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Wed, 11 December 2019

日本を愛した15人の英国人たち

1858年に日英修好通商条約が締結され、日英間に初めて正式な外交関係が結ばれてから今年で150周年。この記念すべき年を祝うために、日本では「UK-Japan 2008」と題された催しが企画され、2008年を通じて両国間の交流がこれまで以上に活発に行われることが期待されている。そこで本特集では、これまで日英交流に多大な貢献を果たしてきた親日家の英国人15人を紹介する。(本誌編集部: 長野雅俊)

日英修好通商条約
1858年に日英間で締結された条約。米国のマシュー・ぺリー東インド艦隊長官率いる黒船の到来によって開国した、幕末の混乱期にある日本で締結された。この条約によって函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が決まったが、一方で日本は関税自主権を行使できず、治外法権を認めさせられるといった内容であったために、現在では不平等条約であったと見る向きが強い。同条約によって日英間での正式な外交関係が開始されたと見なされており、150周年となる今年は日本で「UK-JAPAN 2008」と題された催しが1年を通じて行われる。
UK-JAPAN 2008 www.ukjapan2008.jp
 日本に美しき言葉を残した英国人

まだ飛行機やテレビ、インターネットなどといった科学技術が発達していなかった時代。当時日本を訪れた英国人たちは、遠く海を隔てた未知の国の様子を自国の人々に対してやや興奮気味に、または分かりやすく噛み砕くように比喩の形で知らせ、またある者は日本を深く愛するがゆえに日本人に対しての箴言(しんげん)を残した。

ラザフォード・オールコック「日本人の尊敬を得るためには」

ラザフォード・オールコック Rutherford Alcock

初代駐日英国総領事   1809~1897年
ロンドン出身

若くして医師としての実力を買われ軍医としてスペイン、ポルトガルなどに赴任するが、リューマチを患い医師として働くことが難しくなったために外交官へと転身。中国(当時の清国)において上海、広州の領事として勤務した経歴を買われて日英修好通商条約の締結後に初代駐日英国総領事として日本に赴任した。赴任中は当時日本を席巻していた「尊王攘夷」という外国勢力への反発に対して心労を重ねていたとされ、やがて長期休暇に入る。この休暇中に「大君の都」という本を著し、その中で「日本の政府と人民の尊敬を得るためには、何ら武力を示す必要はないのだ」と書き残した。富士山に登った初めての外国人とも伝えられている。

イザベラ・バード山形県を「東洋のアルカディア」と評した

イザベラ・バード Isabella Bird

旅行家   1831~1904年
ヨークシャー出身

幼少時から病弱だったために、23歳の時に療養のために米国の親戚を訪れる。その時の様子をまとめた本 「The Englishwoman in America」を出版した後は旅行作家としての地位を築きやがて中国、ベトナム、シンガポール、そして日本と東アジアを訪れるようになった。日本では1878年に東京、日光、新潟、そして北海道といった日本各地を訪問。その中でも特に山形県置賜地方の赤湯温泉での湯治風景に感銘を受け、同地の風景をギリシャ南部ペロポネソス半島中央部の丘陵地帯になぞらえて「東洋のアルカディア」と評した。後に神戸や京都、大阪、伊勢といった西日本も訪れ、それらの様子は「Unbeaten Tracks in Japan」と題された紀行文として残っている。

ハリー・S・パークス「人間の仕業ではない」と感嘆の声を上げた

ハリー・S・パークス Harry Smith Parkes

外交官   1828~1885年
スタッフォードシャー出身

アヘン戦争後の中国での貿易問題をめぐり発生した、アロー号事件で発揮した外交的手腕を買われて上海領事となる。1865年より日本駐在となり、以後18年間にわたって外交官として日本に滞在。当時の首相ウィリアム・グラッドストンの指令で和紙についての研究を行い、この文書は現在でもロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館と王立キュー植物園に残されている。また当時はまだ女人禁制だった富士山に夫人を伴って登頂し、女人禁制解除の流れを作ったなどの逸話も。日本では1871年に廃藩置県の実施という大改革が行われたが、その際に反乱が起きなかった様子を観察して、「欧米でこのようなことを行えば数年戦争が起きる。人間の仕業ではない」と漏らしたと伝えられている。

バーナード・ハウェル・リーチ「日本には日本がない」と苦言を呈した

バーナード・ハウェル・リーチ Bernard Howell Leach

陶芸家   1887~1979年
香港生まれ

祖父が住む日本の京都で幼少期を過ごした後、父の転勤に伴い香港やシンガポールなど各地を転々とした。ロンドンに戻り現地の美術学校で勉学中に、詩人で彫刻家の高村光太郎と知り合い日本への興味を強め、日本へ移住し白樺派と呼ばれる芸術運動に参加。以後は美術評論家の柳宗悦などと交遊を深めた。自身が33歳の時に日本人陶芸家の濱田庄司を伴い英国に戻り、コーンウォール地方のセント・アイブスにおいて日本の伝統的な登り窯を開いている。日本美術を高く評価し、「日本にはあらゆるものがあるが、日本がない。今、世界で最も反日なのは日本人なのだ」という言葉を残すなど、西洋を崇める日本人に警鐘を鳴らした。

