人だけがパンとぶどう酒をもらうことができます。もし洗礼を受けていない人が何らかの形で参加したいと思うなら、聖餐の代わりに「祝福」(ブレッシング)を受けるのもいいでしょう。司祭の前に出たら、胸の前で両手を交差させ、お辞儀をすることで、祝福を求めているというサインになります。

読者の皆さんへのメッセージをお願いします。

メリー・クリスマス! 教会のイベントは誰でもウェルカムです。ルールが厳しいのではないか、失敗したらどうしよう、などと怖がらずに、気軽に訪ねてくださいね。クリスマス・キャロル・コンサートなどは、自宅から参加できるオンライン・ストリーミングも予定しています。

新型コロナウイルス流行の影響で、引き続き大変な1年になりました。さまざまな理由でクリスマス礼拝に来られない方々にも、「素晴らしいクリスマスをお過ごしください」とお伝えしたいです。全ての方々が、心安らかに、温かいクリスマスを過ごすことができるよう、心から祈っています。

イエス・キリスト誕生の場面を演じる子どもたちイエス・キリスト誕生の場面を演じる子どもたち

 
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