左)戦時中にSOASの日本語特別コースで学んだ生徒たち
右)SOASで日本語を学んだ7人の
ブレッチリー・ガールズ
ロンドン中心部、ブルームズベリー。20世紀初めには作家バージニア・ウルフや経済学者ジョン・メイナード・ケインズら芸術家や学者たちが集ったこの地区に、英国における日本語教育を先導するロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)がある。
昨年、日本研究開始100周年を迎えた同大学は、現在も多くの日本研究者や日本語話者を輩出していることでその名を馳せているが、ここで第二次大戦中に敵国である日本の言語を学んだ若者たちがいたことは、あまり知られていないのではないだろうか。
今回は、ロンドン南東部にあるパブリック・スクール、ダリッジ・カレッジに居を構え、SOAS に通って日本語を習得した若者たち、通称「ダリッジ・ボーイズ」と、同じくSOAS で日本語を短期集中で学んだ後に政府暗号学校ブレッチリー・パークに勤務した「SOASのブレッチリー・ガールズ」を中心に、戦時中の英国における日本語教育と、現在に続く日英交流の萌芽を見ていきたい。
[取材協力]
- バーバラ・ピッツィコーニさん SOAS, Japan and Korea Section, Department of East Asian Languages and Culture Reader in Applied Japanese Linguistics
- Bletchley Park
1996年よりSOASで日本語、日本語教授法、日本語学などを教える。2014年〜17年には Head of the Japan & Korea, China & Inner Asia departmentsも務める。
情報機関の秘密のベールに包まれた
SOASで学んだ
7人のブレッチリー・ガールズ
戦後、日本にかかわる各分野で華々しい活躍を見せたダリッジ・ボーイズら日本語特別コースの男子生徒たち。その一方で、同じ時期、同じ場所で日本語を学びながら、その存在が長年にわたり秘匿された女性たちがいた。彼女たちの活動が世に知られるようになったのは、わずか数年前のことだ。次からはこの秘密のベールに包まれた女性たち7人を中心に、戦時中の情報機関に勤めた女性たちに注目してみたい。
「私の母はブレッチリー・ガールズの一人でした」
2016年2月1日にSOASで行われた日本研究開始100周年記念のイベント、「ダリッジ・ボーイズとその後」の質疑応答の最後、観客席にいた一人の女性が、日本語の辞書を片手に話し始めた。いわく、「私の母親はブレッチリー・パークでこの辞書の編纂をしていたのですよ」。辞書の編者として名前は残されていないものの、第二次大戦中、政府暗号学校ブレッチリー・パークの日本セクションで働いていたという母親の名はアイリーン・クラーク、彼女こそ、ダリッジ・ボーイズと同時期にSOASで日本語を学んだ7人の女性たち、「SOASのブレッチリー・ガールズ」の一人だったのである。
世界各国の暗号を解読する政府暗号学校
ロンドンから列車で約1時間。イングランド南東部バッキンガムシャーにある豪奢な邸宅、ブレッチリー・パークには、第一次大戦後から戦後の1946年まで政府の暗号学校(GC & CS)が置かれていた。第二次大戦時にアラン・チューリングを中心とする数学者らがナチス・ドイツのエニグマ暗号の解読に成功した功績が描かれた、2014年公開のベネディクト・カンバーバッチ主演映画「イミテーション・ゲーム / エニグマと天才数学者の秘密」で世界中にその名が知られるようになったが、エニグマ暗号以外にも世界各国の暗号解読に従事。パーク内には日本セクションも置かれていた。
