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Fri, 04 October 2024

フォース湾にかかる鉄道橋
渡邉嘉一スコットランド紙幣の日本人 渡邊嘉一

スコットランド銀行が発行している20ポンド紙幣には、
スコットランドが誇る「フォース鉄道橋」とともに、
その建設に携わった3人の技師の姿が描かれている。
その中央にいる人物は、渡邊嘉一という名の日本人技師。
日本とスコットランドの懸け橋となった渡邊嘉一の、
知られざる逸話を紹介する。(清水 健)

人間模型と20ポンド札

渡邊嘉一の生涯

1858年(安政5年)2月8日、長野上伊那郡朝日村字平出で、宇治橋瀬八の次男として生まれた。1882年に海軍機関総督横須賀造船所長の渡邊忻三の養子となり、1914年に渡邊家の家督を相続した。1876年工部大学校(現在の東京大学工学部)予備校入学、工部大学校5期生として土木科に学び、1883年に首席で卒業、ただちに工部省に技師として雇われ鉄道局に勤務することになる。

しかし、翌1884年にこれを辞して英国に渡航。グラスゴー大学に入学し、土木工学と理学の学位を取得して1886年4月に卒業。同年5月にファウラー・ベイカー工務所の技師見習い生となり、続いて技師に昇格している。その後、フォース・ブリッジ鉄道株式会社のフォース鉄道橋建設工事監督係となる。工事監督のかたわら、同橋前後の鉄道線路約20キロの実地測量とその設計主務も担当している。

嘉一は、業半ばで1888年に日本に帰国し、日本土木会社の技術部長となる。その後、参宮鉄道、関西瓦斯、東京石川島造船所、京王電気鉄道会社などの社長を務めた。北越鉄道技師長時代に、石油の残滓を機関車の燃料に応用して、燃料を節約する燃焼器を発明し、特許を取得している。1899年には、工学博士の学位を授けられた。

さらには、土木学会設立に参画。帝国鉄道協会会長なども歴任して、学会、産業界に幅広く活躍したが、1932年(昭和7年)12月4日、胃癌で帰らぬ人となった。

朝比奈隆氏との関係

日本が誇る名指揮者、朝比奈隆。ブルックナー解釈の第一人者として知られ、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督としてだけでなく、シカゴ交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などでの客演を通して指揮棒を振り続けた彼は、養子に出されて朝比奈姓となったが、渡邊嘉一の息子である。

1. フォース鉄道橋と日本人技師

フォースブリッジ地図スコットランドの首都、エディンバラから西へ14キロ。フォース湾と呼ばれる入り江に、「鋼の恐竜」とも形容される巨大なフォース鉄道橋が架かっている。19世紀末に大英帝国の技術を結集して建設されたこの鉄道橋は、ユネスコの世界遺産の候補にも挙げられており、英国の1ポンド硬貨、そしてスコットランド銀行が2007年から発行している20ポンド紙幣にもその威容が描かれている。

その20ポンド紙幣の右上に、この橋の構造を説明するために3人の技師たちが腰掛けた模型の写真がある。王立科学研究所で実演されたもので、両側には2人の英国人技師。そして真ん中にいるのは、渡邊嘉一という名の日本人である。なぜこの日本人技師がスコットランドの紙幣に載ることになったのであろうか。

2. テイ橋の悲劇

19世紀後半の英国では、既に鉄道網が全国へと伸びていたが、エディンバラからスコットランド東岸を北上する鉄道の建設は大きな障害によって阻まれていた。幅が約1キロあるテイ湾とフォース湾が深く切り込んでいるために、線路をつなぐことが困難だったからである。

この問題を解決しようと、東岸路線の鉄道会社は両湾に架橋することを決めた。そしてテイ湾とフォース湾をわたる2つの鉄道橋の建設を、それまでにいくつもの橋の設計を手掛けてきた鉄道技師トマス・バウチが担うことになったのである。

先に建設されたテイ橋は、錬鉄(れんてつ)製の骨組みを三角形に組み合わせて接合部に柔軟性を持たせた格子トラス桁を橋脚に乗せたもので、1878年に開通。当時、世界一の長さを誇った橋を完成させたバウチは叙勲(じょくん)され、続いてフォース湾に吊橋を架ける設計図を準備していた。

