ロンドン随一の観光名所である国会議事堂の前で、7年にわたり座り込みを行っている反戦運動家がいる。ブライアン・ホー、59歳。黙したままこの議会民主主義を象徴する建物と対峙することに1日の大半を費やし、そして時に抗議者として怒りに満ちた叫び声を上げる男の素顔とは、どのようなものなのか。冷たい雨が降る国会議事堂の前で、彼に話を聞いた。(執筆: 本誌編集部長野雅俊、写真: 前川紀子)
ブライアン・ホー
エセックス州生まれ、59歳。20~40代にかけて、世界各地の紛争地帯を訪問。2001年6月2日より、イラクへの経済制裁に反対して国会議事堂前で座り込みを始める。同年9月11日にニューヨークで発生した同時多発テロを受けて、米英を中心とする多国籍軍がアフガニスタン、イラクに侵攻を開始するにつれ、英国における反戦運動の象徴的な存在となった

帰還兵のような佇まい
その日、ブライアン・ホー氏は松葉杖をついていた。
東側に国会議事堂、南側にウエストミンスター寺院を臨むパーラメント・スクエアの一辺に、反戦メッセージが貼り付けられた薄汚れたテントが並べられている。指定された時間にこのテントの前で待っていると、ウエストミンスター駅の方角から、口にタバコをくわえたホー氏が少しずつ歩を進めながらやってきた。聞けば、デモの最中に警官に倒されて足を痛めてしまったのだという。小雨がぱらつく中、ヘルメット型の帽子を深くかぶり、松葉杖に支えられながら歩く姿は、深い傷を負いながらもジャングルの奥地から生還してきた、帰還兵のように映った。
どうやら、つい先ほどまでトイレに行っていたらしい。パーラメント・スクエアには下水施設がないので、用を足したいと思えば、駅の公衆トイレまで出掛けなければならない。ちなみに、公共トイレが閉まっている時間はどうするか、という点については「トップ・シークレット」となっているようだ。
取材のために用意した録音機のスイッチを入れる と、のっけからものすごい剣幕で話し始めた。「かつて大英帝国は世界の半分を支配していた。つまり、世界各国の人々を奴隷扱いしていたってことだ。一体、何様だって言うんだ。傲慢なのは、米国も一緒。ニューヨークで2001年に起きた同時多発テロの被害をことさら強調する輩がいるけど、だったら1973年の9月11日のことを、あいつらは覚えているのか。その日に米国のヘンリー・キッシンジャー国務長官が、チリの指導者であるサルバドール・アジェンデを殺したんだよ。あとあのテロの廃墟のことを『グラウンド・ゼロ』って呼ぶらしいけど、ふざけんじゃない。『グラウンド・ゼロ』って、元々は奴らが日本に投下した原爆の爆心地を指す言葉だろう。原爆が落とされた直後の広島・長崎を写した写真と、ニューヨークの世界貿易センターの跡地を比べてみたらいい。広島、長崎は街全部が燃えてなくなってしまったんだ。比較になんか、ならないじゃないか」。
一度話し出したら、なかなか止まらない。インタビューは既に、彼の独演会のような様相を呈してきていた。

警察・司法との終わりなき戦い
ホー氏は現在、59歳。日本でいえば、あと1年でめでたく定年を迎え、還暦のお祝いにもらった赤いちゃんちゃんこを着て、照れながら記念写真の撮影に応じるような年齢である。
その彼が、日中はかなり交通量の多い道路の反対側、つまり国会議事堂の前から目を光らせている複数の警察官を指差して言う。「市民を守るのが警察の本来の役割だろう。でも奴らは、『2005年重大組織犯罪及び警察法』とやらをお題目に掲げて、一般市民には何の危害も与えていない俺ばかり監視しているんだ。そして法的根拠も示さず、俺のテントを破壊する。奴らの行為こそ『重大組織犯罪』じゃないか」。
国会議事堂前に座り込みを始めたのが2001年6月のことだから、彼の路上生活は今年で7年目を超えたことになる。そしてこの7年間は、彼の抗議活動の取り締まりを図る体制側との間で繰り広げられた戦いの歴史でもあった。
2002年10月、舗道上の通行を妨げているとして、ウエストミンスター・カウンシルがテントの撤去を求める裁判を起こしたが、高等裁判所はホー氏がパーラメント・スクエアで言論の自由を行使する権利があるとの見解を示し、この訴えを認めなかった。2005年には、テロ活動の取り締まりとの名目で、事前の承諾なしに国会議事堂と軍基地の周辺1キロ以内で抗議活動を行うことを禁ずる「重大組織 犯罪及び警察法」が国会で成立。しかしホー氏はこの法律の施行以前から同敷地内に住んでいたため、事後に定めた罰則によって処罰することを禁ずる「法の不遡及(ふそきゅう)の原則」が適用され、彼が国会議事堂前で引き続き抗議活動を行うことを認める判断を高等裁判所が下した。そしてこの判決は、ホー氏が世界で唯一、事前に許可を得ることなくこの場所にテントを張ることのできる人間となったことを意味していた。だから宛名に「Parliament Square」と書いて手紙を送ると、ホー氏に届く、という冗談のような話が現実に起きている。
ところが2006年5月になって、今度は内務省がこの決定を不服として控訴審に訴えた結果、判決は覆った。そこでホー氏は法律が求める通り、国会議事堂前での抗議活動の許可を申請したところ、これに対して警察は抗議活動の範囲を3メートル以内に収めるのならば良い、という条件を出す。テントを設営するにしても、約1.5畳分の広さしか認めないというのだ。ホー氏はこの条件に従わず、その正当性をめぐって法廷で徹底的に争う構えを見せたが、2週間後には78人の警察官がやってきて、テントやプラカードを没収してしまった。