英国は1920年代から日本の暗号解読に携わっており、上海、香港、シンガポール、そしてブレッチリー・パークで作業が行われていた。その中心人物だったのが、ジョン・ティルトマン。ブレッチリー・パークの軍事セクションの責任者で、暗号解読者として英国にその名を轟かせた人物である。日本海軍のJN-25暗号などの解読に成功していたティルトマンは、1940年代初めに日本軍が破竹の勢いでマレー半島及びシンガポールを支配下に治めたのを受け、SOASに対して日本の暗号解読に必要となる読み書きの力を養う日本語コースを組んでほしいと依頼。しかし平常時で5年、緊急時でも2年はかかると言われ、自分自身でコースをつくることを決意する。
1942年2月、ロンドン郊外のベッドフォードで始まった日本語コースの期間は6カ月。初回は女性1人を含む計23人が学び、その大多数がオックスフォード大学やケンブリッジ大学で古典を学んでいたそうだ。唯一の目的が暗号解読だったため、話すことは教えられず、読み書きにのみ焦点が当てられた同コースで、生徒たちは計1200単語を暗記した後、暗号解読の練習を1カ月、行った。このコースは終戦まで続けられ、1943年にはパーク内でスタッフ向けにも同様のコースが設置されたという。
第二次大戦中に政府暗号学校が置かれたブレッチリー・パーク(1955年撮影)
ブレッチリー・パークの女性たち
ここで、SOASで日本語を学んだ7人の女性たちに話を進める前に、「ブレッチリー・ガールズ」と呼ばれた、ブレッチリー・パークで働いていた女性たち全般について述べておきたい。第二次大戦中、驚くことにパークで働くスタッフの実に75%が女性だった。男性が兵士として戦場に赴き、英国内で人員が不足したこともあり、貴族階級や富裕層の子女「デビュタント」や、大学のフェローやチューター「ドン」が雇用される。しかしその後も需要は増大し、王立婦人海軍(Wrens)や婦人補助空軍(WAAF)、補助地方義勇軍(ATS)の女性たちや、秘書学校の卒業生らが集められることになった。
女性たちは数こそ男性を凌駕していたとはいえ、暗号解読者として後世に名を残した者は数少なく、先述の映画「イミテーション・ゲーム~」でキーラ・ナイトレイが演じたアラン・チューリングの同僚ジョーン・クラークほか、数名である。反復的な業務に就くケースが多かったようだが、エニグマ暗号解読機「ボム」や、暗号解読用のコンピューター(電子計算機)「コロッサス」の操作を行っていたのが主にWrensであったことなどからも分かるように、彼女たちがここブレッチリー・パークで果たした役割は決して小さなものではなかった。
エニグマ暗号解読機「ボム」を操作するWrens
SOASで学んだ「ジャッピー・ワーフ」たち
さて、日本の暗号解読に話を戻そう。1943年9月、イタリアが降伏すると、英国はこれまで以上に日本へ注力するようになり、ブレッチリー・パーク内の日本セクションも拡大。このころ、WAAFは7人の女性たちをSOASへと派遣する。
SOASで日本語を学ぶために集められた7人の女性たち、メアリー・ウィズビー、アイリーン・クラーク、エブリン・カーティス、シシリー・ナイスミス、デニース・ギフォード=ハル、マーガレット・ブラブズ、ペギー・ジャクソンは、いずれもこれまで日本語を学んだことがなかった。SOASに行き着くまでの経緯は様々で、例えばウィズビーは、オックスフォード大学に進学予定だったが、戦時下に国のために何かしたいとWAAFへの道を選択。訓練を受け、ケンブリッジ大学に派遣されて心理学を学んだ後に、幾度かの面接を経て、SOASで日本語を学ぶよう指示を受けたという。
集められた7人の女性たちは、ロンドン中心部ハーレー・ストリート近くにある英空軍の宿舎に寝泊まりし、SOASへ通う生活を送るようになった。14番のダブル・デッカーに乗り、ほかの乗客たちの好奇の目にさらされながら、かなが書かれたカードを使って互いをテストし合いながら学校に通う日々。期間は6カ月で、日本語の日常会話を学ぶことなど皆無。「こんにちは」は知らずとも「戦闘機」という単語は分かるという偏った学習内容だったようだが、それまでほとんどが家を出たことがなかった彼女たちは、合宿のような感覚で仲良く毎日を過ごした。ちなみにSOASで学んだ7人のブレッチリー・ガールズは「ジャッピー・ワーフ(JappyWaaf)」とも呼ばれるが、この呼び名は彼女たち自身の命名だそうだ。
