紅茶のない英国生活が考えられないように、ロック音楽のない英国は考えられない。今や世の現状を謳う社会派アーティストは世界中に存在するとはいえ、ここまで音楽が政治や社会情勢に密着し、影響を与え合う国は少ないのではないだろうか。英国文化に深く根付いた「ロック」という思想と歴史、その大まかな流れを紹介しよう。
(本誌編集部:國近絵美)
音楽界の流れ
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英国内の動き
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1
9 5 0 年 代 |
52年 58年 |
エリザベス2世即位 ノッティングヒル暴動 |
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1
9 6 0 年 代 |
モッズ |
62年 |
ビートルズがデビュー |
ブリティッシュ・インベージョン スウィンギング・ロンドン |
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プログレッシブ・ロック、 アート・ロック、 サイケデリック・ロック、 グラム・ロック |
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1
9 7 0 年 代 |
70年 72年 76年 78年 79年 |
ビートルズ解散 北アイルランド紛争 ノッティングヒル・カーニバル暴動 ロック・アゲインスト・レイシズム10万人による行進 マーガレット・サッチャー首相就任 |
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パンク・ロック | |||
ニュー・ロマンティック 第二次ブリティッシュ・インベージョン |
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1
9 8 0 年 代 |
84年 85年 |
12カ月にわたる炭鉱スト開始 ライブ・エイド開催 |
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オルタナティブ・ロック |
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マッドチェスター | |||
1
9 9 0 年 代 |
グランジ・ロック |
91年 92年 94年 94年 96年 97年 97年 98年 |
首相官邸でIRA爆弾テロ ジョン・メイジャー首相就任 IRAが停戦宣言 ユーロスター運行開始 チャールズ皇太子とダイアナ皇太子妃の離婚発表 トニー・ブレア首相就任 ダイアナ元皇太子妃がパリで自動車事故死 英国・北アイルランド紛争の和平合意 |
ブリットポップ |
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クール・ブリタニア | |||
2
0 0 0 年 代 |
第三次ブリティッシュ・インベージョン? | 01年 02年 03年 05年 |
総選挙で労働党圧勝 エリザベス女王即位50周年記念コンサート開催 米国に続き、英国もイラク侵攻に参加 ロンドン同時爆破事件 LIVE8 |
戦前の困窮した生活から抜け出したことにより、10代の若者たちが酒を飲み、自由思想を謳った新しい音楽を聴きダンスすることができるようになった、まさに「開放」の時代。ミニ・スカートが大流行し、ピルが出回り始めた時期と重なったこともあり、性的にも開放された。そして、そんな若者たちの思想を体現するロックン・ロールの時代が、満を持して到来したのだ。
The Beatles ビートルズ
(1963~70年)
「『英国らしさ』をつくりあげた」と評されるほど音楽、そして文化にも影響を及ぼした、世界で最も有名な英国人4人組。彼らはヒッピーや「愛と平和」を説いたフラワー・パワー・ジェネレーション全盛期の米国でも、ベトナム反戦運動やユートピア思想などに影響を与え、文化的にも社会的にも革命を起こした。どちらの国にとっても、若者たちが独自の価値観を模索していたムーブメントにおいて、ビートルズが新しい思想の媒体となったことは確かだろう。
