〜シティを歩けば世界がみえる 特別編〜テムズの流れは絶えずしてロンドン港の栄枯盛衰物語、
再発見!
1810年出版の雑誌に描かれた西インド・ドックスの挿絵
「シティを歩けば世界がみえる」を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫
港を意味する英単語にPortとHarbourがあります。Portの語源がラテン語Portus=運ぶ、Harbourは古代サクソン語のHerbergh=保護する、です。南欧には沿海岸港が多く機動性を、一方の北欧は入り江港が多く安全性を重視した背景があるようです。英国の港は河口内港が多く、港といえば機動性と安全性を兼ねたDock=水路付き係留施設になります。19世紀世界最大の貿易港ロンドンは、テムズ川の背後にある巨大な内陸市場の輸出入の玄関口、かつ、植民地からの産品を各国に中継貿易をする役目も担っていました。
本特集では、今もロンドン東部に残るドックや倉庫、運河などを手掛かりにロンドン港の栄枯盛衰の物語を語り、そこに垣間見える大きな歴史の渦を再発見してみたいと思います。なお、通常コラム「英国船の歴史と大航海時代」も併せてお楽しみ下さい。
シティ・オブ・ロンドンの眺望(1750年代作、作者不詳)
目次
Episode 1ロンドン税関の始まりはロンドン橋近く
古くから特定地域を通過する貨物や通行人に対して税金や通行料を課すことは広く行われており、それを習慣的徴税、Customary Dutiesと呼んでいました。港は商売の自由と権力者の支配がぶつかる利益背反の場所。イングランド最初の関税法は1203年のウィンチェスター法令です。当時、財政危機に悩んでいた欠地王ジョンは全ての輸出入品に「15分の1税」をかけました。ロンドンの税関は当初、ロンドン塔近くのビリングスゲートに置かれ、さらにクイーンハイズの埠頭にもできました。そのころ、ロンドン橋を石橋にする工事が1176年から行われていて、船がロンドン橋の上流に行けなかったからです。1275年、ビリングスゲート隣のウール埠頭に中央税関が置かれました。こうして英国王家にとって最大の収入源は領地からの地代ではなく、貿易の関税に変わりました。
関税を払わないと密貿易扱いで取り締まりの対象になった
19世紀のビリングスゲート埠頭
ウール埠頭にできた中央税関のカスタム・ハウス
左から、ロンドン橋、ビリングスゲート、旧カスタム・ハウス
Episode 2法定埠頭と保税倉庫の始まり
ロンドン港の貿易は増え続けました。特に16世紀のチューダー朝では冒険商人組合(Merchant Adventurers)による海外貿易や敵国の商船を襲う私掠船活動が奨励されました。エリザベス1世は1558年に関税法を改正し、ロンドン橋からロンドン塔までの20カ所に法定埠頭を定め、そこで関税を徴収し、それ以外の波止場で荷下ろしした者を厳しく罰しました。貿易量は増える一方、テムズ川は荷下ろしを待つ船が渋滞するばかりでした。というのも、テムズ川は潮の干満が激しく、大きい船は満潮時にしか波止場に寄り付けず、また、荷下ろしするにも時間が限られていたからです。そこで、もし高級品でなければ荷下ろしを優先して税関手続きを数週間ほど後回しできる保税倉庫が考案されました。その案は渋滞回避策として人気を得て、ロンドン塔の下流域にあるワッピングなどの岸壁や水路に保税倉庫が作られました。
奥に見えるのがシティの冒険商人組合の一つ、東インド会社
20の法定埠頭が定められ、税関が置かれた
数週間の税関手続を猶予された短期保税倉庫
テムズ川や水路の岸に並んだ保税倉庫は、現在では高級フラットなどに変わった
Episode 3ドックと保税倉庫の利用
英国は18世紀に大西洋貿易が盛んになり、カリブ諸島からたくさんの砂糖やラム酒が輸入されました。保税倉庫を増やしてもテムズ川の渋滞は緩和されず、盗賊が渋滞した船を渡り歩いて向こう岸に行けたともいわれます。高価だった砂糖とラム酒の盗難対策のため、西インド商人が防犯パトロールを始め、ワッピングにテムズ水上警察が1798年に設立されました。