日本語コース修了後は、全員がブレッチリー・パークへ。ウィズビーだけは一足早く、コース開始の約3カ月後に一人学校を去ることとなり、どこに行くのかも知らされぬまま指示通り列車に乗り、到着した先がブレッチリー・パークだった。翌日には日本海軍セクションに配属され、呼出符号の索引作成を行ったという。そして3カ月後には残る6人もやって来て、再び7人が集結。皆が日本の暗号解読に携わることになったが、秘密保持の観点から極端な分業体制で、互いに何をしているのかはもちろんのこと、自分がどんな仕事をしているのかすら、包括的に把握することはできなかったそうだ。分かっていることと言えば、例えばウィズビーが呼出符号の索引作成の次に命じられたのは、日本の陸軍航空部隊の戦力組成を探る作業。また、クラークが日本語の軍事用語をまとめた辞書作りに携わったことなど、いずれも本人またはその家族から明らかにされた断片的な情報のみである。
ブレッチリー・パークに展示されている日本セクションの資料
50年以上の年月を経て情報開示
SOASの日本語教育研究学科(Applied Japanese Linguistics)の准教授(Reader)で、SOASのブレッチリー・ガールズについて研究を行っているバーバラ・ピッツィコーニさんは、ダリッジ・ボーイズを始めとする、SOASの日本語特別コースで学んだ男子学生らとは対照的に、彼女たちの記録は非常に少なく、同校にも残っていないと語る。理由の一つとしては彼女たちの勤務先が情報機関だったことが挙げられる。ブレッチリー・パークに勤務する人々はすべて国家機密法(Official Secrets Act)の下、活動内容を公にすることが禁じられていた。1975年になってようやく自由に話すことが認められるようになったものの、それでも詳細を明かす人は少なかったそうだ。あとはやはり、当時の女性の常として、キャリアを追うよりも家庭に入る人が多かったこともあるだろう。7人の中ではウィズビーが結婚後も情報機関に勤めたが、ほかの6人のその後についてはほとんど知られていない。
戦時中にブレッチリー・パークで活躍した人々の多くは既に亡くなっているが、健在の方々もいる。旧姓メアリー・ウィズビー、結婚後はメアリー・エブリーとなったメアリーさんもそんな一人。90歳を過ぎたメアリーさんに当時のエピソードを聞いたバーバラさんによると、彼女たち7人は非常に仲が良く、終戦後には結婚するなどして離ればなれになったが、年に一度は会って旧交を温めていた。「2人は南アフリカ、また別の2人はスコットランド、そのほかヘレフォードに1人とアイルランドに1人。そしてメアリーさんはロンドンからオックスフォードへと、皆ばらばらだったときにも連絡を取り合い、毎年6月にはどこかで会っていたそうです。それでも50年が経つまでは互いの仕事のことは全く話さなかった。家族にも言えないのであれば、せめて同じ場所で働いていた同僚くらいには話したくなるのではないかと思うのですが、すごいことです。私には想像もできません」。
当時のエピソードを語るメアリー・エブリーさん
メアリーさんはほんの数年前、日本人による取材を受けた。なんとそのときに初めて日本人と会ったという。対日本の諜報活動にかかわっていたことから、日本人からどのように見られるか、不安もあったようだが、初めて見るはずの日本人に違和感がないことに驚いたそうだ。
光が当たり始めた女性たちの活躍
2017年現在、メアリーさんを除く6名がその生涯を閉じている。50年という長い沈黙の年月を経て、メアリーさんがSOASでたった3カ月学んだ日本語とその教育内容の記憶は、既に薄れている。機密を徹底的に守ったという点では理想的なのかもしれないが、彼女たちを含むブレッチリー・ガールズの活躍の大部分が今もなお、秘密のベールに包まれたままというのは残念だと言わざるを得ない。だが、彼女たちに対して2009年に戦時中の功績を称える金と青色のブローチが授与され、数年前にはブレッチリー・ガールズに関する数冊の本が出版。このタイミングで彼女たちの存在に、ほのかではあれ光が当たったのは、幸運だとも考えられるだろう。