また、1965年にはアレック・ダグラス=ヒューム首相が「今やビートルズは英国の秘密兵器である」と発言し、外貨獲得に貢献する彼らの活躍を称えた。同年6月、国家への多大な経済的貢献を理由に、バンドとして初めてM.B.E.(大英勲章第5位)を授与された(ジョン・レノンは4年後に抗議のために送り返している)。
ブリティッシュ・インベージョン British Invasion
1964年から66年までの間、英国産バンドが全米チャートを独占した時期を指す。「英国の侵略」という仰々しい呼び名から、それまで米国が想像したこともなかった英国ロックの勢いを測ることができる。米国でのビートルズの爆発的な人気をきっかけに、おびただしい数のバンドが後を追って米国に進出し、当時ロックン・ロールが全盛だった米国へ、新たに「ブリティッシュ・ロック」という新風を送り込んだ。ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスが「ビッグ・フォー」と呼ばれている。
スウィンギング・ロンドン Swinging London
60年代後半の英国における、若者が中心となって創り上げた革新的な文化の傾向を表す。戦後からの経済の回復とともに、楽観主義と快楽主義が全面に押し出されたこの時代は「文化革命期」とも称された。「モッズの女王」と呼ばれたモデルのツィギーとそのファッションが各国でユース・カルチャーの象徴となり、また66年にサッカーW杯でイングランド代表が優勝し、ユニオン・ジャックのデザインが巷に溢れたことも、世界に「旬」の英国を認識させるに至った。
暗い未来を象徴したかのように、ダークなサウンドへと移行。計算されつくした3分間のポップ・ソングではなく、よりサイケデリックなものや、この頃に発生したプログレッシブ・ロックが主流になる。その後、技術や構成力を強調したプログレッシブ・ロックの対極ともいえる、原始的でキャッチーなグラム・ロックも参入。しかし、そのけばけばしさや中産階級に向けた音楽は、次第に若者たちの心から離れていく。
1970年代半ばには、英国の不景気が加速。失業率の増加は人々を扇動的にし、人種差別や警察の暴力が日常的に取りざたされるようになった。社会への反逆を提唱していたロック・ミュージックでさえも、この頃にはメッセージ性を失い、それまで非難していた名声や富そのものによって堕落した状態。そんな時、怒りや孤独を抱える若者たちは、突如現れたパンク・ロックに心のはけ口を見出すようになった。
The Clash クラッシュ
(1976~85年)
当時無名であったセックス・ピストルズのライブに感化されたクラッシュは、1976年にレコード会社と契約。この年、失業者は120万人を数え、翌年には150万人を突破、欧州の工業国で最高値を記録した。労働者階級の怒りや失望を「パンク」という音楽に変えたのがセックス・ピストルズであれば、その憤りを紐解く哲学や生き様を説き、政治活動に参加するように働きかけたのがクラッシュであった。彼らは社会の腐敗や階級主義、人種差別や警察の横暴さを批判し、「アンチ・ナチ・リーグ」や「ロック・アゲインスト・レイシズム」といった活動にも第一線で参加。なかでも02年に他界したボーカルのジョー・ストラマーは左翼の政治活動家であり、彼の音楽業界や社会への貢献を称える者は後を絶たない。
White Riot (1977)
アルバム「The Clash」収録
ノッティングヒル・カーニバルで起きた暴動の翌年に発表された「White Riot(白い暴動)」は、歌詞を文字通り聴けば、人種間での争いを煽っているようにとれる。しかしこの曲には、白人の若者に対し「黒人たちのように、自分たちも暴動を起こす正当な理由を見付けろ」と、両者が力を合わせ、階級や政府などの抑圧に反抗するようにと促すメッセージが隠されている。白人として人種的な正義を訴えた、英音楽史上でも重要な1曲である。
The Clash / The Clash (1977)
ノッティングヒル暴動 Notting Hill Riots
元英国植民地からの移民と白人の労働者階級の人々の間に対立が深まり、58年8月28日、イングランド中部の街、ノッティンガムで黒人の青年が白人男性を刺殺する事件が起こる。それをきっかけに、カリブ系移民移住区であるロンドンのノッティングヒル地区に数千人もの白人が集まり黒人を襲撃。黒人5人の犠牲者を出した暴動は、約1週間続いた。それから7年後の65年、同地で移民の祭典として、「ノッティングヒル・カーニバル」が開催される運びとなった。しかし、カーニバルが開始された当初から人種的な争いは絶えなかった。そして、70年代に入り失業率が増加すると人種対立が深刻化し、76年のカーニバルで100人以上もの警察官と約60人の参加者が病院に運ばれ、66人が拘束されるという暴動が起きた。
