パンクをモードへ転身させた
反逆性とエレガンスに見るヴィヴィアン・ウェストウッドの世界
どこか浮世離れした雰囲気を持つこの女性が、かつて「パンクの女王」と崇拝されていたと、誰が想像するだろう。「パンク」というファッションを創り、36年間のキャリアを経た現在でも奔放な想像力でアヴァンギャルドを突き進むデザイナー、ヴィヴィアン・ウェストウッド。彼女を一躍主流に押し上げたバンド「セックス・ピストルズ」のアルバム発売から30周年を迎える今年だからこそ、彼女の足跡を辿ってみよう。 (本誌編集部:國近絵美)
ブリティッシュ・ファッション・アワードに出席したヴィヴィアン。66歳にして、このカッコ良さ
目次
ファッション・ルーツ
ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは、綿工場で織工をしていた母親と、靴職人の家系をバックグラウンドに持つ父親との間に生まれる。物心ついた頃からファッションの虜だったというヴィヴィアンは、10代の頃にフランス人ファッション・デザイナー、クリスチャン・ディオールが「現代女性のための、現代的な服」として確立した「ニュー・ルック」と呼ばれるスタイルに深い影響を受ける。ニュー・ルックに憧れ、ヴィヴィアンは学校の制服をペンシル・スカートに作り変えたり、ロング・ドレスを作ったりしたという。
16歳で私立学校を卒業し、家族と共にイングランド中部からロンドンに移動してハロウ・アート・カレッジに通い銀細工とファッションを学ぶが、「労働者階級の女がどうやったらアートで生活していけるか分からない」との理由でわずか1学期で退学。工場で働きながら、教師になるための勉強をする。
革命児との出会い、そしてデザイナーの誕生
結婚・出産を経験した後で大学に入り歴史を専攻したヴィヴィアンは、この時期にその後私生活と仕事上で長年のパートナーとなるマルコム・マクラーレンに出会う。資本主義に対する怒りを理論化し、都市の再生と創造を目指す無政府主義政治団体、「Situationist International」に属し活躍していたマルコムに影響を受 けたヴィヴィアンは、自身も反体制派の考え方に傾倒していく。彼女は当時を振り返り、「あの頃は空けるべきドアがたくさんあって、マルコムはそのどれにも通じる鍵を持っている感じがした」と語っている。
そして71年、マルコムがロンドン、キングス・ロードにブティックを開くと、ヴィヴィアンは教師を辞め、そこでデザイナーとして活動し始める。当時ファッションはヒッピーが全盛期で、英国のラジオ局ではロック・ミュージックなど流れていなかったが、その時代に逆らうように「Let It Rock」という名で店を構えた2人は、50年代のロック・ミュージックのリバイバルとも言える洋服を扱った。
70s 前半パンクファッションの産声
マルコムとヴィヴィアンは、新しいコンセプトの服を発表する度にブティックの名前や内装を変えていった。「Let It Rock」では当時どこにも売っていなかったスキニー・ジーンズや編み目の粗いモヘアのセーターを、そして「SEX」では店名の通り、ポルノを連想させるデザインや引き裂いたシャツ、チェーンや安全ピンのアクセサリーなどを扱うようになる。SM要素を取り入れたこれらの前衛的なスタイルは、今日にも見られるパンク・ファッションの原点となる。
80s 前半ストリートからキャットウォークへ
ブランド「ヴィヴィアン・ウエストウッド」は瞬く間に英国産アヴァンギャルドの象徴となり、1981年にロンドンのオリンピアで、キャットウォークを使って初のコレクションを発表する。そして翌年1982年10月、マリー・クァント以来2人目の英国人デザイナーとして、コレクション発表の場をパリに移す。
1984年後半、13年間パートナーを務めたマルコムから独立したヴィヴィアンは、東京で行われた「The Best of Five」にカルバン・クラインや森英恵らと共に選ばれ来日、コレクションを発表する。17世紀から使われている英国の伝統的な生地や18世紀のアートにインスパイアされた彼女は、これ以降、ラディカルな思想をファッションに結びつけるだけではなく、アヴァンギャルドと歴史や伝統をミックスする独自の手法を取り入れるようになる。この頃から「伝統を持って未来を創る」という彼女のクリエイティビティーを象徴し、王冠と地球をモチーフにしたブランドのロゴ、Orb(宝珠)が使われるようになる。