雨が強くなってくると、傘を差し出してくれた
長年の戦いの末に勝ち得た場所
しかし、ホー氏の抗議活動は、そこで終わらない。彼は支援者の声に支えられながら、尚もこの地に留まった。さらには、警察が突きつけた「3メートル以内」などの諸条件の根拠が不明確であるとして、2007年に裁判所がこれらを無効とする判断を下す。つまりパーラメント・スクエアは、警察と司法を相手に、ホー氏が血みどろになって戦い抜いた末に勝ち得た場所なのである。彼は現在でも、主にその抗議活動の是非をめぐる相当数の裁判を抱えている。また「安全確認」に来た警察にテント内を荒らされることも日常茶飯事。今年1月に行われたデモでも逮捕されている。
ホー氏が戦う相手は、いわゆる体制側の人間に限らない。深夜、酔っ払いに絡まれることもしばしば。英兵に襲撃されたり、米国大使館の館員に鼻を折られたこともある(安全確認と称して彼のテントを荒らしてばかりの警察は、こうした肝心なときに全く頼りにならないのだという)。
もちろん、そんなことでくじけるホー氏ではない。車内から「社会の寄生虫」と野次を飛ばしたトラック運転手を停め、運転席から引き摺り下ろして、「臆病者!真実から目を逸らすな」と叫びながら、テント前に展示している、戦争で負傷した子どもたちの写真と向き合うよう訴える。大手テレビ局のチャンネル4が主催したイベントで、「The Most Inspiring Political Figure」として表彰されたときは、受賞スピーチで「お前たち、こんな賞を俺にくれてしまって、一生後悔するぞ!」とマイクに向かって叫んだ。
そうやって7年間、ひたすら戦い続けてきたのだ。

テントの並びの中央には、反戦メッセージや戦地の惨状を
写した写真が貼り付けられたプラカードが置かれている
筋金入りの運動家
インタビューが始まってから1時間ほど過ぎると、雨足がだいぶ強くなってきた。雨に濡れることなど、もう慣れっこになっているのだろう。気付けば、隣ではホー氏が傘も差さずに軍歌を歌い出している。
支配を! ブリタニアよ
大海原を治めよ!
ブリトンの民は 断じて 断じて 断じて
奴隷とはならじ!
英国を象徴する女神が世界を支配していく様子を謳った愛国歌「ルール・ブリタニア」を一節歌い終わった後で、「ふざけるな!」と叫んだ。「聴いたか?今の歌。大英帝国はこんなに傲慢なんだ。植民地の奴隷を散々こき使っておいて、自分たちだけ『断じて奴隷とはならじ』だと?英国人の子どもと、外国で生まれた子どもの違いは一体何だ!」。
こちらが一つ質問すると、優に数十分は話し続けてくれる。エネルギーをほとばしらせながら、抑揚をつけて話すから、聞いている方は飽きない。叫んだり、優しく語り掛けたり、そして歌ったり。まるで1人芝居を鑑賞している気分になるのだが、話している方は大変なのではないかと余計な心配をしてしまう。
一体、彼をそこまで突き動かすものは何だろう。こちらの問い掛けに、ホー氏は「子どもたちの命を救うため」だと極限まで短くなったタバコをくわえながら言った。「外で暮らして寒くないかって?そりゃ寒いよ。俺は生身の人間だからね。でも、パキスタンの山で冬服もなく、シェルターにも入れない難民の子どもたちに比べれば、大したことはない。夏は暑いかって?そりゃ暑いよ。日中はずっと陽射しに照らされるか、空気の通りの悪いテントの中で生活しているんだから。でもイラクで水のない暮らしをしている子どものことを思えば、俺なんかが泣き言を口にできるかい?」。
日々の暮らしは、彼の運動の支援者や通りすがりの人々からのささやかな寄付のみで食いつないでいるという。どこの国にも反戦運動家はいるのだろうが、集会が行われたときだけ気炎を吐いたり、ドクター・ストップがかけられることを想定してハンガー・ストライキに臨む中途半端な運動家とは、覚悟の深さに雲泥の差を感じる。
抗議の手段としては、非効率なのかもしれない。反戦活動なんて時代遅れ、とする見方もあるだろう。それでも、彼の行動はイデオロギーを超えて人々の心をつかむだけの魅力を持っている。だから、元労働党議員のトニー・ベンやコメディアンのマーク・トーマスといった各界の著名人たちが、彼の運動を全面的に支持しているのだ。
その魅力は、騎士道物語の読み過ぎで自らを伝説の騎士と思い込んでしまう男を描いた17世紀の文学「ドン・キホーテ」の物語が持つものに何だか似ている。老体に鞭打って体制側に1人で立ち向かっていく様子は、風車に向かって突撃するあの主人公のようではないか。

