2021年に改修完了英国で最も愛される
時計塔にまつわる知られざる苦難 ビッグ・ベン今昔物語
英国、と聞いて世界中の誰もが真っ先に思い浮かべる風景、それはテムズ川のほとりに佇むビッグ・ベンの雄姿なのではないだろうか。
2012年、エリザベス女王のダイヤモンド・ジュビリーを記念し、「エリザベス・タワー」(Elizabeth Tower)と名を変えたビッグ・ベンは、現在約8000万ポンド(約11億円)をかけた大規模な改修の真っ最中。4年以上にわたる工事期間を経て、ついに足場が撤去され始めた。お披露目となる2021年を前に、今一度ビッグ・ベンの歴史をなぞってみるのはいかがだろうか。工事前に参加した時計塔ツアー体験のレビューも合わせてどうぞ。
現在の内部の様子や工事状況は こちら から
HPソースも足場付きの限定ラベル仕様に
ビッグ・ベンの工事は、単に老朽化した塔の保全作業ではない。文字盤と針を紺青色に塗り直し、調査によって明らかになった1859年当時の色合いを蘇らせるほか、メンテナンス、緊急時の作業を行うためのリフトを新たに設置するなど、さまざまなお直しが含まれているのだ。工事期間中は、第一次、第二次世界大戦でも止むことのなかった鐘も、特別な日を除き一旦お休み中。
足場で姿が見えず、鐘の音も聞こえない。人々の心からその存在が薄くなりつつあった2019年、ビッグ・ベンはひっそりと誕生160周年を迎えた。これを記念して、英国の家庭で欠かせないブラウン・ソース「HP ソース」のラベルは、足場付きのデザインに様変わり。この仕様は、ビッグ・ベンが2021年に再始動するまで使われるそう。
改修期間も長いが、建設はもっと大変だった......威風堂々とそびえ立つこの世界一有名な時計塔、実は日の目を見るまでには涙ぐましいまでの紆余曲折を経てきたのだ。まずはこのビッグ・ベン建設にまつわる苦労話をご紹介しよう。
(取材・文: 村上祥子)※本記事は2007年に掲載された特集をアップデートしたものです。
始まりは大火から
今や世界で最も有名な時計塔として名を馳せるビッグ・ベン。その誕生のきっかけとなったのは、1834年10月16日にウェストミンスター宮殿(現在の国会議事堂)を襲った大火だった。この火事で建物のほとんどが焼失。その結果、同じ場所にゴシック様式の新しい建物を建設することになったのである。
公開コンペにより97のデザイン案が審査された結果、見事栄冠を勝ち取ったのは、チャールズ・バリー。彼がビッグ・ベン生みの親となったのだ。
バリーのデザインで特に異彩を放っていたのが時計塔だった。関係者らはその斬新な提案に感動し、「ウェストミンスターの偉大な時計」 と呼んでその誕生を待ち望んだ。とはいえ当時すでに建築家として名を馳せていたバリーも、時計や鐘に関してはずぶの素人。そこでバリーが呼んできたのが友人であり、女王の時計職人だったベンジャミン・ルイス・ブリアミーだった。かくして長年に及ぶ時計塔建設の幕が開いたのである。
英国を代表する画家、ターナーの描いた大火
なんでビッグ・ベンって呼ばれているの?
今や世界中の人々からビッグ・ベンと呼ばれ親しまれている国会議事堂の時計塔。実は「ビッグ・ベン」という名称は、時計塔に設置されている5つの鐘のうち、1番大きな鐘の愛称であり、元来は時計塔そのものを指しているわけではなかった。ちなみに鐘の正式名称は「グレイト・ベル」。つまりビッグ・ベンという現在の呼び名は厳密に言うと、二重の意味で正確ではないのである。
では何故この鐘がビッグ・ベンと呼ばれるようになったのか。それには2つの説がある。
1つは、時計塔建設の工事責任者で国会議員のベンジャミン・ホール卿の名をとったとする説、そしてもう1つは当時人気のあったボクサー、ベン・カウントにちなんだとする説だ。いずれにしろ英国を代表する建造物の名となった2人のベンさん、さぞや鼻も高いことだろう。
ビッグ・ベン受難の歴史 ― 時計編
コンペの期間は何と7年!