それでも盗難は止まず、西インド貿易専用の船渠、西インド・ドックスが1802年にドックランズ地区に作られました。そして05年にロンドン・ドックス、08年に東インド・ドックス、28年にシティに隣接する聖キャサリン・ドックスが次々に完成します。ドックは輸入用と輸出用に分かれ、輸入用はシティに近い方でした。このころ倉庫法が制定され、ドック内の保税倉庫では関税手続きに数年間の猶予が認められました。
1798年にテムズ水上警察が設立された
1802年に完成した西インド・ドックス
次々とドック群が建設されていった
シティに隣接する聖キャサリン・ドックス
Episode 4保税倉庫が中継貿易と貿易金融の発展に貢献
もともと保税倉庫はテムズ川の渋滞緩和目的で作られましたが、18世紀に多くの戦争増税が行われたため、顧客販売時点まで関税支払いを猶予できる保税倉庫利用のメリットが高まりました。その後、保護貿易的な航海条例や穀物法が廃止され、他国への輸出目的で保税倉庫に納入された物品に輸入関税が免除されると、米国、インド、アフリカから砂糖や茶、小麦、鉱物など一次産品が中継貿易され、ロンドンが最大の港になりました。
1865年に米シカゴで商品先物取引市場が始まり、翌年に大西洋横断ケーブルが完成すると、世界中からの農産物を倉庫に持つ英国がシティの金融技術や情報通信ネットワークと結びつき、商品先物市場の主要国になり、金融の中心地になりました。
数年の税関手続きを猶予された長期保税倉庫
大英帝国の地図(1886年)
瞬時に世界を結んだ海底ケーブルの位置を示す地図(1901年)
現在の米シカゴの商品先物取引所
Episode 5蒸気船やコンテナ船の登場で適応力に限界
ところが19世紀終盤、貨物船の主役が帆船から蒸気船に変わると状況が一変します。蒸気船は蒸気タービンを船内に据えるので重みで喫水が深くなりますが、ロンドン港は帆船の時代に作られたのでドックの水深が浅く大型の蒸気船が入れませんでした。慌てて東インド・ドックスの東に19世紀後半から深さ10メートル超のロイヤル・ドックスが作られました。
ところが20世紀に入るとコンテナ船が登場し、世の中がさらに変化します。コンテナ船は貨物箱が画一化され、荷ほどきすることもなく、貨物箱ごと船からトラック、鉄道、空輸を使って目的地まで効率的に運ばれます。保税倉庫のあるドックだけでは機能不足、道路や鉄道、空港が一体化した輸送網が求められました。でも既存のロンドン港には空き地がなく、新しい施設を増設できないまま中継貿易が衰退していきました。
ロイヤル・ドックスの風景
船体には水に沈む深さである喫水が表示される
コンテナ船は輸送システムを大きく変えた
道路も鉄道も空路も港と一体化
Episode 6ロンドン港の栄枯盛衰の物語
ロンドン港の強みはテムズ川の内陸部にロンドンという巨大な消費や生産市場があったこと、そして植民地網を通じて中継貿易を促進させるドック群と倉庫にありました。コンテナ船の時代にはテムズ川河口近くにティルベリー港が作られましたが、ロンドン中心部から遠く、ライバルのシンガポールやオランダに負けました。今やロンドン港のドック群であるドックランズや倉庫街は再開発によって親水公園や高級フラットに変わっています。
港の語源は「水の戸」が訛ってミナト、つまり水門です。各国の歴史的背景によってPort、Harbour、Dockと形は異なりますが、水門の向こうは世界につながる海。デジタル時代の技術革新により、ロンドン港は情報の保税倉庫をつなぐウェブ・ネットワークに変わったのかもしれません。「テムズの流れは絶えずして、もとの水にあらず」ですね。
ティルベリー港の航空写真(1939年)
コンテナ港の例
ロンドン・ドックランズは再開発で高級フラットに
ロンドン・ドックランズの過去、現在、そしてデジタルな未来?