(Text : Masatoshi Nagano) 1932年1月24日、東京都生まれ。鉄道省に勤める父親を含む家族の下で育つ。16歳でキリスト教徒に。日本聖書学院を中退後、通訳の仕事に携わり、21歳で米シカゴのホイートン大学に留学。同大在学中に、渡米前に日本で知り合った女性と結婚し、2人の子供をもうける。同大学及び大学院を卒業後、60年に渡英し、エディンバラ大学神学部博士課程へ進学。その後、在英日本人を対象とするキリスト教団体の責任者としての仕事を行うため、ロンドンに。同時に通訳者としての仕事を本格的に始め、日英の貿易摩擦交渉における通訳などを務める。
渡英される前、現在ほど英語が社会に氾濫(はんらん)していなかった時代の日本で、どのように英語を勉強されたのですか。
戦争中、福島県の中村というところに疎開していました。当時の日本では敵性語である英語を話したり教えたりすることが禁じられていた、という話をよく聞きますが、私が通った学校では、英語をきちんと教えていたのです。以来、英語の勉強が好きになって。英和と和英の小さい字引をズボンのポケットの中に入れて時間があるときにペラペラとめくったり、特定の日本人の友達とは英語で会話をしたり、といったことをしながら学生時代を過ごしました。
また、英語で話が聞けるという理由で、東京で開かれるキリスト教関係の集まりにもよく出掛けました。特に私の場合は、祖母がキリスト教徒で、父親も日曜学校に通っており、さらにはキリスト教系である立教大学に通う従兄が東京の自宅に下宿するなど、キリスト教に親しみを持ちやすい環境で生まれ育ったものですから。そのうち、現在は廃校になった日本聖書学院という学校に通うように。先生は半分以上が宣教師、授業も英語という環境で寮生活を1年間続けました。
海外に渡られたきっかけは何ですか。
父が交通事故に遭い、私が働きに出なければいけなくなったので、日本聖書学院を中途退学しました。その後しばらくは宣教師の通訳の仕事などをしながら過ごしたのですが、やはり学校に行きたいと希望を伝えると、当時お世話になっていた宣教師の方が、米シカゴ郊外のホイートン大学という、神学では名の通った学校への進学を勧めてくれたのです。
当初は船で行く予定でした。でも渡航する1953年、ちょうど東京で世界伝道者会議というものが行われて、その出席者を運ぶチャーター機が日本に来ていたのです。帰りの便に席があるからということで、そのチャーター機に乗って行くことになりました。羽田から飛んで、給油のために三沢基地とアリューシャン列島のシェミア島に立ち寄って、カナダのバンクーバーに到着。そこから、知り合いの車に乗せてもらって。交代で運転しながら、シカゴまで4日ぐらい掛けて行きました。
エディンバラでの展示会で紹介された日本家屋にて
隣に立っているのは、英国のサッチャー首相(当時)
1カ月を40ポンドで生活する時代
その後、どうして英国に来ることになったのですか。
米国では4年間大学、3年間大学院に通って、修士号を取りました。その後、私がとりわけ関心を持っていたバルト神学の研究で実績のあるエディンバラ大学の神学部に通うことになったのです。
今から50年程前の話です。その頃には私には妻との間に子供がおり、家族4人でのホテル住まいを始めました。エディンバラ大学の学費が、1年で30ポンド。家族4人が何とか住める2 部屋の家賃が、週3ポンド10シリング。ちなみに当時、1ポンドは1080円でした。1カ月を40ポンドぐらいで生活するという時代です。今から思うと、信じられないくらい物価が安いですね。当時はもちろん安いとは感じませんでしたが。
エディンバラの街中は家賃が高く、やがて郊外のマッセルバラという海岸に近い町に越しました。ホテルにはガスのストーブがあるけれど、コインを入れないと起動しない。見付けたアパートには、セントラル・ヒーティングがない。洗濯機がない。冷蔵庫もない。こりゃ大変なところに来たなと思いましたよ。
エディンバラに移ったばかりの頃は、苦労されたのですね。
苦労というよりも、ぜいたくはしなかったという意識です。私たちには、日本での戦時中における食糧難の経験があるでしょう。人間というのは、生活水準が横ばい、もしくはほんの少しでも上がっているときは、まあまあの生活と思えるんじゃないかな。苦労っていうのは、そうした水準が下がるときに感じるものなのではないでしょうか。
ロンドンの日本人墓地で牧師として記念式を行う園田さん
子供を育てた、というよりも、育っちゃった
海外での子育ては苦労されなかったのですか。
エディンバラに着いたとき、長男は5歳、次男は2 歳でした。さすがに順応性が高くて、すぐにスコットランド訛りの英語を話すようになりましたね。もちろん、現地の学校に通いました。「現地校」と「日本人校」という区分けすら、当時は存在しなかったと思います。「現地校」なんて概念は、英国における日本人の人口が一定数に達して日本人校ができてからのことでしょう。
博士課程では、授業に出る必要はほとんどなく、論文を書くのが日課です。学校の図書館に行き、上部にすすが溜まっている本を取り出して、家に持って帰って資料を読んだり、論文を書いたりしていました。研究活動をしながら子供を育てた、というよりも、育っちゃったというのが実感です。