ところが完成から1年後にテイ橋が崩落し、運悪く通過中だった汽車が巻き込まれるという大惨事が起きたのである。横からの強風に対する耐荷力が不足していたためで、この事故の責任を問われたバウチは、既に設計の終わっていたフォース鉄道橋の建設計画から降ろされ、失意のうちに10カ月後に他界した。

3. 2人の技術者による新案

トマス・バウチに代わってフォース鉄道橋の設計を担当することになったのが、鉄道技師のジョン・ファウラーとベンジャミン・ベイカーである。ロンドンのメトロポリタン鉄道会社の技師として地下鉄の建設に携ったことのあるファウラーは、テムズ河を渡るピムリコ鉄道橋の設計を担当したことがあった。またファウラーの助手から工務所の共同経営者となったベイカーは、ビクトリア駅の建設やグロヴナー鉄道橋の設計に携わっている。その2人が共同で、フォース鉄道橋の再設計を行うことになった。

バウチの設計では当初、この橋は吊橋となる予定であった。しかしテイ橋崩落の原因となった強風に弱いとの理由で、この案は却下。代わってファウラーとベイカーが採用したのが、カンチレバー式橋である(右下図)。さらにこの頃より圧延鋼の大量生産が始まったことから、テイ橋の桁で使われていた錬鉄の倍の引張強度を持つ鋼板を使うことで、橋の構造強度を飛躍的に高めることが可能となった。

4. フォース鉄道橋の建設

1882年にいよいよ工事が始まった。まずは、フォース湾の両岸と中央の岩礁に高さ105メートルの3基の鋼塔を築く。そして、これら3つの鋼塔からそれぞれ長さ207メートルの腕を差し伸ばした。両端は、両岸の陸地上に設けた橋脚の上に置くことができるが、両岸と岩礁の間隔は521メートルあり、海上では互いの腕が届かない。この残された約100メートルの空間にカンチレバー構造を用い、両側から伸びた突桁の間に支間107メートルのトラス構造の橋桁を吊り架けるのである。

橋の建設には5万4000トンの鋼材、800万個のリベット(鋲)が使われ、工事には5000余人が関わり、総工費275万ポンドが投じられた大事業であった。労働者の平均賃金が週1ポンドの時代である。こうして8年もの歳月をかけたフォース鉄道橋の工事は、1890年3月4日の開通式で時の皇太子(のちのエドワード7世)が最後のリベットを打ったとき、ついに完成に至った。

フォース鉄道橋の完成によって、スコットランド東岸はエディンバラからアバディーンまで1本の鉄道で結ばれた。翌1891年のセント・アンドリューズで開かれた全英オープンは、出場者がそれまでの倍の82名に増え、競技方式も翌年から従来の36ホールから72ホールに改められた。またギャラリーが急増したおかげで入場料が徴収されるようになり、市の財政が豊かになったという。フォース鉄道橋は交通ばかりでなくゴルフの発展にも寄与したので、「ゴルフの懸橋(バイアダクト)」と呼ばれるようになった。

5. 人間模型の写真撮影

フォース鉄道橋がまだ建設中であった1887年、王立科学研究所において、人間模型を使ってこの橋の構造であるカンチレバーの原理が説明された。椅子に腰掛けた2人が両腕を伸ばし、握った棒を張り出して桁をつくる。両端の支点はブロックの重りで押さえられ、中央径間の吊桁に相当するところに人間の荷重を載せる。これでこの構造に十分耐荷力があることが示された。

この人間模型の中央に載ったのが、日本人技師の渡邊嘉一であった。1886年にグラスゴー大学を卒業してファウラーとベイカーの工務所に入り、フォース鉄道橋の建設工事監督係を務めた。スコットランド人が教授陣の半数を占める工部大学校(東京大学工学部の前身)で学んだ彼にとって、スコットランド訛りの英語は慣れたもので、東洋人という偏見を越えて労働者をまとめる人徳と才能があったからこその抜擢であった。そして、模型の要に当たるこの栄えある座が日本人技師に与えられたのは、カンチレバーの起源が東洋にあり、東洋の恩義を誰もが思い出すようにという、設計者であるファウラーとベイカーの粋な計らいによるものであった。