 お雇い外国人として訪日した英国人

明治初期に日本が近代化を果たすために欧米諸国から招聘した各分野の優秀な人材を「お雇い外国人」と呼ぶ。産業革命をいち早く成し遂げた英国はまさに日本にとっては近代化のお手本のような国であり、同時期にお雇い外国人として日本の土を踏んだ約1800人のうち、その7割以上が英国人だったという。

バジル・ホール・チェンバレン「日本研究家」の草分け

バジル・ホール・チェンバレン Basil Hall Chamberlain

日本研究家   1850~1935年
ポーツマス出身

若かりし頃は英国において銀行業に携わり、23歳の時にお雇い外国人の1人として来日。海軍兵学校で英語を教えた後に、東京帝国大学の教授として勤務することになった。同大学で研究者としての才能をいかんなく発揮し、後に「ジャパノロジスト(Japanologist)」と呼ばれる日本研究家の草分け的存在に。俳句や古事記の英訳を手掛けたほか、アイヌや琉球の文化を含む日本文化全般についての研究を行い数々の著作を残した。後に日本人に帰化し小泉八雲となったアイルランド人作家のラフカディオ・ハーンとも親交を温めたとされるなど、彼の周りには幾人もの「日本ファン」が集まったという。

ウィリアム・ゴーランド日本考古学の父

ウィリアム・ゴーランド William Gowland

化学兼治金技師   1842~1922年
タイン・アンド・ウィア出身

30歳の時に当時の大阪造幣局によってお雇い外国人として招聘される。同局では自身の専門であった反射炉の築造や鎔銅作業の指導を担当し、日本における科学技術の近代化に大きく貢献した。また多趣味な人物として知られ、業務の合い間には日本絵画の収集に励んだり、英国の伝統的なスポーツであるボート競技の漕法を伝えるなどして日英の文化交流の促進に寄与した。特にまだ当時の日本ではあまり発達していなかった考古学の分野においては、日本各地にある古墳について非常に高い学問 水準の研究成果を残したために、後に「日本考古学の父」 と呼ばれるなど、日本文化に関する全てを愛した稀有なお雇い外国人であった。

ヘンリー・ダイアー日本を「東洋の英国」と呼んで愛した

ヘンリー・ダイアー Henry Dyer

工学者   1848~1918年
スコットランド出身

学生時代は「機械の都」と呼ばれたグラスゴーで勉学に励み、大英帝国の産業革命を支えた科学技術に関する知識を身に付けた。また幕末期に英国に密航した「長州ファイブ」と呼ばれる留学生の1人であった山尾庸三と一緒に学んだことから、日本についての見聞を広げたと伝えられている。グラスゴー大学を卒業後、お雇い外国人として招聘され、25歳の時から9年にわたって東京大学工学部の前身である工部省工学寮の教頭として勤務。日本を「東洋の英国」と名付けて、英国に帰国後も教育者として日本の文化を紹介するなど、日英交流の発展に大きく貢献した。電話機やサッカーを日本に伝えた人物としても知られている。

ヘンリー・ダイアー日本名を誇りとした

アーネスト・メイソン・サトウ Ernest Mason Satow

外交官   1843年~1929年
ロンドン出身

「Satow」というスラブ系の名字を持つスウェーデン人の父と、英国人の母との間に生まれる。18歳の時に英国の外務省に入省し、19歳で来日。通訳官を経て書記官となり、生麦事件、薩英戦争と日本が近代化を成し遂げるまでの激動の時代を見守った。タイ、ウルグアイ、モロッコ駐在を経て、52歳の時に再び日本に赴任。赴任中はもともと日本に馴染みのある「さとう」という名字に漢字を当てた日本名である「佐藤愛之助」を愛用し、また書道を始めとする日本文化に対しても深い理解を持つ親日家として、日本人との交遊を深めた。東京都千代田区の英国大使館前にある桜並木の植樹は彼が始めたものであり、この桜並木の景色は現在に至るまで残されている。