左)この日テントの見張りを手伝っていた通称バニーさんが着ていた
コートの襟には、ホー氏の活動への賛意を示すバッジが
右)防水シートに覆われたスペースに置いてある
ガスコンロで湯を沸かし、コーヒーを飲む
ウエストミンスターでのある出来事
なぜ彼は、国会議事堂を戦いの場に選んだのか。
クリスチャンである彼の答えは「神に導かれたから」であった。
2001年6月2日、当時53歳だったホー氏は、議事堂のすぐ近くに位置する名門パブリック・スクール、ウエストミンスター・スクールの生徒と話を交わしていた。子ども好きな彼は、昔からよくこうして、登下校中の生徒たちに語り掛けていたという。「国会議事堂にいる政治家の子どもたちが通う学校」では学べない、大切な何かを対話を通して伝えたかったのかもしれない。
だがある日、同校に通う生徒の1人が彼に向けて発した一言に、ホー氏はひどくうろたえることになる。「ギャビン・チャップリンという名前の男の子が、おじさんのことを『狂ったブライアン』って言っているよ」。7年前の出来事にもかかわらず、彼はその少年の名前をはっきりと覚えていた。
ショックを引きずったまま、彼はパーラメント・スクエアまで歩いていく。そこで「天にいる人はすべてをしっかりと見ている」ことを思い出した彼は、たまたま持っていた3枚のA4用紙に、それぞれメッセージを書いた。
「Stop Killing Kids」「Make Peace Not War」「Let Iraq Infants Live」。
そして座り込みが始まった。気が付けば、午前2時。通り掛かりの、軽く酒に酔った男性が「こんなところで何をしているんだ」と自分に向かって話し掛けている。「よくぞ質問してくれた」と返して路上での議論が始まり、そういったやり取りが日常生活の一部となっていった。
でも、チャップリンとの名を持つ子どもが恐らく大した悪気もなく吐いた言葉が、なぜ国会議事堂前で座り込むきっかけとなったのか、彼の説明を聞いただけでははっきりとしない。彼の言葉では、これも「神様の思し召し」ということになるのだろうが、たぶん、それだけが理由ではない。

毎日の暮らしを営むテントは、国会議事堂の正面に向き合うように設置
戦争と平和、そして家族
ホー氏は、イングランド南東部エセックス州に5人兄弟の長男として生まれた。
父親は、英軍の狙撃兵だった。ナチス・ドイツのベルゲン・ベルゼン収容所に乗り込み、その惨状を目にした最初の英兵の一人だったという。終戦後に賭博場で働き始めたが、店の金を横領するなどのトラブルを犯した後に、ガス自殺でこの世を去った。
父親を亡くしたホー氏は、やがて一家の稼ぎ手となっていく。16歳で造船の仕事に就き、その後は商船の水夫として働いた。そして海の旅を通して、スエズ運河、中東やインドなどといった世界各地での紛争の実態を目にしたり、耳にしたりすることになる。英国に戻り、イングランド中部ノッティンガムにある福音伝道主義系の大学に6カ月間通った後、アイルランド独立闘争で揺れていた北アイルランドへ。そこでギターの流しをしながら、対立する双方のグループと平和的解決に向けての議論を行うなどして毎日を過ごしていた。
エセックスに戻ると、今度は引越しと大工の仕事を請け負うようになる。またこのときに向かい側の家に住んでいるシザーリアンという名の女性と知り合った。しかし彼女と結婚して家庭を持つようになっても、世界の紛争に対する興味は尽きなかったという。1989年になると、戦争報道を得意とするオーストラリア人ジャーナリスト、ジョン・ピルジャーのドキュメンタリー作品に影響を受けて、ポル・ポト政権下のカンボジアに赴くことを決意した。その頃には5人の子どもがいたにも関わらず、である。
「座り込みを始めてから、ピルジャーが俺に会いに来たんだ。そう、憧れのジャーナリストから、今度は俺が取材を受けることになったというわけ。だから言ってやった。あんたにキスして、そしててめえのこと蹴っとばしてやりたいって。だって俺はあんたの映画を観てからすっかり影響されてしまい、家族と離れ離れの生活を送ることになっちゃったじゃないかってね」。
祖国で経験した地元住民との軋轢
その後も、紛争地帯を巡る旅は続いた。ロシア、中国、アフガニスタン、そして東西を隔てる壁が崩壊する瞬間のベルリンにも居合わせた。こうした国々への旅を通じて、「心と目で会話することの大切さ」を学び、「英国人の子どもも、例えばアフガニスタンの子どもも同じだけ尊い」という認識に至ったという。
そして再び、英国に戻ってきた。今度こそ、7人に増えた子どもと共に、イングランド西部ウスターシャーの地で幸せな毎日を過ごすことになっていた。少なくとも、そうなるはずだった。
ホー氏は近所の教会の集まりで、世界各地で発生している紛争の実態を余すことなく伝えようとした。また障害を抱える子どもたちをミニバンに乗せて、郊外へと遊びに連れて行ったりもした。だが地元の人々は、そんな彼の厚意に対して反感と憎しみで応じる。いつしか自宅の窓からレンガが投げ入れられたり、郵便箱に花火を仕掛けられるようになった。ミニバンに至っては粉々になるまで破壊された。被害の様子を検察庁に詳細に報告すると、迷惑行為は一層悪化していったという。皮肉なことに、世界中の紛争地帯を駆け巡ってきた彼にとっての最大の悲劇は、こんなにも身近なところに転がっていたのである。
国会議事堂の前に辿り付いたのは、それから間もなくしてのことだ。