王立科学研究所で写真が撮られてから120年後、スコットランド銀行が新しい紙幣を発行した。20ポンド紙幣の図案に選ばれたのは、スコットランドが世界に誇るフォース鉄道橋、そしてフォース鉄道橋を語るときに欠かせない、「Human Bridge」と呼ばれる人間模型の写真であった。

設計者であるファウラーとベイカーはイングランド人であることから、スコットランドの人々はグラスゴー大学の卒業生である日本人技師に親しみを覚えている。その功績の大きさにもかかわらず、祖国ではあまり知られていない渡邊嘉一であるが、スコットランドの地では、日本との懸け橋「Human Bridge」として今も活躍し続けているのである。

※渡邊嘉一については、大東文化大学講師の三浦基弘氏に資料を提供していただきました。

カンチレバー構造とは

カンチレバー構造カンチレバー構造は、片持梁の原理を応用している。片持梁は両岸に支えとなる刎木(はねぎ)を埋め込んだり、大石で押さえたりして固定し、突き出した先端を支えとしてこの上に梁を渡すというものである。単純桁では渡せない渓谷でも、両岸から片持梁を突出させ、真中に別の桁を載せると、橋脚がなくても両岸を結ぶ橋桁を渡すことができる。

片持梁を使った突桁橋は東洋で古くから利用され、チベットのワンジポールには、1620年に架けられた支間34メートルの橋が20世紀初めまで300年近く存在していたという記録がある。日本では山梨県にある「猿橋」が突桁橋で、推古天皇の時代に百済の渡来人が架橋したと伝えられている。

カンチレバー構造を応用した初の近代建築は、1887年にドイツのマイン河に架けた鉄橋で、設計者はハインリッヒ・ゲルバー。日本ではこの技師の名に因んでゲルバー梁と呼ばれる単純梁と片持梁の組合せによって、同じ太さの桁で支間を20~30%長くすることが可能になった。

渡邉嘉一だけではない両国の「懸け橋」
スコットランド人と日本人の技術交流

かつて近代化を急ぐ明治日本の志士たちは、科学技術を学ぶために西洋に渡り、
その多くがスコットランドへと向かった。一方、スコットランドからも技術者たちが、
「お雇い外国人」として招かれて日本に赴いた。科学技術立国となった今日の日本の礎は、
この明治時代のスコットランドと日本の交流によって築かれたのである。
フォース鉄道橋の建設に携わった渡邊嘉一のように、技術交流を通じてスコットランドと
日本の懸け橋となった技術者たちを紹介する。

山尾 庸三日本近代工学の祖
山尾 庸三 やまお・ようぞう
(1837〜1917年)

長州藩士だった山尾は、1863年(文久3年)に伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助とともに英国に密航。グラスゴーの造船所で働きながら、アンダーソン・カレッジ(現在のストラスクライド大学)で工学を学ぶ。1868年に帰国し、工学卿や法制局の初代長官などに就いた。1871年に東京大学工学部の前身となる工学寮を創設、これが1877年に工部大学校となり、渡邊嘉一を始めとする日本の礎を築き上げる技術者たちを輩出した。さらに日本工学会の初代会長として亡くなるまで工学教育に携わったほか、盲唖者の教育に尽力し、1880年に楽善会訓盲院を設立している。映画「長州ファイブ」では、俳優の松田龍平が山尾を演じている。

ヘンリー・ダイアー工部大学校の初代教頭
ヘンリー・ダイアー
(1848〜1918年)

ノース・ラナークシャー州ボズウェル生まれで労働者階級出身のダイアーは、鉄工所で働きながらアンダーソン・カレッジの夜学に通った後、奨学金を得てグラスゴー大学に進み工学を学んだ。近代工学の父と称される恩師ランキン教授の推薦で、24歳の若さで工学寮の初代都検(教頭)として来日、これを迎えた工部省の山尾庸三はアンダーソン・カレッジの同窓であった。1873~1882年まで(1877年に工部大学校に改称)同校の都検を務め、日本の工学教育の確立と発展に貢献した。帰国後はアンダーソン・カレッジを工業大学として発展させることに尽力したほか、日本を「東洋の英国」と位置づけ、日英関係に貢献した。