 日英修好通商条約締結後の日英史概略
1858年 日英修好通商条約を締結
1861年 水戸藩浪士14名が東京都港区東禅寺にある英国公使館を襲い、英国人2名が負傷(第一次東禅寺事件)
1862年 信濃松本藩浪士が東禅寺にある英国公使館を襲い、英国人2名を刺殺(第二次東禅寺事件)
1862年 生麦村大名行列を横切ろうとした乗馬中の英国人を薩摩藩士が切りつける生麦事件が発生
(写真右:事件が起きた生麦村)
1863年 生麦事件をめぐって鹿児島湾で砲撃事件が発生(薩英戦争)
1869年 エディンバラ公が来日
1873年 岩倉使節団岩倉使節団が訪英
1902年 日英同盟を締結
1910年 大日英博覧会がロンドンで開催
1921年 日英同盟の廃棄について合意
1961年 アレキサンドラ王女が訪日
1975年 エリザベス2世が日本を公式訪問
1987年 語学指導を行う英国人などを日本に招致するJETプログラムが開始
1998年1月 ブレア首相が来日
2001年 日英間でワーキング・ホリデー制度発足
2003年4月26日 ブレア首相と小泉首相ロンドンで小泉首相とブレア首相が日英首脳会談
2003年7月18日 ブレア首相が来日
2007年1月9日 ロンドンで安倍首相とブレア首相が日英首脳会談
2008年1月~ 日英交流150周年を記念して各地で記念イベントを開催
 現代日本を愛する英国人たち

「侍」や「浮世絵」といった、かつて外国人を惹き付けた文化が歴史の表舞台から消え去ってしまった現代日本の新たな一面を愛する英国人も多く存在する。テレビ司会者、スポーツ選手、文学者、そして起業家と、異なる分野でそれぞれ違った日本像が描かれているのも興味深いところだ。

フレディ・マーキュリー伊万里焼の収集家

フレディ・マーキュリー Freddie Mercury

ミュージシャン   1946~1991年
ザンジバル出身

伝説的なロック・バンド、クイーンのボーカル。ファンの間では広く親日家として知られていたが、そもそも彼の日本への興味を焚きつけたものは何と伊万里焼。収集のためにお忍びでの訪日もあったという。またソロ・アルバム収録曲「La Japonaise」では日本語での歌唱を披露。日本公演のMCも流暢な日本語でこなしていた。

ギャリー・リネカー実は日本語がかなり流暢

ギャリー・リネカー Gary Lineker

元サッカー選手   47歳
レスター出身

1993年の日本でのJリーグ開幕に合わせて名古屋グランパスエイトに入団。当時最高年棒の3億円で契約するも、怪我のために目立った活躍が出来ないまま2年目に引退した。このためファンから強い批判を浴びたが、意外にも日本滞在中は日本語の学習を熱心に行っており、帰国から10年が過ぎた今でも流暢に話すことが出来るという。

ジョナサン・ロス自他共に認める日本オタク

ジョナサン・ロス Jonathan Ross

テレビ司会者   47歳
ロンドン出身

トーク番組や映画紹介番組の司会での軽妙な語り口が人気のテレビ司会者。BBCの人気ドキュメンタリー番組「Panorama」をもじった「Japanorama」という番組の司会を務めながら、マンガやゲーム、オカルトといった日本の現代文化を紹介している。日本映画についての造詣も深く、過去に北野武や宮崎駿といった日本人映画監督へのインタビューを行っている。

デビッド・ボウイ現役知日派の代表格

デビッド・ボウイ David Bowie

ロック歌手、俳優   61歳
ロンドン出身

大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」で北野武や坂本龍一といった日本人アーティストと共演を果たしたことで日本の芸能界にも広い交遊録を持っており、また日本人デザイナーの山本寛斎がデザインした衣装を好んで自身のコンサートでもしばしば使用している知日派。一時は京都に別荘を購入したとの噂が週刊誌などで取り上げられたこともあった。

デービッド・ベッカム来日で20億円稼いだ

デービッド・ベッカム David Beckham

サッカー選手   33歳
ロンドン出身

日本では「ベッカム様」との愛称を持つほどの人気を誇る、恐らく日本で最も愛される英国人。その人気に応えるかのように、ソフトバンクモバイルや明治製菓、NTTドコモなどといった日本の企業テレビCMに頻繁に出演している。2003年の来日では「日本が大好き」とコメントして拍手喝采を浴びた。またこの来日では10日間の滞在で20億円のギャラが発生したと伝えられている。

C.W.ニコル日本の自然を誰よりも愛する

C. W. ニコル Clive Williams Nicol

作家   68歳
ウェールズ出身

元々は空手を習うために来日するも、日本における急速な地域開発の現状に危機感を抱いて日本における自然保護運動を開始。現在では長野県黒姫山の土地4万5000坪を購入して出来た「アファンの森」の運営などの自然保護プロジェクトを実施している。1995年には日本国籍を取得。「生物と文化の多様性を持つ日本が一番好きな国」として日本での生活を謳歌している。

サイモン・ウッドロフ日本文化でビジネスする英国人

サイモン・ウッドロフ Simon Woodroffe

起業家   54歳
エセックス出身

回転寿司チェーン「Yo! Sushi」やカプセル・ホテル「Yotel」を経営するなど、現代の一風変わった日本文化を次々と取り入れたビジネスを英国で展開し、日本を「最後のオリエンタル・ミステリー」と呼ぶ起業家。かつてはロッド・スチュワートなどの大物ミュージシャンの舞台芸術に携わっていた。また日本の人気番組「夜のヒットスタジオ」の制作などに関わっていたこともある。

 
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