コンペの審査員を務めた、
ジョージ・エイリー卿
時計塔建設は始めから前途多難だった。英国で最も重要な時計となる「ウェストミンスターの偉大な時計」のデザインに、さまざまな時計学者らからの横槍が入ったのである。そこで1846年、委員会は限定コンペの開催を決定。審査員で英国王立グリニッジ天文台長でもあったジョージ・エイリー卿は、①1時間ごとに鳴らされる鐘の第1打の誤差は1秒以内、②時計の動き具合を1日に2回、確認のためにグリニッジ天文台に打電する、などといった条件、計15項目を提示したため、審査は難航。何と7年にわたって論議が繰り広げられた。 最終的に時計のデザインを任されることになったのは、エイリー卿の共同審査員を務めた、弁護士でアマチュア時計デザイナーのエドマンド・ベケット・ デニソン。彼のデザインを基に、有名時計学者のE・J・デントが実際の建設を請け負うことになった。契約が結ばれたのは1852年、2月25日のことである。
え、時計が大き過ぎて入らない!?
これでようやく工事がスタート、と思いきや、またしても大きな問題が彼らに降りかかった。何と時計塔のスペースが、デニソンのデザインした時計を置くには小さすぎたのである。塔の建設を担当したバリーに非難が寄せられたが、当のバリーはデニソンに 対し、デザインする前に寸法を確認していなかったデニソンのミスだと反論。結局100ポンド(当時)をかけて時計を作り直すことになった。1854年には、無事時計の製造が完了。しかしこの時計を塔に設置することはできなかった。何故なら今度は塔の建設工事が遅れていたからである。かくして塔の工事が終了するまでの5年間、時計はデントの工場で保管されることになったのだった。
ケガの功名-正確なのは遅延のおかげ!?
そんなこんなでなかなか落ち着くことのできない時計だったが、それがプラスに働くことも。たっぷりある待機時間に、多くの改良を重ねることができたのだ。なかでも偉大な発明とされるのが、「Double Three-Legged Gravity Escapement」と呼ばれる脱進機*。この脱進機のおかげで、風や雪などの外部からの圧力が時計針にかかる影響を、振り子にまで及ばないようにすることが可能になった。ちなみにこの仕組みは現在でも、多くの時計で利用されている。
*脱進機: 振り子の特性を生かして、歯車を一定速度で回転させる仕組み
ビッグ・ベン受難の歴史 ― 鐘編
ロンドンまでの長い長い旅
時計塔の鐘が最初に鋳造されたのは、1856年8月6日のこと。イングランド北部ストックトン・オン・ティーズのワーナーズ鋳造所でつくられたこの鐘の重さは約16トン、当時では国内最大の鋳造物だった。この鐘が無事塔に収まるまでには、また別の長い苦労話がある。
まず大変だったのがロンドンまでの長旅だ。北東部のウェスト・ハートルプールまで列車で運び、その後ロンドンまでは船で運搬。船に運び込まれた時には甲板に激しい損傷を与え、船旅の途中では嵐に巻き込まれてあわや海の藻屑となって消えるところだったという。
ロンドンに着いてからは特別仕立ての16頭立て馬車でウェストミンスター・ブリッジを渡り、ようやく目的地である時計塔に到着した。
ワーナーズ鋳造所での鋳造過程
鐘にひびが!
