ユース・カルチャー発展の立役者
ドクターマーチンの
歴史から紐解く
英国文化
おしゃれな英国ファッション・アイテムとして有名な靴ブランド「ドクターマーチン」。今やオックスフォード英語辞典にも載るほど知名度の高いブランドだが、その栄光を手にするまでには長い道のりがあった。戦後の少ない物資のなか、考案者たちの情熱によって誕生。やがて英経済を土台から支える労働者と、人生を謳歌する若者たちを鼓舞し続ける存在になった、ドクターマーチンの光と影に迫る。(文: ニュースダイジェスト編集部)
1979年、ロンドンのショップ「ボーイ」の前に立つパンクたち
誕生のきっかけは足首の負傷だった
英国ブランドとして世間に知られているドクターマーチンだが、実は1945年のドイツで生まれ、立ち位置も現在のようなファッション・アイテムとは異なるものだった。考案者は独軍医のクラウス・マルテンス。スキー中に足首を負傷してしまったマルテンスは、それまで履いていたミリタリー・ブーツが痛めた足には硬すぎたため、歩行の際の衝撃を和らげ、足が疲れないソールを作ることにした。材料は、戦後の混乱に乗じて手に入れた廃材や皮革などを利用したという。こうして第二次大戦直後のミュンヘンで生まれた「エア・クッション・ソール」は、ドクターマーチン誕生の大きな一歩となった。ブランドの始まりは、意外にもマルテンスに起きた個人的な出来事だったわけだが、これが後に英国へ進出するキー・ポイントとなる。
マルテンスは若いときに靴の修理工として働いた経験があったものの、製作にはより精密な技術や専門的な知識が必要となったため、大学時代の旧友で、機械工学の知識を持つヘルベルト・フンクを訪ね、2人で協力して商品化を目指した。そして2年後の1947年、エア・クッション・ソールを搭載した靴の販売を開始。それまでミリタリー・ブーツしか履くものがなかった労働者階級の男性や主婦たちに大ヒットし、2人の靴は瞬く間に知名度を上げ、業績はうなぎ上りだった。
転機が訪れたのは1959年。2人はもっと大きな市場での流通を目指し、海外へ視野を向ける。早速、英国の靴業界専門誌に広告を出した。これに目をつけたのが、英中部ウォラストンで家族経営の製靴業を営んでいたグリッグス家のビル・グリッグス。同家は1901年の創業以来、丈夫なワーク・ブーツを作る老舗として知られており、ビル・グリッグスはこの革新的なソールに興味をそそられた。2人の新たなスタートには最高のパートナーだったといえるだろう。
左)スキーを楽しむクラウス・マルテンス(写真右)とヘルベルト・フンク(同左)
右)ドクターマーチンを英国にもたらしたビル・グリッグス
エア・クッション・ソールのプロトタイプ
1930年代に撮影されたグリッグス家のコブスレーン工場
アイコンとなった「1460」
グリッグスは、マルテンスとフンクが開発したエア・クッション・ソールの製造特許を獲得し、製作に取り掛かる。エア・クッション・ソールの考案者、マルテンスを英語読みにした「ドクターマーチン」は、8つのレース・ホールを持ち、濃い赤色のオックスブラッドのブーツとして、1960年4月1日から正式に生産をスタート。日付にちなみ、このモデルは「1460」と名付けられた。商品化にあたり、ソールに改良を加えたほか、丸みを帯びたフォルム、靴の周りを一周する黄色のステッチ、履き口に取り付けられた黒と黄色がポイントのヒール・ループ、ツートンの溝付きソール・エッジなどのアレンジを加え、特徴となるソールを「エアウェアAirwair」と呼び、キャッチ・フレーズ「ウィズ・バウンシング・ソールズWith Bouncing Soles (弾む履き心地のソール)」とともに、世に送り出した。
発売後の数年間は、「頑丈で、そこまで高額ではない靴」として、ドイツと同じく労働者階級の男性を中心に飛ぶように売れ、特に警察官、工場従事者、郵便局員たちの間にいち早く浸透していった。また、発売額が2ポンド(現在の約40ポンド)と手ごろだったのも売り上げを後押した要因だった。ちなみに、当初はロンドン東部の魚市場で働く人へ向けて、靴をオイル仕上げにして販売する予定だったが、加工なしでも耐久性に差がなく、またマットでラフな感じが逆にアピール・ポイントになったため、結局その過程は省略されたという。