現在の日英関係を支える礎となった、ダリッジ・ボーイズを始めとする日本語特別コースの男子生徒たちの華やかな活躍に比べ、SOASのブレッチリー・ガールズの活動は地味で、ささやかなものだったかもしれない。バーバラさんは言う。「ダリッジ・ボーイズが言語だけでなく、文化を学ぶ機会もあったのに比べ、彼女たちは記号としての日本語にさらされただけで、興味が湧くきっかけもなかったのだと思うのです」。コース修了後も、ブレッチリー・パークにおいて完全な分業体制の下で作業していたのだから、日本の言語や文化に知的好奇心が掻き立てられることも少なかっただろう。しかし、戦時中の英国で日本語を学んだ女性たちがいたことは、英国、そして日本の歴史の1ページに刻まれるべき事実なのである。
ブレッチリー・パークにおける
主な日本の暗号解読の軌跡
- 1934年11月
- 外務省使用の暗号機A型、通称「レッド暗号」を解読
- 1939年夏
- ジョン・ティルトマンが海軍使用のD暗号「JN-25」を解読
- 1941年2月
- 外務省使用の暗号機B型、通称「パープル暗号」を解読した米国が、ナチス・
ドイツのエニグマ暗号解読の情報と引き換えに、解読機を英国に供与 - 1943年春
- 海軍武官使用の九七式印字機三型(JNA-20)、通称「コーラル」暗号を、エニグマ・セクションの責任者ヒュー・アレグザンダーを中心としたチームが米国とともに解読
ブレッチリー・パーク内の
日本セクション
ブレッチリー・パークでは1920年代から日本の暗号解読が行われていた。当初は日本海軍セクションがブレッチリー・パーク近くのエルマー・スクールに設置。1942年9月にパーク内へと移り、1943年2月にはハット7に拠点が置かれるようになった。
ヒュー・フォス率いるハット7と、ジョン・ティルトマン率いる軍事セクションで日本の暗号解読作業が進められたが、1943年9月にイタリアが降伏した後は、日本セクションが大幅に拡大。より大きなブロックFへ移動した。ブロックFには多くのセクションが設けられたうえ、更に細分化されていたため、別のセクションで何が行われているのかは全く分からなかったという。
長い廊下が続くブロックFは、ビルマから中国南西部まで717マイル(約1150キロ)にわたって伸びる英国軍の供給路になぞらえて、「ビルマ・ロード」と呼ばれていた。なお、ブレッチリー・パークには現在も複数のハットやブロックが残り、内部が見学できるようになっているが、ハット7、ブロックFはともに取り壊されている。
Bletchley Park
ブレッチリー・パーク
1938年から1946年まで政府暗号学校が置かれたブレッチリー・パーク。長官のオフィスなどが置かれた豪奢な邸宅「マンション」を始め、ナチス・ドイツの暗号機「エニグマ」や、エニグマ暗号を解読する「ボム(Bombe)」のレプリカなどが展示されているミュージアム、アラン・チューリングら暗号解読者らが働いていた「ハット」などを見学できる。
9:30-17:00(10月31日まで。11月1日からは16:00まで)
£17.75(1年有効)
Sherwood Drive, Bletchley, Milton Keynes MK3 6EB
Tel: 01908 640404
Bletchley Park駅
https://bletchleypark.org.uk
[参考文献]
- 「戦中ロンドン日本語学校」(中公新書)大庭 定男著
- 「The Debs of Bletchley Park and Other Stories」Michael Smith著
- The Bletchley Park Trust Reports「Japanese Codes」Sue Jarvis著
- Dulwich Boys and Beyond: 100 Years of Japanese Studies at SOAS (Recording)
- Bletchley Park, Podcast 56: Enter Japan など