廣田丈自さん
[ 前編 ] 尺八や民謡、大太鼓といった日本の伝統音楽を、シェイクスピア演劇やオーケストラといった西洋文化と合わせることで新しい音楽を創造する音楽家、廣田丈自さん。幾人ものアーティストたちが「文化の融合」を掲げる現代において、彼はどのようにして第一人者となり得たのか。全2回の前編。
ひろたじょうじ - 北海道小樽市生まれ。京都芸術大学在籍時より、パーカッショニストのツトム・ヤマシタ氏が主宰する「レッド・ブッダ・シアター」の一員としてフランス、英国、米国など世界各地で公演を行う。同シアターのミュージック・ダイレクターを務めた後に独立し、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによる「マクベス」の音楽担当など多くのプロジェクトに参加。大太鼓、小太鼓、尺八、パーカッション、民謡など様々な楽器や音楽様式を駆使するマルチ・ミュージシャンとして、ロンドンを拠点に世界各地で活動している。www.jojihirota.com
自分でやらなきゃ気がすまない
シェイクスピア演劇の本家本元とされる英国の劇団「ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー」の舞台でパーカッションを担当していたかと思えば、ロンドン市内に7万人を集めた「ジャパン祭り」では大トリとして太鼓、尺八、民謡を次々と披露する。そんな正真正銘のマルチ・ミュージシャンである廣田丈自さんの耳には、様々な音色とリズムが記憶されていることだろう。「これだけ多くの楽器を演奏するとなると、さすがに時間が足りないと思いますよ。もう無理だよね。でも全部自分でやらなきゃ気がすまないんですよ」。
直径1メートルを超す巨大な大太鼓を自在に操る
趣味で民謡を習っていた父親の下に生まれた廣田さんは、幼いころから民謡独特の歌唱法に慣れ親しんでいたという。小学校では顧問を務める担任の先生のおかげで鼓笛隊に入隊。中学校、高校でブラス・バンド部に入部したことで、楽器のレパートリーはリコーダー、小太鼓、大太鼓、スネア・ドラム、ティンパニー、シンバルと広がっていった。「幼いころは、『錨を上げて』とかもっぱら米国の軍隊マーチを演奏していた気がするな。当時はああいう音楽がかっこいいときっと無邪気に思っていたんだよね」。
大学進学に向けて自身の進路を決める際に、「やっぱり自分はこれからもずっと音楽をやっていきたい」という気持ちを持っていることに気付いた。そこで音楽大学に入るためにピアノを習い出したのだが、音大への入学を目指す人たちの大多数は、物心がつくかつかないかくらいの幼少時からピアノやヴァイオリンといった楽器を習い始め、しかも猛練習を積んできている。つまり、廣田さんが高校3年になってピアノを習い始めた際には、既にほかの音大進学志望者と10年前後の経験の差ができていたことになるから、その差を埋める作業が難しかっただろうことは想像に難くない。結局、2年間の浪人生活を経ての音大進学となった。
「ちょっと違った夏休み」となるはずが
ところが、やっとの思いで入った京都芸術大学は中退を余儀なくされる。音大の先輩からの紹介を受けて、4年生の夏にプロとしての本格的な活動を始めたからだ。しかも活動の舞台はフランス南東部のアヴィニョン。日本人パーカッショニストの第一人者であるツトム・ヤマシタ氏が、日本の伝統文化を前面に打ち出した総合芸術プロジェクト「レッド・ブッダ・シアター」を同地で開催されるフェスティバルで披露するというプロジェクトに参加した。しかもこの公演は大ヒットし、英国や米国を含む世界ツアーへと発展。とりわけロンドンでは興行記録を作るほどのロングランとなる。「いつもとはちょっと違う夏休み」を過ごすだけのつもりだったのに、結局は大学を中退して2年半に及ぶ海外公演に身を捧げた。
ロンドン・メトロポリタン・オーケストラとの共演
だが世界各地で過ごした「長い夏休み」にも、やがて終わりを告げる日がやってくる。レッド・ブッダ・シアターの一員として海外で過ごした日々は確かに刺激的ではあったが、最低限の生活費だけを受け取りながら、目いっぱい演奏してベッドに倒れ込むだけの毎日をいつまでも続けるわけにはいかなかったからだ。そこでレッド・ブッダ・シアターの活動にはいったん区切りをつけて日本に帰国。すると今度はロンドンで一緒に仕事をしていた英国人ミュージシャンが来日した際に、彼らと音楽活動をともにする機会が頻繁に訪れるようになる。これが再びロンドンへ戻ってくるきっかけとなった。(続く)