年季の入った帽子には、世界中を旅しながら集めた、
反戦メッセージを記したバッジが付けられている
ドン・キホーテの存在意義
ホー氏がもっとも多く聞かれる質問の一つに「いつまで国会議事堂前での抗議活動を続ける予定か」というものがある。戦争が止むまでだとしたら、果たして戦争のない時代というのが、いつになったら到来するのか。
既に過ぎた7年という月日は、そのまま自身の家族と離れて暮らした時間を意味する。つい最近、娘が結婚するという話を耳にした。その娘さんとは会いたくないですか、と聞くと「もちろん会いたいよ」と返すだけで、急に口数が少なくなってしまう。当初は最大限の声援を送ってくれていたという妻についても、あまり話したがらなかった。
実は彼は、その妻との間に生まれた初めての男の子を、生後12時間で亡くしている。地元の障害児の世話をすれば、地域社会を敵に回してしまった。ウエストミンスター・スクールの子どもには、「狂った男」と呼ばれた。
不器用なんだろう。戦争に手を染める大人たちを糾弾するという行為も、詰まるところは、子どもたちへの愛情表現であるはずだ。時に攻撃的に映る彼の性格と、意外なほどに青くきれいな目とのギャップが、そのことを物語っているようだった。
ホー氏がどれだけ反戦活動に邁進しても、たぶん、彼が生きている間に戦争がなくなることはないだろう。だとしたら、彼は今、無為な時間を過ごしているだけなのだろうか。
そうではない、と思いたい。日々の生活に忙しく、対岸の火事に思いをきたすにはあまりに怠惰な私たちに、戦争で失われる小さな命について、たとえ一瞬でも思いを馳せる機会を提供している。戦争行為に対してすっかり現実感を失ってしまった人々を、私たちに代わって糾弾してくれている。
取材の終了間際に、いつか戦争のない時代が本当に来ると思いますか、と聞いてみた。すると白い息を吐きながら 「俺は、自分の任務を全うするだけだ。そうだろ?」と問い返してきた。
21世紀のロンドンを生きるドン・キホーテは、今日も国会議事堂の前で、警察官と睨み合い、叫んだり、そして歌ったりしているはずだ。
ブライアン・ホー氏からのメッセージ
今回、インタビューに応えてくれたブライアン・ホー氏が、 英国ニュースダイジェスト読者のために特別にメッセージを寄せてくれました



在留届は提出しましたか?


