第93回 お散歩編: 西洋のティー・カップで東洋を味わう
シティ周辺、特にテムズ対岸には波止場や倉庫街、造船所の跡が今もたくさん残っています。今やお洒落なショッピング・モールに変身したヘイズ・ガレリアは19 世紀の高速帆船「クリッパー」のお茶の荷揚げ埠頭として有名でした。鮮度が命のお茶ですから、新茶は高値で取引され、新茶の輸送競争、ティー・クリッパー・レースも盛んに行われました。
ヘイズ・ガレリアはお茶の荷揚げ場。ロンドンの貯蔵庫と呼ばれた
クリッパーの代表例が、グリニッジに保存展示されているカティ・サーク号。通常の帆船より細長く、高速で快走します。給炭地に寄港する必要もなく、中国まで30カ月要する航海が8カ月まで短縮されました。その船首にはカティ・サーク(「短い肌着」の意味)を身にまとい、馬の尻尾を掴んだ魔女がいます。魔女に追われ、乗っていた馬の尾を掴まれた農夫が危機一髪、尾が抜けて逃げることができたというロバート・バーンズの詩がそのモチーフです。
カティ・サーク号の船首像
ところで最初に英国でお茶が販売されたのは1657 年、シティのギャラウェイ・コーヒーハウスと言われます。「Cha」と呼ばれた、薬用の緑茶でした。その後、チャールズ2世と結婚したポルトガルのキャサリン・オブ・ブラガンザが喫茶習慣を宮廷に持ち込みます。当時はお茶を湯呑み茶碗から皿に移して大きな音を立ててすするのが礼儀。やがて貿易の担い手がポルトガルからオランダに変わると茶の輸出港も広東省から福建省に変わります。
ギャラウェイ・コーヒーハウスの跡地
欧州の多くの国で茶を「Tea」と呼ぶのも、お茶を意味する広東語の「チャ」より福建語の「テイ」が広まったためと言われます。輸入茶の種類が豊富になりましたが、緑茶も黒茶も紅茶も製法が違うだけで植物学的にはカメリア・シネンシス、つまり、ツバキ科ツバキ属の常緑樹で椿や山茶花(さざんか)と同じ。最近見つけた、百貨店フォートナム & メイソンの銀の茶こしのヘッドには椿の花が刻まれ、茶花の女王と呼ばれる由縁を思い出させてくれます。
茶こしのヘッドに椿のデザイン
お茶が飲みたくなりますね。西洋のカップにハンドルを初めて付けたのはマイセン窯のヨハン・ベトガーで18世紀初頭のこと。ブルーオニオンの絵柄には豊穣の石榴(ざくろ)、長寿の桃、成長の竹、気品の芍薬(しゃくやく)、永遠のエゾ菊が描かれ、東洋文化が溢れています。昔、日本の喫茶店でバイトしていたころ、カップのハンドルがお客の左手に向くよう置きなさい、茶道と同じくカップを回して飲めるように、と教わりました。でもそれだと、西洋のカップは絵柄の正面が右ハンドル向きにあるため、絵柄を汚れから避ける気遣いの茶道と発想が逆になってしまいますね。
ブルーオニオンには東洋がいっぱい