ロック・アゲンスト・レイシズム Rock Against Racism
エリック・クラプトンが「英国を『黒人の植民地』にしないためにも、イノック・パウウェル(極右で有名な保守党党員)に投票するべきだ」と発言したり、デービッド・ボウイが「英国はファシストを指導者に迎える用意ができた」と語ったりしたため、蔓延する人種差別的な思想に警告を発するために発足された団体。78年4月、極右組織「ナショナル・フロント(国民戦線)」が集まるハックニー地区で野外コンサートを行った際には記録的な支持を集め、トラファルガー広場から開催地まで、約10万人もの市民が行進したという。
「ニュー・ロマンティック」と呼ばれる、ファンタジーや空想など、現実逃避のきらいがある楽曲が主流になった80年代初頭。しかもミュージック・ビデオの放映を専門としたMTVが81年に米国で登場すると、音楽界とクリエイティブ界は新時代に突入し、アーティストが産業的に成功するには話題性のあるプロモーション・ビデオが必要になる。英国はデュラン・デュランやカルチャークラブなどといった、ヴィジュアル効果を最大限に利用したアーティストたちを米国に送り込み大成功を収め、「第二次ブリティッシュ・インベージョン」と称された。
一方で、80年代中期にはハード・ロック寄りでリアリズムを説くバンド、そしてサッチャー政権を厳しく非難する左翼バンドなどが加わった。それは84年に毎晩のようにテレビで放映された炭鉱者たちによるストライキや、それを取り締まる警察との衝突による衝撃に影響するところが大きい。そしてロック・ミュージシャンたちが新しい表現法を模索するなか、「オルタナティブ・ロック」という新しいジャンルが誕生した。
The Smiths スミス
(1982~87年)
サッチャー政権による時代の変動を要約し、社会や体制を声高に批判したスミスは、80年代で最も重要なバンドと称される。キャッチーでポップなメロディーと、それに相反するような重い内容の歌詞は、政府に不信感を持つ若者たちに洞察を与えた。
Meat Is Murder (1986)
アルバム「Meat is Murder」収録
学校や家庭での体罰に対する批判など、政治的メッセージが全面に打ち出されたこのアルバム。タイトルともなった曲「Meat Is Murder」は肉食を動物虐待であると訴え、ベジタリアンであるフロントマン、モリッシーの意見を色濃く反映している。このアルバム発売当時には、メンバーに肉を食べているところを写真に撮られないように要請していたという。モリッシーはインタビューでも議論を呼ぶコメントを多く残している。サッチャー政権に対する不満を述べ、さらにチャリティー・イベント「ライブ・エイド」を「独善的」と称した彼は、同イベントはアフリカの貧困をサッチャーや女王に訴えることなく、無職の音楽ファンから金を巻き上げているだけだと非難した。
Meat Is Murder / The Smoths (1986)
ライブ・エイド Live Aid
「1億人の飢餓を救う」というスローガンのもと、1985年、エチオピアにおける飢饉救済の資金集めのために開催された20世紀最大規模のチャリティー・コンサート。世界約100カ国で15億人以上がこのイベントの模様を見たといい、1億5000万ポンド(約345億円)の資金が集められ、「音楽が世界を救った日」と絶賛された。2005年7月には、貿易障壁とエイズ問題などの認識を高める目的で「LIVE8」として復活した。
Live Aid [1985]
レッド・ウェッジ Red Wedge
1985年、音楽を通して政治活動を続けるビリー・ブラッグによる主導のもと、ポール・ウェラーなどの人気英国人ミュージシャンたちが集まり発足。若者たちに政治に興味を持たせることを目的にコンサート活動をし、86年のライブではスミスも参加している。正確には労働党に属してはいなかったが、同党本部に事務所を構えていた。マーガレット・サッチャー率いる保守党政権を破り、労働党の勝利を目指したが、87年の総選挙でサッチャーが3期目の当選を果たすと自然消滅し始め、90年には正式に解散した。