その後は宮殿の北側にある庭、ニュー・パレス・ヤードの台に吊るされ、テストを受ける日々。鐘に「ビッグ・ベン」の愛称が付いたのはこの頃である。
そんなビッグ・ベンに1857年10月、悲劇が起こった。テスト中の鐘の表面に1.2メートルほどのひびが入ってしまったのである。その原因に関しては、さまざまな意見が飛び交ったが、製作者のワーナーズは、設計者のデニソンにより鐘の舌(ハンマー)の重さが当初の355キロから660キロに増やされたからだと弁明した。
原因は何であれ、こうしてひび割れたビック・ベンは一旦壊され、再鋳造されることになった。ワーナーズがあまりに高額の費用を請求したため、今度はロンドンにあるホワイトチャペル鋳造所が製造を担当することに。1858年4月10日のことであった。
ホワイトチャペル鋳造所で再鋳造される
受難は1回では終わらなかった……
同年10月、ついに新しい鐘が完成した。直径2.7メートル、高さ2.2メートル、そして重さは13.5トン。生まれ変わった新ビッグ・ベンは万全を期して塔に運ばれることになった。しかし、困難はまだ終わらなかったのである。
今回の問題は、鐘の口だった。大きすぎて、塔のエレベーターに入らなかったのである。しかし1人の関係者が閃いた。「鐘を横たわらせて吊り台で引っ張り上げればいい」。かくして30人がかりで鐘楼まで運び上げられたビッグ・ベンは無事、在るべき場所に収まったのである。
再鋳造されたビッグ・ベン
沈黙するビッグ・ベン
しかし、鐘と時計を襲う災難は、まだまだ続く。第一に、時計が動かない。これは鋳鉄製の分針が重すぎたためで、銅製に変えることによって解決した。第二の問題は、 1859年、ビッグ・ベンがついに動き始めたのと同時に発生した。鐘の音がうるさすぎると議員たちから苦情が寄せられたのである。そして極めつけがひび。新しい鐘にも前回同様、ひび が入ってしまったのだ。
ひびのせいでビッグ・ベンはその後4年間、沈黙を余儀なくされ、その間はビッグ・ベンの周りに設置されている4つの鐘がその役目を果たしていた。解決法が見付かったのは1863年。ひびの入っていない面に舌が当たるように鐘を1/4回転させ、ひびがこれ以上広がらないように、小さい四角形の穴を開けたのである。そして舌の重さも330キロから200キロへと減らされた。こうしてビッグ・ベンは再びその役目を取り戻し、今日ある「世界一の時計塔」としての役割を果たすようになったのである。
ウェストミンスター・ブリッジから望む時計塔
苦労はいまだ続く…… 時計塔がその動きを止める時
長い長い困難の歴史を経て1859年5月31日に動き出した時計塔。第二次大戦中にはドイツ空軍による数々の爆撃にも負けず、ひたすら時を刻み続けてきた。しかし、戦争にも耐えたこの時計は、これまで思わぬ出来事により何度かその動きを止めたことがある。
1. 年に2回の恒例行事 これはハプニングではなく、年に2回訪れる、英国の夏時間の始まりと終わりの調整作業。この際には部品の補修工事なども合わせて行われる。
2. 「ビッグ・ベンを止めた男」 1922年、塗装業者たちが時計塔の内部の塗装作業を行っていた。ある朝、時計面の裏側の部屋で作業をしていた作業監督が、はしごを時計の針を回転させる軸に立てかけたまま、外へ出てしまう。しば らくしてその作業監督が地上から時計を見上げてびっくり! なんと正確なことでは他に類を見ないはずのビッグ・ベンの時計が止まっているではないか。原因を作り出した当の作業監督、G・F・ウィード氏は、「もちろん、私は非難されたよ。でもどうやって分かるっていうんだい? 私は時計職人じゃないんだよ」と弁明。翌日の新聞には、「ビッグ・ベンを止めた男」として大々的に取り上げられたとか。
3. そのほかのハプニング 1949年 ムクドリの群れが時計の分針に止まり、4分30秒の間、時計が止まる。
1962年 大雪の影響で、新年の鐘が10分遅く鳴る。
1976年 時計装置が金属疲労により故障。再び時計が動くまでには3週間を要した。