80s 後半ファッションに革命を
87年の「ハリス・ツイード」コレクションでコルセットを発表し、世界で初めて洋服の上から、あるいは洋服としてコルセットを着用するスタイルを提案。「自由の達成」と名付けられたそれらは、コルセットが中世から引きずっていた女性の行動を制限、抑制するイメージを払拭し、逆に女性本来の力やセクシュアリティを表現していると絶賛された。
90s 前半タータン・チェックの秘密
スコットランドの伝統をパロディーとしてパンク・ファッションに使用し、それ以後の「パンク=チェック」というイメージを定着させたヴィヴィアン。そして1993年には「Anglomania」コレクションのために独自のタータン・チェックを作製し、これを前年に結婚した夫、アンドレア・クロンザーにちなみ「McAndreas(アンドレアの息子)」と命名した。
通常、タータン・チェックとして正式に認定されるには申請から200年かかるといわれているが、伝統的な生地や技術に再び光を当てた彼女の貢献を称え、スコットランドの「Lochcarron」社が早急に認定したという。同年のコレクションは、スーパー・モデルのナオミ・キャンベルがランウェイで転倒したことでも有名。
右のメンズ・ウェアに使用されているのが、ヴィヴィアン・オリジナルのタータン・チェック「McAndreas」
90s 後半熟年のエレガンス
「印象的な服を着れば着るほど、人は良い人生を送れるの」と断言するヴィヴィアンのデザインは、この頃からフェミニン、かつエレガントなスタイルへ移行する。「思想をファッションに取り入れる」こと自体をポップ・カルチャーに育て上げた彼女にとって、ファッションとは「一度抱いた赤ちゃんを離せなくなるようなもの」なのだという。
94年の「Café Society」コレクションより
'00~ファッションを武器に
「自由を得るために主張することで初めて、人は真の民主主義を手に入れることが出来る」と説くヴィヴィアンは、2005年、人権保護団体「リバティー」に「I AM NOT A TERRORIST, please don't arrest me」のスローガンが入ったTシャツとベビー服、ピンバッジなどをデザインした。また、無実の罪により30年以上経つ今でも米国の刑務所で拘束されている米先住民、レオナルド・ペルティエの釈放を訴えるキャンペーンのデザインも手掛けている。これらは全て、ヴィヴィアンが掲げるマニフェストを特集したホー ム・ページ「Active Residence To Propaganda」で見ることが出来る。
美しいカッティングが多く発表された02年の「Anglophilia」コレクション
'06デイムの爵位を授与
2006年に、Knight(ナイト)の女性版であるDame(デイム)の爵位を授与したヴィヴィアン。無政府主義を謳ったバンドをプロデュースし、多くの若者に反体制派の考えを広めた彼女が王室からこのような賞を受けるのは、皮肉な話に聞こえるかもしれない。しかし「政府を攻撃したところで、マーケティングのアイデアを与えることになるだけだって学んだの。変革を起こしたいなら、プロパガンダに反抗することね」と語る彼女は、意外にも王室制度賛成派だという。この「世間が納得する」爵位の取得をきっかけに、彼女が行っている人権問題に関するキャンペーンがもっと真剣に受け取られるのではないかと期待しているそうだ。
さて、同年6月にバッキンガム宮殿で行われた授与式に、黒のドレスに「Active Residence to Propaganda」キャンペーンのバッジを付けて現れたヴィヴィアン。記者に「今日も下着を着けていないのですか?」と聞かれ「もちろんよ」と答えた。ドレスを着る時は下着を履かないと断言する彼女は1992年、エリザベス女王からOBE(大英帝国勲章)を授与された際に、中庭でくるりと一周してスカートを閃かせ、わざわざ下着を履いていないことを報道カメラマンたちにお披露目した前歴がある。「後で聞いたんだけど、女王は私のパフォーマンス、結構面白がっていたみたい」と語ったが、今回は母親と8歳になる孫娘が同席していたこともあり、下着未着用姿を披露することはなかった。
パンクとデザイナーの育ての親 マルコム・マクラーレン
ハイ・ストリートにフェティッシュ・ウェアを持ち込み、楽器もろくに弾けない若者たちを超売れっ子バンドに仕立て上げた影の立役者、マルコム・マクラーレンの素顔とは?
