第303回 欲望のシティと禁欲の修道院(前編)
先日、シティでガイドをしていたときのことです。「シティ地区にはかつて多くの修道院が存在しました。ブラックフライアーズ(ドミニコ派修道院)やグレイフライアーズ(フランチェスコ派修道院)、オースティン・フライアーズ(アウグスティヌス派修道院)など修道院の施設が25カ所もありました」と説明すると、参加者の方から「なぜ、狭いシティにそんなたくさんの修道院があったのですか」と質問が出ました。
シティにかつて修道院が多く存在した
とても良い質問です。イングランド全体でみますと、アングロ・サクソン時代(410〜1066年)には修道院が約50ありましたが、ノルマン征服からヘンリー8世の宗教改革(1066〜1530年代)前までに1000近くまで増え、そしてヘンリー8世の宗教改革により全て廃院にさせられました。シティ地区も数は少ないですが同じような傾向をたどり、ノルマン征服後にゼロから25まで増え、宗教改革により、再びゼロになりました。
シティにはたくさんの修道士が住んでいた
そこで今回は、上述の質問に対する回答を二つに分け、前編ではなぜノルマン征服後のイングランドにキリスト教の布教拠点が増えたかについて考察し、後編ではなぜシティという狭い商業地区で修道院の活動が活発になったのかを考えてみたいと思います。それではまず、ノルマン征服後にキリスト教の布教拠点が増えた理由です。
修道院の回廊は俗世との境界
それは1066年のノルマン征服のヘイスティングの戦いを、当時の教皇が聖戦と認めたことと関係があります。きちんと聖戦と認めた正確な証拠が見つからないので真相は不明ですが、戦争の勝利者側は常に歴史を書き直しますし、ヘイスティングの戦いを描写したバイユーのタペストリーには教皇旗が掲げられ、聖戦であることが強調されています。聖戦とすることで兵士に大義と高い士気が与えられ、宗教的な権威が補強されました。でも一方、戦いの後に「悔い改めの法令」が施行され、勝利者側には懺悔と償いの典礼が必要になりました。
バイユー・タペストリーに描かれた教皇旗
キリスト教は戦争を容認しませんが、聖戦の場合は終戦後に「悔いと改め」の懺悔と償いを施すことで天啓を得られるとされていました。そうした考えのもと、征服後のウィリアム征服王は多くの土地を教会や修道院に寄進し、欧州大陸から僧侶を招いて懺悔と償いの典礼を何年も続けました。その結果、おのずとイングランドにはローマ教皇を頂点とする教会や修道院が増えました。それがノルマン征服後にキリスト教の布教拠点が急増した理由です。ただ同時に、ウィリアム征服王はそれを利用して政治の安定を図ったといわれます。
終戦後、悔いと改めのための償いが何年も続けられた
寅七さんの動画チャンネル「ちょい深ロンドン」もお見逃しなく。



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