80年代後半から続いていたダンス・ミュージックとロックが融合した「マッドチェスター」の動きは終息に向かい、ニルヴァーナを筆頭とするグランジ・ロックが流行し、米国出身のバンドがチャートを独占し始める。しかし94年にロック界のカリスマ的存在であったニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーンが自殺すると、グランジ・ブームは一気に影をひそめた。開放的なロックへの回帰が渇望され、ブラーの3rdアルバムとオアシスの鮮烈なデビューが決定打となって音楽シーンが急変する。
Radiohead レディオヘッド
(1992~)
97年に発表されたアルバム「OK Computer」は、ブリットポップが衰退し始め、政治情勢が変動し始めた頃に発売された。工場方式の農場経営やグローバル化、そして過去20年間にわたる保守党政権についての本に影響されたというこの作品には、労働党政権に移行しても、現状はそれほど改善されないだろうという懸念が滲んでいる。ブリットポップの「楽しいロック」ではなく「考えさせる」楽曲を発表し成功したことにより、このアルバムがブリットポップを「殺した」と称する批評家もいたほどだ。そして実際、これをきっかけに、それまで英国を支配していた「ギター・ポップ」のスタイルはどんどんスローに、そしてメランコリックに変化していった。
ブリットポップ Britpop
キャッチーでさえあれば、アート・ロックからハードなものまで、なんでもあり。それがブリットポップと呼ばれ、社会現象にまでなったロックの形だった。中流階級出身のブラーと、労働者階級のオアシス。人気を二分した両バンドの音楽性、階級、出身地の違いが雑誌などで大きく取り上げられ、そして95年にシングル同日発売が決定すると、どちらが1位を獲得するかメディアが激しく煽った。この様子はBBCのニュースでも報道されるなど異様な盛り上がりを見せ、ロックが世間の「お茶の間レベル」にまで浸透。こうしてブリットポップは英国中を巻き込んだ一大ムーブメントとなった。
この2バンドの爆発的な人気にあやかり、レコード会社は新人バンドを次々とデビューさせ、戦略的なマーケティングを武器に米国にも進出。英国出身というだけでバンドが持てはやされるようになる。しかしブリットポップの生みの親であるブラーのフロントマン、デーモン・アルバーンは、ブームが肥大化しすぎたその現状を嘆いた。97年にブリットポップに相反する曲調のアルバムを発表した後、「ブリットポップは死んだ」と宣言。この発言を機にブームは失速し、終焉を迎えた。この頃にデビューし人気を博した多くのバンドは、ごく一部を除き、2000年頃までには姿を消してしまった。
ちなみに、05年9月より、GCSEレベルの音楽の授業では、ブリットポップをコースの一環として学ぶことができるという。
クールブリタニア Cool Britania
90年代前半から、英国で発祥した若い世代による文化が世界的に認められつつあった。ブリットポップやレイブはもとより、アート界やファッション界のアーティストたちも、次々と「英国の独自性」を発信しブームを作り始めていたのだ。
そんななか、96年末に米「ニューズウィーク」誌がロンドンを「地球上で最もクールな首都」と紹介。これが「クール・ブリタニア」という用語が生まれるきっかけになったともいわれ、メディアや広告業界がこのフレーズを広く使い始めた。
一方、95年頃には100年ぶりともいわれる好景気が英国に到来。そして97年の総選挙で44歳のトニー・ブレアが首相に選出されると、オアシスのフロントマン、ノエル・ギャラガーや各界の若手アーティストたちが新首相を訪れ祝意を表した。ブレアは彼らと対面することで、政治とアートを近づけようと考えたのだ。「クール・ブリタニア」のフレーズはブレアの新鮮なイメージと共に世間に広まり、さっそく同首相は国の主要産業として「国家ブランド戦略」を開始。そして96年にブリットポップ系のバンドが多数参加した映画「トレイン・スポッティング」が公開されると、英国のエンターテインメント界が絶頂期であることを世界が認知することとなった。
しかしブリットポップが収束すると、「クール・ブリタニア」も死語へと変わっていく。ブレア政権の人気も低落し始めたころで、この政策の成果に疑問の声が挙がった。しかし「古い」英国のイメージが「伝統とモダンが溶け合う国」という認識に変わり、英国が世界で一番「クール」であった時期があったのもまた事実だ。