ロンドンで生活を始めたのはいつ頃ですか。
ロンドンには、戦前から「ジャパニーズ・クリスチャン・ユニオン」というグループがありました。ただ、日本語で礼拝を行える牧師がなかなかいないというのが悩みの種となっていたのです。だから私にお呼びが掛かったという形かな。論文を終わらせずに、ロンドンで働くことにしました。主な仕事は、教会での説教と家庭集会への出席です。誰かのお宅に集まって聖書を一緒に読んだりする集会に、よく牧師として顔を出していました。
今ほどロンドンに日本人がいない時代です。当時は、在英日本人の名前を記したガリ版刷りの名簿を日本大使館が発行していましてね。正月になると、その名簿に登録されている方々と一緒に大使館の公邸に招待されて、お節料理をごちそうになったりしていました。今は日本人の数が多すぎて、とてもじゃないけどそんなことできないでしょう。
通訳の仕事はどのようにして始められたのですか。
牧師としては、給与といってもわずかな額しかもらえません。ですから、何かアルバイトをする必要がありました。当時はちょうど、日英の貿易摩擦 *が起きていた時代です。最初に問題となったのは、皮肉なことに、摩擦をなくすために開発されたボール・ベアリングに関する貿易摩擦だったんですよ。それからオーディオ機器、自動車と貿易摩擦の火種が次から次へ移っていって。そうした交渉が頻繁に行われるために、通訳の仕事への需要は常にありましたね。
教会とは全く関係のない、別の仕事をしたいと思っていたときでもありました。牧師の仕事というのは、ある意味で、神と人という縦軸のコミュニケーションです。しかし、キリスト教を象徴する十字架には、横軸もある。横と横を結ぶ、つまり人と人、会社と会社、国と国の仲直りといった作業に携わりたかったのです。横軸がないと、現実的な世界をきちんと理解できませんよね。「神の愛」を説明するためには、横軸、つまり社会的な意味における愛が何であるかを理解していないといけません。幸いなことに、日本で多少通訳の仕事をした経験が私にはありましたから、この仕事に本腰を入れて取り組むことにしました。
ロンドンでは自分のペースで生きられる
貿易摩擦の会議の雰囲気はどのようなものでしたか。
私は英国の在住者でしたので、交渉の席では英国側の通訳として雇われることが多かったです。ただ日本側が通訳を用意できないときは、日英の両方の通訳を兼任するという状況もありました。交渉内容が漏れることを避けるために、この種の会議では基本的に事前の打ち合わせは行いません。ですから、まあ大変でした。
実際のところ、交渉のためにわざわざ日本から渡英するような方は、通訳なしでもある程度は英語を理解できます。ただ通訳を挟むことで同じ内容を2 度聞く、つまり考えをまとめる上での時間稼ぎをすることができるわけです。英語が分かる人に向かって通訳するという、少し奇妙な側面を持つ仕事でした。
なぜロンドンに永住しようと思ったのですか。
貿易摩擦の会議は色々な場所で行われます。例えば、今年ロンドンで開催したら、来年は日本。その次は日本と英国の中間ということで、メキシコになったりする。そんな風に世界各国を飛び回るような仕事を続けるに当たって、ロンドンは移動するのに非常に便利な場所なのです。
また英国ですと、年を取ってもくつろげるでしょう。日本に帰ると、親戚(しんせき)付き合いとか面倒くさいですよね。日本に帰省する度に、家内と「早く英国に戻ろう」とよく愚痴ったものです。英国にいれば、好きなことを考えて、好きなことを言える。言い換えれば、自分のペースで生きられる気がするのです。年を重ねてくると、医療費が無料というのも安心ですしね。
健康を保つ秘訣を教えて下さい。
あえて言うとすれば、筋肉って使わないと弱くなってしまうでしょう。体は使わないと駄目です。例えば、私は白内障の手術をしていて、目の調子がよくありません。だから目を大事にする、という考え方が一つにある。そのとき、私は「やがて見えなくなるかもしれない。だから、今見られるものは全部見る」という考え方をするのです。今やれることはどしどしやる。コンピューターの操作も色々と調べながらできるようになりましたし、周囲を不安にさせながらも、高枝の伐採なども自分でやっています。やれることをできるうちにやる、というのが丈夫でいられるための秘訣(ひけつ)と言えるのかも知れません。
海外生活を送る日本人に何かアドバイスをいただけますか。
外国で生活を送ると、最初は何をするにしても難儀だなと感じるものです。しかし、しばらくたつと、海外生活もそれほど捨てたものじゃないな、とその楽しみ方が分かってきます。ところが、楽しみ方が分かってきたなと思った途端に、またけしからんと思う出来事に遭遇する。そんな具合に、まさにらせん状態で毎日が進んでいくのが海外生活だと思うのです。そうやってぐるぐると回っているうちに、住む国の本当の良さが分かってくるのではないでしょうか。
* 1960~80年にかけて、日本の経済は高度経済成長を遂げた。この期間に、円安状態のままで日本の高品質の商品が米国や欧州に流れ込んだために、日本は米英両国を始めとする当時の先進国と貿易摩擦を起こしていた。