やがて「ドクDocs」「DMs」などの愛称で幅広く親しまれていったこの靴が、ただのワーキング・ブーツの枠から飛び出すのにそう時間はかからなかった。労働者階級の便利な靴が、しだいに英国のカルチャー・シーンに必要不可欠なアイテムになっていくのである。
左)1460モデル。現在は柔らかいレザーを使っている
右)1960年代に使われたドクターマーチンの広告
英国の文化、社会に与えた影響
第二次大戦後、英経済が軌道に乗るに従い、英国の若者たちは給料をファッション・アイテムにつぎ込むようになり、1950年代後半から主にロンドンに住む中流階級の間で誕生した(諸説あり)「モッズ」が世間をにぎわせ始める。モッズは、細身の3つボタン・スーツにミリタリー・パーカを身に纏い、音楽をこよなく愛し、スクーターで街を移動する若者のこと。労働者階級のモッズたちは、懐に余裕があるときにスーツを購入していたようで、普段はワーキング・ブーツやミリタリー・ブーツを履き、ボタンダウン・シャツにストレートのリーバイスなど、実用的なアイテムを身に付けていることが多かったという。このスタイルは、1960年代後半から「スキンヘッド(スキンズ)」と名を変えて独自のスタイルを築いていくことになる。思想により、スキンズ内で名称は細分化するのだが、いずれにせよ、生まれたてのスキンズは、自身の階級の誇りを表すアイテムとして、ドクターマーチンを選んだ。
このように、アイデンティティーを主張する手助けとなったドクターマーチンだが、その名を世に知らしめ、また英国を代表するブランドに躍進させた最も重要な立役者は「ミュージシャン」であった。
1967年、英ロック・バンド、ザ・フーのピート・タウンゼントは、英北部のとあるショップで、ライブのためにドクターマーチンのブーツを購入。派手なステージ、パフォーマンスで知られるタウンゼントは、そのステージでも、ドクターマーチンを履いて自由に跳ね回った。もちろんブーツはカメラマンが捉えた印象的なシーンにことごとく写り込み、ファンの目に飛び込むのに時間はかからなかった。また、タウンゼントはブーツについて「柔らかさと、足へのなじみの良さを兼ね備えたこのタフなブーツが、自分のパフォーマンスをより高みへ導いた」と、絶賛したという。タウンゼントはドクターマーチンを早期に履いた有名アーティストの1人であるが、その後もパンク・バンド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、スカ・バンドのマッドネス、ロック・バンド、ザ・スミスのボーカル、モリッシーなど、数え切れないほどのミュージシャンたちが愛用。また、ファンたちもこぞってファッションを真似することで、愛用者を着実に増やしていった。こうしてドクターマーチンは、偶然に助けられながらも、英国のユース・カルチャーを支える必須アイテムとして君臨したのである。
ライブでドクターマーチンを履いたピート・タウンゼント
1983年、ロンドンのキングス・ロードに集まるパンクたち
ノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たち
コベント・ガーデンのショップを訪れたマッドネス
政治家も愛用した
血気盛んな若者たちに履かれていたドクターマーチン。だが、公の改まった場所にも登場したこともあった。労働党員として47年間下院議員を務めたトニー・ベン(1925年~2014年)は、父から受け継いだ上院議員の地位を捨て、戦後の英国の労働運動を積極的に後押しした政治家。ベンはよくドクターマーチンの靴を履いて議会に登院していたため、一般の見解としては労働者階級との団結を表現していた、と言われている。しかし、かつて「ガーディアン」紙のインタビューで、そのとき履いていた黒のドクターマーチンについて聞かれ、「1970年代ごろ、息子からこの靴のことを教えてもらい、試しに履いてみたらとても履きやすかった。以来ずっと履いています」と答えた。