マルコムがヴィヴィアン・ウェストウッドと出会ったのは、彼が19歳のアート学生だった頃。当時破綻寸前の結婚生活から逃げ出すために、息子を連れて兄の家へ転がり込んだヴィヴィアンは、そこで同居していた7歳年下のマルコムと出会った。
そもそもパンクは米国のニューヨークで、英国以前に発祥している。75年ごろ、マルコムはパンク・バンドの元祖ともいえる「ニューヨーク・ドールズ」のマネージャーを一時期務め、若者たちがパンクに熱狂する様を目の当たりにしていた。一方、当時の英国は不況のどん底。完全にビジネス化してしまったロックは社会に不満を抱える若者にとって身近なものではなく、そんな彼らにパンクを与えてみようと思い立ったマルコムは、当時のブティック「SEX」の常連客や定員をオーディションし、バンド・メンバーを集めていく。
そして集まった若者たちにヴィヴィアンがデザインした過激な服を着せ、反社会的なパンク・バンドとしてデビューさせたのが「セックス・ピストルズ」の始まりだ。やがてバンドがメインストリームに押し上がると共に、ヴィヴィアンがデザインした洋服も社会現象になるほどの人気を博す。しかし、実際にメンバーが着た衣装のほとんどは、自作の安物だったという説もある。いずれにせよ、ボーカルの ジョニー・ロットンだけはガーゼ生地のシャツなど高価な洋服を譲ってもらっていたという。
時代を駆け抜けたカオスの代弁者 セックス・ピストルズ
たった1枚のアルバムで「パンク」の存在を知らしめ、そして未だにパンクの理想像として崇められている伝説のバンド、セックス・ピストルズ。ヴィヴィアンを語る上で欠かせない彼らの活動を、ここでざっくりおさらいしよう。
結成当時のメンバーはジョニー・ロットン(メイン・ボ ーカル)、スティーブ・ジョーンズ(ギター)、グレン・マトロック(ベース)、ポール・クック(ドラム)の4人。敏腕マネージャーであったマルコムの力により、メジャー大手であるEMIと契約、76年にシングル・デビューした。しかしあまりにも歌詞が過激だったため発売と同時に放送禁止となり、各都市での公演も相次いで中止、EMIからも契約を破棄されてしまう。その間にベーシストがマトロックからロットンの幼馴染であったシド・ヴィシャスに代わる。1977年、セカンド・シングルが全英2位の快挙を遂げ、同年、アルバム「勝手にしやがれ」が発売され、パンク・ムーブメントが英国中に巻き起こった。
「パンクの精神」そのものだと称され、ボーカルの ロットンと人気を二分したシド・ヴィシャスは、ベースなど弾けないままバンドに入り、ライブではベースをアンプに繋いでさえいなかったという逸話の持ち主。しかし、フラストレーションや怒りを音楽に変えるというパンク本来のパワーや、過去や未来の存在しない「瞬間」を生きようとする様は誰にも真似出来なかった。78年、バンドが解散した数カ月後、ニューヨークのホテルで恋人のナンシー・スパンゲン殺害の容疑で逮捕され、保釈中にヘロインの過剰摂取により21歳の若さでこの世を去る。
一方、過激で社会風刺の効いた歌詞でピストルズの人気を支えたロットン。しかしアンチ・キリスト発言や痛烈な王室制批判などのせいで、右翼や保守派の人々にとって目の敵となる。後に愛国主義者にナイフで襲われ、この後遺症が原因でギターが弾けなくなったという。パンク精神を体現しようとしたシドとは反対に、ロットンは早くからパンクの限界に気づき、78年の米国ツアー中に早々とバンドからの撤退を表明。これによりバンドはわずか2年余りの活動で事実上の解散となる。
若者たちに宛てた声明文 Active Residence to Propaganda
若い人に何を伝え、どうすれば世界をより良い場所に変えられるのか、という疑問から作られたというヴィヴィアンのマニフェストを紹介する「Active Residence to Propaganda(組織的な宣伝への積極的な抵抗)」と名付けられたホーム・ページ。ここでは「情報が溢れているこの時代、どの情報が正しくてどれが操作されているのか、自分で考え、真実を見極めなくてはいけない」と警告が発せられている。「アートは文化を生み出し、その文化こそがプロパガンダの解毒剤なのだ」という彼女の信念が細かに綴られており、2005年のコレクション「プロパガンダ」で使用したスケッチ、アイデアやグラフィックの他、ヴィヴィアンが定期的に行っているマニフェストの討論会を撮影したビデオ映像も見ることが出来る。
www.viviennewestwood.co.uk4ラインの特徴
Gold Label
デミ・クチュールとも呼べるファースト・ラインで、ヴィヴィアンを象徴するライン。パリ・コレクションで発表される。
Red Label
プレタポルテ・ラインでゴールドよりもデイリーに着ることが出来るデザイン。コレクションは行われていない。
MAN
メンズ・ライン。ミラノ・メンズ・コレクションで発表される。
Anglomania
昔のコレクションを復刻したカジュアル・ライン。キングス・ロードのブティック「World's End」で扱っている。
2008年はハリウッドの動きに注目!