ポールによる下絵をもとに、ポップ・アーティストのピーター・ブレイク卿がデザイン。4人の背後には彼らがヒーローと崇める歴代の著名人たちが勢揃いしている。当初、ジョンはヒトラーも候補に挙げていたが、撮影当日に却下されることとなった。(写真提供:Toot'n Reg)
60年代にサイケデリック・アートの一時代を築いたオー ストラリア人アーティスト、マーティン・シャープの傑作。ビクトリア時代の版画も取り入れた絢爛(けんらん)なデザインだ。シャープは収録曲「Tales of Brave Ulysses」で歌詞も提供している。(写真提供:Toot'n Reg)
クリムゾン作品の歌詞を担当していたピート・シンフィー ルドの友人で、コンピューター・プログラマーのバリー・ゴドバーが自画像として描いた作品。ゴドバーは本作リリース直後の1970年に、心臓発作により24歳の若さで急逝している。(写真提供:Russell Taylor)
1969年8月8月、レコーディ ングを行った「EMI」のアビー・ ロード・スタジオ前で撮影され た、あまりにも有名な1枚。こ ちらもポールによるスケッチが 原案。フォトグラファーのイア ン・マクミランが撮影にかけた 時間はたった10分だという。(写真提供:Satori K)
ベーシストのロニー・レーンが、当時マリファナ入れとしてよく使われていたタバコ缶に着想を得て、ビクトリアン・デザインのパッケージで有名なタバコ会社「オグデンズ」に協力を仰ぎ制作。12インチのオリジナル盤は見開き5面の円形ジャケット。(写真提供:Toot'n Reg)
The Whoの3作目となる、ラジオ局とCMをテーマにしたコンセプト・アルバム。ジャケットも商品広告を意識しており、前後面をそれぞれパネル状に2分割し、各メンバーが巨大化された食品や日用品を手にしているというポップなデザイン。(写真提供:Nick Collins)
デザイン・グループ「ヒプノシス」のストーム・ソーガソンがタイトルとアートワークを担当。シド・バレット脱退後ともあって「不在」をテーマにしており、炎に包まれ燃えている男が握手しているイメージは、初対面の際に本心を明かすことを嫌う人間心理を象徴しているとされる。(写真提供:Nick Collins)
本物のジッパーが付いた斬新なカバーは、アンディ・ウォーホルの発案。ジッパーを下ろすと、後にバンドのロゴとなるベロ出しリップ柄を施したブリーフのカードボードが現れる。同作は猥褻との理由で物議を醸し、スペイン盤は別デザインに変更された。※ 写真は一部破損(写真提供:Nick Collins)
ストーム・ソーガソンのデザイン。巨大なブタの風船をロンドンのバタシー発電所上空に飛ばし、3日間かけて撮影。途中、風船が空高く飛んで行ってしまい、一時は警察も出動する騒ぎとなったが、最終的にケント州の農場にほぼ無傷で着地したのだとか。(写真提供:Nick Collins)
ピンク・フロイド創始者の一人、シド・バレットのソロ2作目にして最後のスタジオ・アルバム。もともと画家志望でアート・スクール出身のバレットが自ら描いた昆虫の絵に、絶妙なタイポグラフィによるタイトルが添えられた、儚さが漂う美しい1枚。(写真提供:Nick Collins)
ハリウッド女優たちとバンドのメンバーが交互に配された内ジャケットの写真が、外ジャケットの切り抜かれた顔部分からのぞくという凝った仕様。レーベル側が女優たちに正式に許可を取らなかったことから、後に裁判沙汰に発展した。(写真提供:Satori K)
バンド・メンバーの50'sスタイルへの愛好を反映したデザインは、その後ロキシー・ミュージックのアートワークを数多く手掛けたニック・ドヴィルが担当。カバー・ガールは、後にミック・ジャガーの弟、クリス・ジャガーと結婚した、カリ=アン・ミュラー。(写真提供:Toot'n Reg)
通算6作目となる2枚組アルバムで、ニューヨークの4階建てフラットの写真を使用。内ジャケットに描かれた人物写真や絵が、外ジャケットのくり貫かれた窓部分から見える仕掛け。1976年のグラミー賞でベスト・アルバム・カバー賞に選出されている。(写真提供:Toot'n Reg)
スイス人画家でデザイナーのH・R・ギーガーによる原画を採用。表面は2枚仕立てで、観音開きのトップ面を開くと女性像が現れる。後に映画「エイリアン」のデザインを手がけて世界的に人気を博したギーガーの、初の公式作品としても有名。(写真提供:Nick Collins)
アート・スクール出身のイアン・デューリーも絶賛のグラフィック・アーティスト、バーニー・バブルズがデザインしたバンド2作目のアルバム。背景に使われているのは壁紙のサンプルで、12以上のパターンが制作された。バブルズは1983年に自殺。(写真提供:Nick Collins)