英国の政治家、トニー・ベン
業績不振からの飛躍
様々な階級の人たちに受け入れられ、売り上げを伸ばしていったドクターマーチンのエアウェア社だが、2000年代に入る直前、その勢いに陰りが見え始める。原因は、国内ではなく「米国市場での売り上げ減少による財政難」。状況は非常に悪く、建て直すどころか倒産の危機まで迫ったため、2003年、国内の工場を1つだけ残し、生産拠点を中国とタイへ移転するという苦渋の決断を下す。結果として、1000人以上が職を失うことになった。追い込まれた同社が考えた策は、ジミー・チュウやビビアン・ウェストウッドなど名のあるファッション・ブランドとコラボレーションし、ファッション好きの若者を惹きつけること。こうして当座を凌ぎ、事業再生へのめどをつけた同社は、4年後の2007年、英中部ウォラストンにあるコブスレーン工場で、昔ながらの製法で作った「ビンテージ」コレクションの製作を開始。ブランド・イメージの名誉挽回である。使用するレザーは「キュイロンQuilon」と呼ばれる厚みのある非常に硬いもので、履き始めはとにかく痛い。しかし、かつてのファンは、この分厚いレザーこそドクターマーチンだ、と復活を喜んだそう。その後も国内外で次々とショップをオープンさせ、ドクターマーチンは名実ともに完全復活を遂げた。
現在は東アジアを含む海外市場での売り上げが好調で、他社とのコラボレーションも引き続き積極的に行っている。2018年には英美術館テート・ギャラリーとタッグを組み、英画家の作品をプリントするなどの斬新な挑戦も試みている。
発売当初に比べると、ブランドの持つとがった雰囲気は薄くなりつつあるが、英コメディアン兼作家のアレクセイ・セイルの歌「ドクターマーチン・ブーツ」の、「階級もイデオロギーも関係ない、(中略)履けば誰もが自由になれるんだ」という歌詞の通り、これからも多くの人を魅了し続けていくことに変わりはないだろう。
英国のロック・バンド、ニュー・オーダーとコラボし、アルバム「テクニック」のジャケットをプリント
知られざるエピソード
2007年広告事件
2007年、契約していた広告代理店「サーチ・アンド・サーチ(S&S)」がとんでもない広告を作ってしまった。ニルバーナのカート・コバーン、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、セックス・ピストルズのシド・ビシャス、ラモーンズのジョーイ・ラモーンら今は亡きミュージシャンたちが、ドクターマーチンの靴を履いて雲の上に佇むというビジュアルで、まるで4人を神様のように見立てたものだったという。S&Sが勝手に作業を進めたのに加え、遺族の許可も取っていなかったため、広告を見た遺族たちが声明を出す事態になった。ドクターマーチンを販売するエアウェア社は、この一連の騒動について遺族に謝罪し、S&Sとの契約を打ち切ることにした。
好調なアジア市場とファンの本音
2013年、投資ファンドのペルミラと組み、更なる市場拡大を目指したドクターマーチン。そのかいあって、日本を含む東アジア市場での売り上げが好調のようだ。また、重くてゴツい従来のブーツを3分の1に軽量化し、よりスマートな見た目へチェンジした「DM's Lite」という新ラインは、ティーンエイジャーを中心にヒットした。このように近年はファッション性重視の傾向が感じられるが、昔からのファンはどう受け止めているのだろうか? 「ガーディアン」紙に寄せられた意見では、新しい開発を好意的に受け止める人がいる一方、「時代が変わって、昔のパンクやスキンズみたいに、社会に対して反逆する子供たちはもういなくなったのだろうか」「品質が下がってから履かなくなってしまった」「私は現在60歳で、少し高かったけど、丈夫な英国産のドクターマーチンを買ったわ。私より長生きするんじゃないかしら」など、ノスタルジーに浸る人々も少なからずいるようだ。