ヴィヴィアン・ウェストウッドの類まれなる半生を振り返る、ドキュメンタリー・タッチの映画が来年ハリウッドで製作されるという噂がある。マルコム・マクラーレンとの恋からセックス・ピストルズとのコラボレーション、そしてアンダーグラウンドの世界からパリ・コレクションへの飛躍を振り返る伝記的映画になる予定で、ヴィヴィアン役には人気女優のキルスティン・ダンストの名前も挙がっているとか。
ヴィヴィアン・クロニクル
結婚、出産、インスピレーションとの出会い、そして数々の賞の受賞。デザイナー・デビューから36年を過ぎた今でも活躍し続けるヴィヴィアンの半生、とくとご覧あれ。
1941年 | 4月8日、イングランド中部、ダービシャー地方の街グロソップにてヴィヴィアン・イザベ ル・スウェア誕生。 |
1957年 | (17歳)家族と共にロンドンに移動。ハロウ・ アート・スクールに入学するも、1学期で中退。 |
1962年 | (21歳)スチュワードを務めるデレク・ウェストウッドと結婚。北ロンドン、ウィルスデンの小学校で教師として働き始める。 |
1963年 | (22歳)長男、ベンジャミン・アーサー・ウェストウッドが誕生。 |
1965年 | (24歳)ウェストウッドと離婚。当時19歳のマルコム・マクラーレンと出会う。 |
1967年 | (26歳)マルコムとの間に次男、ジョセフ・ファーディナンド・コレー誕生。 |
1971年 | (30歳)マルコムがブティック「Let It Rock」をロンドン、キングス・ロードにオープン。そこでデザイナーとして活動を始める。 |
1972年 | (31歳)ブティックの外観と内装を変え、店名もマルコムによって「Too Fast To Live Too Young To Die」となる。 |
1974年 | (33歳)店名が「SEX」へ変わる。 |
1975年 | (34歳)マルコムがパンク・バンド「Sex Pistols」を発掘、マネージャーとなり、ヴィヴィアンが衣装プロデュースを担当する。 |
1976年 | (35歳)店名が「Seditionaries―Clothes for Heroes」となる。 |
1979年 | (38歳)店は新しく「World's End」と名付けられ、現在に至るまで変わっていない。 |
1981年 | (40歳)マルコムと共に、キャットウォークを使った初のコレクションをロンドン、オリンピアで発表。 |
1982年 | (41歳)コレクションの発表をパリに移動する。マルコムと共にブティックの第2号店 「Nostalgia of Mud」をオープン。 |
1984年 | (43歳)「Nostalgia of Mud」を閉店。マルコムから独立し、単身イタリアに移動する。東京で行われたファッション・アワード「Best of Five」に招待され、森英恵らと共にコレクションを披露。 |
1989年 | (48歳)「世界の優れたデザイナー」6人のうちの1人として選出される。2月、2年間の契約で「Vienna Academy of Applied Arts」のファッション専攻の教授として教壇に立つ。 |
1990年 | (49歳)12月、メイフェアのデイヴィス・ストリートにゴールド・レーベルを扱うショップをオープン。ブリティッシュ・ファッション・カウンシルによって「British Designer of the Year」に選ばれる。 |
1991年 | (50歳)2年連続で「British Designer of the Year」に選ばれる。 7月、イタリア・フローレンスにて初めて、メンズ・コレクションを発表。 |
1992年 | (51歳)「Royal Colledge of Art」にて名誉奨学研究員となる。ファッション・デザイナーとして始めて世界の時計ブランド「スウォッチ」のデザインを手がける。 12月、エリザベス女王よりOBE(大英帝国勲章)を受賞。 ヴェニスで教師をしている際に出会った元教え子で25歳年下のオーストリア人、アンドレア・ クロンザラーと結婚。 |
1993年 | (52歳)秋冬コレクションのために独自のタータン・チェック「McAndreas」を作製。この年から現在に至るまで、ドイツ、ベルリンの「Berliner Hochschule der Knste」においてファッション専攻の教授として教壇に立つ。 |
1996年 | (55歳)1月、ミラノで新しいメンズ・ライン「MAN」のコレクションを発表。 |
1998年 | (57歳)ヴィヴィアン・ウェストウッド社がエリザベス女王より「輸出部門成長企業会社」として表彰される。9月、最初のフレグランス「Boudoir」がロンドンで発表される。 11月、モエ・シャンドン・ファッション・トリビュート第1回目の受賞者に選ばれる。 |
2000年 | (59歳)セカンド・フレグランス「Libertine」 を発表。 |
2003年 | (62歳)6月、「UK Fashion Expart for Design」賞を受賞。 |
2004年 | (63歳)4月、ロンドンのV&Aミュージアムにて34年間の軌跡を辿る回顧展を開催。08年まで世界各地のミュージアムを周る予定。 |
2005年 | (64歳)9月、英国を拠点とする人権保護団体「Liverty」に参加。 |
2006年 | 1月(65歳)、英国人デザイナーとして初めて、エリザベス女王よりDameの称号を与えられる。3度目となる「British Designer of the Year」を受賞。3月、ダイアモンド・ライン「Hardcore Diamonds」を発表。コスメティック・ライン「Vivienne Westwood Cosmetics」を発表。 |
2007年 | (66歳)キングス・カレッジ・ロンドンの卒業生が着用するガウンをデザイン。2008年の夏に行われる卒業式で、正式にお披露目される予定。 |