セックス・ピストルズのアートワークといえば、ジェイミー・リード。どぎつい色にランダムなレタリングを配した、シンプルながら強烈なデザイン。これ以上ないほどの粗さとインパクトの強さが、バンドのイメージに完全マッチ。(写真提供:Kaz)
「ヒプノシス」による高いデザイン・コンセプトをもつ1枚。「This is a RECORD COVER」から始まって、機械的で皮肉めいた解説が続き、読んでいるとまるでロボットが喋るのを聞いているような感覚に陥る。音もジャケットに違わず斬新で前衛的。(写真提供:Nick Collins)
グラフィック・デザイナーのピーター・サヴィルは、もう一人のメンバーと言っても過言ではないほど、デザイン面でバンドと密接に関わってきた。フロント・カバーの人物は意外な抜擢、ドラムのステファン・モリス。トレーシング・ペーパーの効果が生きたクリアでミニマルなデザイン。(写真提供:M.E)
性的な歌詞が問題になり放送禁止となった大ヒット作「Relax」 や、米ソ冷戦を批判した「Two Tribes」等で一世を風靡したFGTHのデビュー作。このカバー絵は、当時アート・スクールを出たばかりだったロ・コール作。(写真提供:M.E)
ニルヴァーナやレディオヘッドなどにも多大な影響を与えた米国出身の彼らは、デモテープを英レー ベル「4AD」に気に入られて英国からデビュー。アートワークはヴォーガン・オリバーが一貫して 担当しており、サウンドに合ったシュールで退廃的なイメージ。(写真提供:Nick Collins)
20年代のドイツの芸術活動「バウハウス」に名を借りた彼らは、ゴシックの元祖。ライブでは常に黒い衣装を身にまとい、ストロボ・ライトの閃光による演出のもと、ダークで激しい音を鳴らしていた。これはそんな彼らの表現活動をビジュアル化したような1枚。(写真提供:Nick Collins)
菜食主義を声高に訴えた名作。スミスのカバーのほとんどはモリッシーが選んだ古い映画や写真のイメージだが、本作では1968年のドキュメンタリー映画「亥年」のカットを採用。ヘルメットに書かれていたオリジナルのスローガンは「Make War Not Love」。(写真提供:Kaz)
伝説のクラブ、「ハシエンダ」で見出されてファクトリー・レコードと契約。後に全盛となるマッドチェスター・ムーブメントの先駆けとなった1枚で、同ムーブメント関連のアートワークの担い手だった「セントラル・ステーション・デザイン」がカバーを担当。(写真提供:M.E)
90年代のマッドチェスター全盛期を代表するアルバム。音、アートワークともに当時のドラッグ文化の影響をモロに反映。前面にタイトルなどが一切入っていないにもかかわらず、バンドおよびEカルチャーの出現を象徴する1枚として広く認知された。(写真提供:Satori K)
メンバーのカール・ハイドとリック・スミスが所属するデザイン集団、「トマト」の作品。混迷するラインと文字を配した過不足のないデザインは、エレクトロニック・ビートとカットアップの美学を見事に反映。ダンス・アルバムのデザインにおける新基準となった。(写真提供:Satori K)
メンバーの1人でデザイナーの3Dは、自然史博物館のために昆虫の写真撮影をしていた経験もあるファッション写真家、ニック・ナイトの作品を起用。南米産の珍種カブト虫の頭部写真に特殊加工を施し、シャープで危険、かつ力強いイメージを完成させた。(写真提供:Satori K)
今や飛ぶ鳥落とす勢いの、グラスゴー出身の4人組。全員アート・スクール出で、ビジュアル・イメージも自ら手がける多才ぶり。2作目となる本作では、ロシア構成主義を代表する前衛芸術家、アレキサンダー・ロドチェンコの作品をモチーフにしている。(写真提供:Satori K)
1994年以降、バンドの全作品のアートワークを担当しているスタンリー・ドンウッドが本作で描いているのは、熱と冷気が一度に迫ってくるような、山脈を中心とする風景。ドイツの画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒなどからの影響も見て取れる。(写真提供:Satori K)
通算8作目となる本作では、2作目以降、全作品のカバー・デザインを担当してきたピート・ファウラーに代わって、日本人アーティストの田名網敬一を起用。バンド・メンバーが来日時に田名網氏の作品を見て「ブッ飛んだ!」ことから採用が決まったという。(写真提供:Chinami)