志田 林三郎電気工学の先駆者
志田 林三郎 しだ・りんざぶろう
(1855〜92年)

佐賀藩出身の志田は、1872年(明治5年)に工学寮に入学、工部大学校1期生としてウィリアム・エアトンの下で電気工学の勉強研究に励んだ。1879年に電信科を首席で卒業して日本初の工学士に。翌1880年にグラスゴー大学に留学して物理学と数学を学んだ。1883年に帰国すると日本人で初めて工部大学校の自然哲学教授になる一方、工部省電信局で電気工学の普及・発展のために尽力。イタリアの無線研究家マルコーニが世界で初めて開発に成功する9年前に、導電式無線通信実験を行うなど電気工学の将来性を的確に予測していた。1888年には日本人初の工学博士となったが、1892年に36歳の若さで亡くなった。

リチャード・ブラントン日本の灯台の建設者
リチャード・ブラントン
(1841〜1901年)

アバディーンシャー州出身のブラントンは鉄道技師として働いていたが、英国商務省から依頼されたスティーヴンソン社に任じられて、灯台技師として1868年(明治元年)にお雇い外国人の第1号として来日した。工学技術に熟練したブラントンだが、灯台建設の経験がなかったため、スコットランドの灯台の建設・保守管理を担っていたスティーヴンソン兄弟の指導の下で、灯台技師として必要なすべての技術と業務を短期間にて実地で体得した。1876年に帰国するまでの7年半の間に26基の灯台を設計・建設したほか、日本初の電信を架設、横浜居留地に舗装道路を整備するなどしている。

田中館 愛橘 日本物理学の父
田中館 愛橘 たなかだて・あいきつ
(1856〜1952年)

南部藩出身の田中館は、藩校で学んだ後に慶応義塾、東京開成学校を経て、東京大学理学部に入学した。1882年(明治15年)に物理学科を一期生として卒業すると準助教授に、翌年には助教授に任ぜられる。1888年にグラスゴー大学に留学し、英国随一の物理学者ケルビン卿の邸宅に下宿して研究を続けた。1891年に帰国すると帝国大学教授に任ぜられ、同年に起きた濃尾地震の研究を始めとする地球物理学の基礎を築き、「地震学の父」と呼ばれた。さらに東大航空研究所を設立して日本の航空技術を発展させたほか、1885年には日本式ローマ字を考案している。1952年(昭和27年)に95歳で亡くなるまで、明治・大正・昭和を通して日本の物理学者の育成に尽力した。

ウィリアム・バートン博学多才な技術者
ウィリアム・バートン
(1856〜99年)

エディンバラ出身のバートンは工業専門学校で学び、製鉄所の水力・機械技師として見習い修業した後、ロンドンで水道技師として働いていた。土木工学の経験を買われて1887年に衛生工学教授として帝国大学工学部に招かれたバートンは、日本と台湾の上水道整備に携わった。1890年に完成した日本初の高層建築である、「浅草十二階」の通称で知られる「凌雲閣」の設計も手掛けている。さらにバートンは写真術にも造詣が深く、英国で刊行された、写真術に関する著作は長年再版を重ねた。鉱山学教授のジョン・ミルンとともに日本写真会の設立にも貢献し、日本の写真を数多く撮っている。ちなみにシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルは少年時代からの親友で、その作品における日本についての記述には、バートンからの情報が反映されている。

意外なつながり 
グラスゴー大学と東京大学工学部

富国強兵を目指す明治日本は、産業革命の発祥地である大英帝国に才英たちを送り込んだ。
彼らが留学先に選んだのは、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンの大学ではなく、
グラスゴー大学であった。なぜこのスコットランドの大学が選ばれたのか。
山尾庸三によって創設され、渡邊嘉一を始めとする優れた技術者を輩出した工部大学校
── 近代日本を築き上げてきた現在の東京大学工学部は、
グラスゴー大学の伝統を受け継いでいるのである。

