「Without Fear and Favour(恐れず、こびず)」―
日経のFT買収
有料コンテンツを武器にしたデジタル戦略の成功例として注目を集める英経済紙「フィナンシャル・タイムズ(FT)」紙が売却されると聞いて驚いたが、買収するのが日経新聞と知って驚愕してしまった。しかも買収金額の1600億円を現金で支払うという。日経はこの1年で3万部以上落としたとはいえ、部数は273万部。電子版の購読者は約43万人。経常利益(連結)190億円超の優良企業でさえ、グローバル化とデジタル化に対応しなければ生き残ることができないということだ。日経のFT買収劇は一見ギャンブルのように見えて、したたかな戦略と計算に基づいている。
従軍慰安婦問題と福島第1原発事故をめぐる報道で前社長が辞任に追い込まれた朝日新聞と、ここぞとばかりに朝日をたたきまくった読売新聞、産経新聞が泥仕合を繰り広げる中で、日経だけが未来に向け、冷静に大胆な手を打ったと言えるだろう。昨年、FTグループの営業利益は2400万ポンド(約45億9000万円)。買収金額はその35倍に達したことから、「気前が良すぎる買収」と揶揄する論評も見られた。しかし、日経の狙いはFTの営業利益拡大より、FTの記事や人材を活用して日経自身のコンテンツと英語での発信力を強化するとともに、FTのデジタル戦略をそっくりそのまま日本国内で実践することにある。
メディア・ビジネスに精通する全国紙勤務の友人はこう解説する。「日経の専売店は読売や朝日に比べると限られています。7割が電子版購読者というFTモデルを日経は見よう見まねで取り入れてきました。買収してしまえば完全にモデルをコピーできます。紙の新聞を配達するより電子版の方がはるかにコストはかかりません。他の全国紙は日経に読者を大量に持っていかれる恐れがあります」。
サーモン・ピンクの独特な紙面、ハイクオリティーな論評、スクープで世界中の読者から支持されるFTは、マーチン・ウルフ氏やギデオン・ラクマン氏、フィリップ・スティーブンス氏ら筆致が冴え渡るコラムニストを擁している。「表現の自由」を貫くためには友人を裏切ることも辞さない英国のジャーナリストから見れば、記者クラブに所属し、上司や当局の顔色をうかがいながら記事を書くと思われている日本の記者は、腹の底から信頼できない。精密機器大手オリンパスが「飛ばし」と呼ばれる手口で巨額損失を粉飾していた事件は、日経ではなく、元日経記者が編集長を務める情報誌「ザ・ファクタ」がスクープした。
今回の買収について、麻生副総理が「日経の経済記事が英訳されてきちんとした形でFTに載ることは日本にとって良いことだ」と話し、甘利経済財政・再生相も「日本の経済メディアが世界的な経済メディアのFTを傘下に収めて、国際社会に日本の経済事情が正確に発信できるのは喜ばしいこと」と評価した。しかし、FTと同じくピアソンの傘下にあり、売りに出された英誌「エコノミスト」は「甘利発言は落ち着かないFTの編集局を刺激しそうだ」と早くも牽制(けんせい)している。
日経首脳がFTの編集方針に口を出そうとしていると微塵(みじん)でも疑われたら、一気に世界中の読者と、127年の伝統に裏打ちされた国際的な影響を失うことになる。日経の喜多恒雄会長は記者会見で「FTの社是である『Without Fear and Without Favour』は『恐れず、こびず』を意味します。(略)日経の社是である『中正公平』とまさに共通します」と強調した。FTは社説で「我々は日経が編集権の独立を約束してくれたことを歓迎する」と応えた。
インターネット小売り大手アマゾンの創業者ジェフ・ベゾス氏が個人資産で米紙「ワシントン・ポスト」を買収し、米経済紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」も米ニューズ・コーポレーション傘下に加えられた。ピアソンの最高経営責任者(CEO)だったジャーナリスト出身のマージョリー・スカルディーノ氏は2003年当時、「自分の目の黒いうちはFTを売却させない」と語っていたが、グローバル化とデジタル化の波は大きなうねりとなって世界規模でメディアの再編を推し進めている。
健全経営があって初めて健全な報道が成り立つ。時代が変わっても、絶対に変わってはならない精神がある。それは「恐れず、こびず」に事実を伝えるということだ。
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