Superfuzz Bigmuff
Long Island (single)
Jesus Meets The Stupids
Up All Night! 30 'Northern Soul Classics'
In The Land Of
Plastic Ashtray (Single)
Inside In / Inside Out
Cosmic Slop
Radiator
6 For A Fiver 
*英国人コメディアンのラッセル・ブランド、テレビ司会者ジョナサン・ロスが、BBCのラジオ番組内で、コメディ俳優アンドリュー・サックス氏の孫娘と性的関係を持ったとする内容を同氏の留守番電話に残すという悪ふざけを行った。これが聴取者などからの抗議を呼び、後日発表した声明の中で、両者は共に謝罪した。





ちょっととっつきにくそうな店員さんも、車や鉄道の話になるや、物静かな口調ながら次から次へとお勧めの本を語り出す。こんな本屋では、本を購入するだけでなく、いかにも英国らしい、ちょっとシャイで頑固な店員との会話を楽しみたい。
ジョンさん一押し。現在はロンドン交通局が所有するグレート・ウェスタン鉄道のタンク式蒸気機関車の物語。実はジョンさんの共著本だ
2007年度「ガーディアン」紙が選ぶ「世界で最も優れた本屋」において、英国内の本屋で唯一トップ10にランク・インしたのがこの「Hatchards」。創業1797年、3つの王室御用達の称号を持つこの書店にはかつて、オスカー・ワイルドやバイロン卿も通ったとか。
美しい装丁が魅力の教会ねずみシ リーズ絵本。クリスマス・プレゼ ントにもぴったり
ロマンスも扱っているのは、「もちろん、私がロマンス本も書いているからさ(笑)」。マニア向けと思いきや、マキシムさんの個性が反映された、ちょっぴりお茶目な本屋だった。
ホームズの物語に詳しい注釈を付けた研究者向けの本。著者は弁護士でシャーロキアン
そしてもう一点、特筆すべきなのが本の配列。旅行書のみならず、小説などすべての書籍が国ごとにまとめられているのだ。本棚を眺めただけで、それぞれの国の文化や歴史まで見えてくるような、時間や空間を超える広がりを持つ本屋である。
作家エマニュエル・リトビノフが、ロンドンのイーストエンドで暮らした自身の少年時代を振り返る
「普通の本屋だったら、本が一番大切でしょう。でも私たちにとって何より大切なのは人との関係なのです」。顧客はほとんどがコレクター。彼らとのコネクションを通して、本を購入し、販売する。長年培ってきた彼らとの関係性を守り続けること、そして「あまり欲深くならないこと」、こうした姿勢を貫くことで、「Gekoski」は希少本の世界における確固たる地位を保ち続けている。
グラハムには珍しいこの詩集は、現在では世界に数冊しか残っていない貴重なもの。何とグラハム本人から購入したという本の最後には、直筆の詩も書き加えられている
ヨーロッパ最大の独立系本屋と言われるドイツのWalther Koenig Books。そのロンドン支店としては、ケンジントン・ガーデン内のサーペンタイン・ギャラリー店が知られているが、チャリング・クロス・ロードにも今秋、新たな店舗がオープンした。黒で統一されたシンプル&シックな店内はさほど大きくないが、アートや建築、写真の分野では定評のある書店の支店だけあって、選び抜かれた本はどれも店のセンスがキラリと光るものばかり。また、店独自で出版しているものもあるので要チェックだ。人気の現代作家のアート本や写真集が置かれた1階をゆっくり楽しんだ後は、ぜひ地下へ。分野を問わず、さまざまな本が大幅に値下げされていて、思わず目移りしてしまう。
スーパーのチラシから電話ボックスに貼られた女性のヌード写真まで、さまざまなチラシをユニークなアレンジでまとめたスクラップ写真集

ロンドンの街を網羅した詳細な地図を時代別にまとめたシリーズの1冊
本屋という枠組みを超え、新しい文化の発祥地として若者を中心に絶大な人気を誇るショップ。本のみならず、Tシャツやキャラクター・グッズ、文房具などが販売されている店内には、混沌としながらもどこか統一感を覚えさせる不思議な空気が漂う。ありとあらゆる分野の人々がドアを開けて店内に入り、何かを求めるという行為はとても人間的に豊かなこと、とはオーナーの弁。客からのフィードバックを大切にし、そのアイデアを取り入れることで進化し続ける空間に、今後も目が離せない。
「MI5の職員をスパイせよ」などユニークな指示が挿入されたダイアリー・シリーズの2009年版
じっと留まっていなければならないこの仕事は、かなりの重労働に違いない。それでも彼らが毎日、本を売り続けていられるのは、「本が好きで、このエリアが好きだから」。時には馴染み客が本を売りにやって来ることもあるという。本を好きな人と人が集まれば、そこにはもう、「本屋」という空間が存在しているのかもしれない。










国際的に活躍するビジュアル・アーティストとリバプール近郊の3都市が協力し合い、それぞれの街にパビリオンが作成された今年。中でもリバプールの北に位置するカークデールでは、「見捨てられた土地をコミュニティー・ガーデンにしたい」という街の要望にアーティストが応えた。このパビリオンは2つのエリアに分かれており、1つは城のような、そしてもう片方は「バー・コード」というガーデンとなっている。これは一見すると「一体、どこがガーデン?」と思ってしまうような代物だが、中に入ると、壁の内部が植物で覆われていることが分かるという仕組みになっている。グリーン思想とアート、そして地元の人々の生活が一体となった作品だ。
建築分野でのキャリアも持つ米国人アーティスト、サラ・ジーは、細部まで細かい趣向を凝らしつつも、奔放な雰囲気が漂うインスタレーションを制作することで知られている。今回、展示場である階段横の吹き抜けを最大限に利用したサイト・スペシフィックな作品を発表したジーは、「これは1つの風景というよりも、ある風景のなかで起こっている動きの連続」であると語る。インテリア用品のサンプルやレンガ、建築の材料にコケなどが配置されているのだが、これらの作品の1つ1つが「次の動作」に移ろうとする瞬間で「一時停止」されているのだ。そしてそれらのオブジェは構成されたというよりも、それぞれが生命体として意思を持っているかのように力強い。