グラスゴー大学

グラスゴー大学
1451年に神学の大学として創立。英国内にある大学としては4番目に古い歴史を誇る。これまでに6名のノーベル賞受賞者を輩出してきた名門校として知られ、とりわけ工学などいわゆる実学の分野に秀でた人材を数多く送り出し、英国の産業革命の原動力となった。

東京大学工学部

東京大学工学部
1871年に当時の工部省の工学寮として設立。その後、工部大学校、帝国大学工科大学と名称を変えて現在に至る。特に工部大学校時代には、フォース鉄道橋の建設に携わった渡邊嘉一に代表される卒業生たちが、日本の近代化を担った。

グラスゴーへ向かった長州藩士

スコットランドと日本とのつながりは、幕末時代にさかのぼる。1863年(文久3年)、後に「長州ファイブ」として描かれる若き長州藩士5人が、海軍強化のための洋行計画を立てて密出国。彼らは、徳川幕府を倒そうとする薩摩・長州藩を支援していたジャーディン・マセソン商会の周旋で、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレクサンダー・ウィリアムソン教授の指導を受けた。そこから山尾庸三は1人でスコットランドのグラスゴーへと向かい、造船所の職工として働くかたわら、アンダーソン・カレッジの夜学で学んだ。夜学で山尾と同窓だったヘンリー・ダイアーはグラスゴー大学に進み、のちに来日して山尾の創設した工学寮の初代都検(教頭)を務めている。

産業革命を支えた実学教育

ジェームズ・ワット19世紀のスコットランドは、教育制度において、イングランドをはるかに凌駕していた。イングランドにオックスフォードとケンブリッジの2大学しかない時代、スコットランドには既に1413年創立のセント・アンドリューズを始め、グラスゴー、アバディーン、エディンバラの4大学があった。1860年代において、高等教育を受ける人口がイングランドでは1300人に1人のところ、スコットランドでは140人に1人と、10倍近かった。特に1451年創立の名門グラスゴー大学は、学生の5人に1人が労働者階級出身で、貧しい農家の息子が大学教授になるなど、社会的流動性の低いイングランドでは考えられないような立身出世があった。またスコットランドでは実学教育が重んじられていたために、経済学者のアダム・スミスや技術者のジェームズ・ワットを輩出したグラスゴー大学は、まさに産業革命の原動力となっていたのである。

近代化を目指す日本の手本に

明治維新によって封建制が崩れ、殖産興業による近代化を急ぐ日本が、社会的流動性が高く実学教育を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れ、高等教育機関の創設でグラスゴー大学を手本としたのは正解だった。グラスゴーで学んだ山尾の体験を原案とし、ダイアーの構想した教育課程を受け入れ、技術者養成を目指す工学寮が開校されたのである。ジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンの従兄でグラスゴー大学の初代工学部教授であったルイス・ゴードンの助言もあり、スコットランドからは多くの技術者たちが、「お雇い外国人」として日本人の指導にやって来ている。

工部大学校の卒業生の多くが、グラスゴー大学を始めとするスコットランドに留学し、1914年に第一次大戦が勃発するまで、グラスゴーのダイアー邸ではいつも日本人が歓待されていた。日本人の技術者、科学者が多く集まるグラスゴーには、1890年から1941年まで名誉日本領事がいたほどである。

夏目漱石の意外な足跡

夏目漱石スコットランドと日本のつながりの深さを示すエピソードがもう一つある。福沢諭吉の三男・福沢三八は1900年に慶應義塾大学を中退し、グラスゴー大学に留学した。その福沢三八が入学試験で、語学科目として独・仏語ではなく、日本語の受験を希望。すると、大学評議会はアンダーソン・カレッジ理事のヘンリー・ダイアーに意見を求め、日本語を入試選択科目として認めたのである。試験官を依頼された在ロンドン日本総領事は留学中だった夏目漱石を推薦、漱石はグラスゴー大学「教授」として試験委員を務めた。漱石には4ギニーが支払われている。

 

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