第241回 英国チャーターハウスの歴史
バービカン駅の北西側、シティとの境界に「チャーターハウス」があり、2017年からその博物館が一般公開されています。もともとこの周辺は、14世紀半ばのペストの流行や英仏百年戦争で亡くなった人々を埋葬する墓地でした。1371年に供養のための祈りの場として、墓地に隣接する北側にカルトジオ会の修道院が建てられました。この修道院は仏グラン・シャルトルーズに本部があり、英語ではチャーターハウスと呼ばれました。
チャーターハウスの正面入口
修道士の生活の中心は沈思黙考と祈りでした。個室の脇にある配膳用の小穴に食事が運ばれ、会話は一切無し。外に出て説法をすることもなく、ほとんどの時間を無言で個室の中で過ごしました。でも、1537年にヘンリー8世の宗教改革で修道院の解散が命じられると修道士は激しく抵抗し、18名の殉教者を出しました。見せしめのため、修道士長の首がロンドン橋にさらされ、その腕は修道院のゲートハウス(門楼)にはり付けられました。
修道士の個室(右)と食事の配膳口(左)
修道院解散後、同館は貴族の手に渡り、大広間を増築するなどして瀟洒 な邸宅に変わりました。1558年、メアリー1世が逝去してエリザベス1世が王位を継承しますが、戴冠式までの間、エリザベス1世はこの館で過ごし、枢密院の会議も大広間で開かれました。王家に必要な当座の資金の調達について、シティの市長や大商人とここで協議し、フランドル地方の金融家から資金を借り入れることに合意した会議の記録が残っています。
枢密院の会議が開かれた大広間
1611年、イングランド北部リンカンシャーの財閥、トマス・サットン卿が当時の所有者でしたが、その遺言により同館は学校や病院、養老院に転換されました。この学校がチャーターハウス校で、後に九つの英国名門私立校「ザ・ナイン」の一つになります。同校は1872年にイングランド南部サリーに移りましたが、サットン卿の紋章に使われている猟犬タルボット・ハウンドの意匠が、今でも建物の内部にたくさん残されています。
サットン卿の紋章(右)とタルボット・ハウンドの意匠(左)
ところで、このチャーターハウス校はサッカーとも所縁があります。1863年にフットボール・アソシエーション設立の際、サッカーの13のルールが定められましたが、そのうち二つは、このチャーターハウス校が提唱したとのこと。旧修道院だった回廊でサッカーをしていた際、スロー・インとオフサイドのルールが考案され、それが現代のルールに発展したそうです。修道院とサッカーのつながりを知って、寅七はハットトリックの気分です。
サッカーのルールが生まれた回廊
寅七さんの動画チャンネル「ちょい深ロンドン」
第20話「春のクラーケンウェル周辺の散歩」もお見逃しなく。