ミレニアム前後にはお祭り騒ぎのなかでクラブ・シーンが一気に花開いたが、2001年にニューヨーク出身のバンド、ストロークスが英国でデビューするや否や「ロックの救世主」と称されるほどの人気となり、ロックのリバイバルのきっかけとなった。また、ブリットポップを聞いて育った世代の若手バンドが次々とデビューし、英国ロック・シーンが再び活気を取り戻している。
BPI(英国レコード工業会)が06年に発表したレポートによると、国内のアルバム・セールスにおいて、ブリットポップ期の96年でさえポップがロックに約8パーセントの差をつけて1位であったのに対し、04年にはわずかながらもロックが逆転、そして05年には10.4パーセントもの大差でロックが首位を守った。この勢いに、60年代、80年代に続き、第三次ブリティッシュ・インベージョンが起こる可能性すら噂されている。
Arctic Monkeys アークティック・モンキーズ (2005~)
05年にデモ音源がインターネットで公開され話題を呼び、半年後にはインディー・レーベルと契約。その3カ月後に発表したシングルが全英初登場1位、1週間で4万枚を売り上げるという異例のデビューを飾った。デビュー・アルバム発表前からライブのチケットを完売させるなど、前代未聞だらけのこのバンドは、出身地であるシェフィールド訛りで歌う歌詞に反映された、若者のリアルな生活感が共感を呼ん でいる。
これを聞かなくちゃ、ただのもぐり──そう断言できるほど英国人気質や社会情勢を体現した曲は、それこそ星の数ほどある。そんな中から、英国ロックに惚れこんだ人たちに、「英国らしさ」が詰まった1曲を無理やり選んでもらいました。
スミス京子
本誌コラム 「セレブの部屋」 ライター
「Lazy Sunday」(1968)
by Small Faces(スモール・フェイセズ)
60年代ロックを代表するアルバムのひとつ「オグデンス・ナット・ゴーン・フレイク」(全英1位)からのシングル・カット。ザ・フーが西ロンドンのモッズ・ヒーローなら、メンバー全員がイーストエンド出身のスモール・フェイセズは東ロンドンのそれ。キンクスのように社会的関心の高いバンドではないけど、だからこそ普遍的な英国のユース・カルチャーを体現しているように思う(アメリカに受けなかった理由かな)。曲は、日曜の午後に大音量でレコードをかけていたら、隣人に壁を叩かれてムカつくぜといった他愛ないもの。飲んで踊っての定番「サタデー・ナイト・フィーバー」翌日のことでしょう。サイケデリックなカラッとしたサウンドと、スティーブ・マリオットがコックニー訛でやけくそ気味にがなり立てて歌うのが、乾いたユーモアと若者の苛立ちを表現していて、実に英国ロックの味わい。最近の生真面目なアーティストに見習ってほしいものね。余談だけど、マリオット脱退後はロッド・スチュワートが加入、バンド名もファイセズに。
The Essential Collection / Small Faces
エスペン・クルカグ
フリーランス・ミュージック・フォトグラファー
「Street of Sorrow/ Birmingham Six」
(1988)By The Pogues(ザ・ポーグス)
僕が政治に興味を持つきっかけになったのが、このアイリッシュ・ フォークとパンクをミックスさせたバンド「ザ・ポーグス」。オリジナル・メンバーは皆アイルランド系英国人だ。政治とか国の指導者とかについて何の疑問も持たない家庭で育った僕にとって、彼らの「Street of Sorrows / Birmingham Six」という曲は、強力な目覚まし みたいだった。この曲は2部構成で、前半は北アイルランドでの抗争による恐怖と痛みについて、そして後半は74年に起こった冤罪事件について歌っている。タイトルの「Birmingham Six」というのは、IRA暫定派がバーミンガムで起こしたパブの爆発テロ事件のことで、この時逮捕された6人は無理やり書類にサインさせられ、終身刑を下された。ポーグスは彼らの無実をこの曲で訴えたけど、当時はまだ冤罪が確定されていなかったから、放送協会なんかが放送を禁止した。それでも僕みたいに情報を鵜呑みにしていたリスナーは、「事実を知る」ってことがどれだけ重要か考えさせられたんだ。
If I Should Fall From Grace With God (Remastered & Expanded) / The Pogues