第118回 夏目漱石の、まさかのすれ違い
寅七の勤め先の発祥をたどると旧横浜正金銀行に行き着きます。1884年、邦銀で初めてシティのビショップスゲートに支店を開設、横浜港から積み出される生糸や絹を貿易金融により欧州と結びました。それは明治政府の殖産興業の掛け声の下、日本人が元気よく世界に飛び出して行った時代。その際、面白い「すれ違い」もたくさんありました。今号は、1900年10月から1902年12月までロンドンに滞在した夏目漱石のニアミスをご紹介。
当時、横浜正金銀行があったビショップスゲート84番地は、現在再開発中
まずは博物学の巨星、南方熊楠。世界で最も権威ある自然科学雑誌の一つ「ネイチャー」誌に彼の論文が歴代最多の50編も掲載され、熊楠の名が世界に轟きました。天真爛漫な性格から彼の交友関係は広く、特に和歌山県の同郷である中井芳楠(当時、横浜正金銀行ロンドン支配人)は積極的に彼を支援しましたが、定収入のない熊楠は負債が膨らんで帰国を決意。1900年9月にテムズ川の港から出航した日本郵船の阿波丸は、その2週間後、インド洋上で独プロイセン号とすれ違います。
夏目漱石
そのプロイセン号に乗っていたのが文部省派遣留学生の夏目漱石。「閉ざされた独学」と言われる、彼のロンドン生活の始まりです。もし熊楠がロンドンに残り漱石の相談相手になっていたら彼の孤独や苦悩が和らぎ、ロンドンに対する印象も異なっていたことでしょう。ちなみに漱石は文部省からの給付金受領のため、何度も横浜正金銀行を訪れています。中井芳楠の後任、巽孝之丞(たつみこうのじょう)から、ウエスト・ハムステッドの下宿先を世話されたそうです。
南方熊楠
次は喜劇王、チャーリー・チャップリン。1901年3月30日、漱石はロンドンの繁華街ソーホーのヒッポドローム劇場のパントマイム、「シンデレラ」を観劇します。その舞台には当時少年だったチャップリンが端役として出演。34歳の漱石と11歳のチャップリンが舞台の上と下でニアミスしていたようです。もちろん本人たちはお互いのことも、お互いの将来のことも知る由はありません。
ピカデリー・サーカスにあるクライテリオン劇場
最後は川上音二郎と貞奴。1901年6月22日、ピカデリー・サーカスのクライテリオン劇場で掛っていた彼らの公演に誘われますが、漱石はそれを断りました。川上座の公演は大成功し、「オッペケペー節」だけでなく、マダム貞奴の「貞奴旋風」が欧州に吹き荒れます。プッチーニの「蝶々夫人」に大きな影響を与え、ピカソも貞奴のポスターを描きました。ニアミスした漱石と川上ですが、 2人とも日本に帰国後、文学界と演劇界で大活躍します。
ヒッポドローム劇場、今ではカジノがメイン