破天荒な現代アートの思想がこの空間に凝縮
イタリア人アーティストのロベルト・クオギが作り出す、音の芸術展。紀元前7世紀前後にメソポタミア文明を築いたアッシリア帝国の崩壊をテーマとしたという、ICAらしい一風変わった芸術作品は、11月23日まで公開。入場無料。
コンラン卿プロデュースで食をアートへと変える
Alan Aldridge:
都会人のためのシックなバー
最近のコンセプチュアル・アート界を牽引するブラジ ル人アーティスト、スィウド・メイレリスの特別展。日常生活で手にする事物を使いながら、観る者に驚きや困惑を与えてしまうような、不思議な作品世界を作り上げる。2009年1月11日まで。入場料£8。
待ち合わせにも最適
多角ビジネスを手掛ける英国人企業家ジョン・マデイスキーからの300万ポンド(約6億円)の寄付によって建築された展示スペース。数年ごとに展示内容を変更しながら、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツのコレクションを公開している。入場無料。
ロンドン中心部の隠れ家的名所
ナショナル・ポートレート・ギャラリーの最初の所蔵品になったのが、文豪ウィリアム・シェイクスピアの肖像画だった。ただ同館でもこれがシェイクスピアを描いたものであるかどうかを断定できない、いまだ多くの謎に包まれた作品なのだという。
新古典主義の庭で優雅なお茶を嗜む
19世紀のフランス画家エドゥアール・マネが死の直前に完成させたという「フォリ・ベルジェールの酒場」(右写真)は必見。コートールド美術館への入場は£5(60歳以上、学生は£4、月は14:00まで無料)。
破天荒な現代アートの思想が凝縮
Dryden Goodwin: Cast
異なるアートにはおあつらえのカフェを
Kings Place Gallery
甘いお菓子とともにみっちりとお勉強
常設展の中にある人体の展示。体の部位を意味する英単語を押すと、その部位が光る仕組みになっている。「胃」、「肝臓」といった初歩的なものから「膀胱」といった単語の復習に便利。ウェルカム・コレクションの常設展への入場は無料。
世界で初めてのミュージアム・カフェ
Cold War Modern: Design 1945-1970
英国貴族が嗜んだお茶の時間を追体験
フランドル絵画の代表作として知られる、17世紀のオランダ人画家フランス・ハルスが描いた傑作。入場無料の常設展に飾られている。
都会の喧騒から逃れるための隠された屋外庭園
RIBA の内装
The Parlour@Sketch
Poetry Place
5th view@Waterstone's
Books for Cooks




























Melissa
英国出身のシューズ・デザイナー、トーマス・マーフィー。一見、地味であるが、ディテールを見ると実に面白い。例えば金色に輝くコッパー(銅)製のヒールは、年月を経につれダークな茶に変化していくという過程を楽しみながら履くことが出来る。素材は木や金属に皮など、自然の素材を使用。メンズ靴の思考を取り入れ、長く履き込むと味が出るよう計算されている。
ありそうでなかった、雑誌を丸めたようなクラッチ・バッグ。伊勢丹のバイヤーがサンプルを購入したというから、日本上陸も近いかも。雑誌「バニティ・フェア」の表紙デザインでの特注オーダーも入ったのだとか。
プリントからデザインするというケイトのバッグは、ブロードウェイ・マーケットやスピタルフィールズ・マーケットで買うこともできる。カンバス素材のでかバッグは軽くてお手頃価格、普段使いに愛せるタイプだ。プリントものが旬なこのシーズンに、個性を出せる。
シルクのフリル・バッグに革のヒップ・バッグもフリルと、甘くなりそうなデザインなのになぜか辛口なのは、ブラジルとスウェーデンのデザイナーという対極コンビの賜物かも。ベルトも静かなシャープさで、かっこいい印象。日本では「ビームス」などで取り扱っている。
旬のモデル、アギネス・ディーンが雑誌の表紙で被り、一躍注目が集まったベレー帽は、PVC製でどことなくコミック的かわいさがある。長いリボンとメッシュが新感覚のサンバイザーなど、不思議なデザインを涼しい顔で着こなして、目指せ、お洒落の達人!
ステートメント・ジュエリーは素敵だけど、1日着けると重さで意外に疲れを感じるもの。それを意識し、軽い素材で作られた大ぶりのアクセサリーがこちら。果物の木を彫った黒花モチーフなど、見かけによらない軽さにびっくりだ。
こちらのブランドでも、レディースではミニ・サイズの帽子が目立つ。リアルなイチゴがついたカクテル・ハットは、「主役は私」を目指したい日のコーディネートにぴったり。アクリルの蛍光色が近未来的なキャスケットは、冒険好きなメンズへの提案だ。





