2005年5月28日22時7分に分針が突如止まる。やがてゆっくりと動き出したが、22時20分に再び動かなくなり、約90分間静止していた。異常の原因は不明だったが、この日は気温が31.8度に達しており、気温上昇のため、という見解がなされた。
そのほか2000年9月には、地下鉄ジュビリー線の拡張工事による振動を遮断するため、時計塔の地下に何百トンものグラウト材(地盤の強度を高めるもの)が運び込まれるなど、世界一の時計塔は正確な時間を刻むため、地味で堅実な努力を続けているのである。
ビッグベンを間近に見るチャンス!時計塔ツアー体験
子どもの頃、ピーターパンの映画でピーターと子供たちがビッグ・ベンの周りを飛び回るのを見て、うらやましいなと感じたことはないだろうか。実はこの時計塔、我々でも登ることができるのだ。現在は改修中のため、ツアーは休止中。2021年の再開時にルート変更の可能性はあるものの、塔の内部をより快適に見学できるはずだ。ここでは改修前のルートに沿いながら、その見どころを予習してみよう。
※本文は2007年取材時の順路。
※再開後の方法はウェブサイトで最新の情報を参照
www.parliament.uk/visiting/visiting-and-tours/tours-of-parliament/bigben
0スタート
まずはボディ・チェック
集合場所は、大通りを隔てて国会議事堂と向かい合う議員会館(Portcullis House)。まずは入り口で念入りにボディ・チェックを受ける。建物内を巡回する警備員の手には大きな銃。見学時にはすべての写真撮影を固く禁止すると告げられる。やがて2人のツアー・ガイドが到着。ガイドさんに連れられ、建物内を横切って時計塔まで向かう。
1階段を登る
体力に自信のない方はご遠慮ください
いよいよ登頂開始。「体力に自信のない人は言ってくださいね」と冗談交じりに話すガイドさん。それもそのはず、塔にはエレベーターなどの昇降機がないので、階段を登らなければならないのだ。ちなみに階段数は鐘楼までが334段。狭く殺風景な塔の中央に鎮座する螺旋階段をひたすら、ひたすら上っていく。
2プリズン・ルーム
実は刑務所だった!
参加者がみな疲れきって無口になった頃、ようやくとある小部屋に到着。室内には、絵画や建設工事の際に使われた工具などが陳列されている。ガイドさんの説明によれば、実はこの部屋、昔は独房として使われていたというから 驚き! 何でも国会の両院で野次を飛ばすなどしてディベートを妨害した議員が 収容されたのだとか。公式には残りの国会開催期間中、ずっと拘束できることになってはいたが、実際には1日以上閉じ込められた人はいなかったらしい。
3クロック・ルーム
これが時計を動かしているの?
プリズン・ルームの説明が終わると、また階段。もくもくと上り続ける。そして到着したのがクロック・ルームだ。ここには時計装置が設置されている。4.7メートル×1.4メートル、重さ約5トンというこの仕掛けは、とてもあの巨大な時計を動かしているとは思えないほどの大きさ。剥き出しに置かれていて、埃や塵などで歯車が詰まってしまわないのか、こちらが心配になるほどあっさりとした管理にさすがは英国、と何となく納得。
4鐘楼
いよいよビッグ・ベンとご対面
そしていよいよビッグ・ベン、すなわち鐘とのご対面。外気に面した鐘楼には、4つの鐘に囲まれたビッグ・ベンが。「間近で聞くとすさまじい音だから」ということで一人ひとり前もって渡された耳栓を装備、爆音に備える。待つことしばし。ついにビッグ・ベンが鳴り出した。とにかく大きな硬質な音で、美しいかどうかなんて考える余裕もない。耳も慣れてきたようなので、最後くらい実際に聞いてみようかと思い、耳栓を外した途端にすさまじい音が……。最後まで耳栓は外さない方が良さそうだ。鐘の音を堪能した後は、ビッグ・ベンに今もなお残るひびと四角い穴を確認。ひびが入ったまま100年以上もの間働き続けているのだからたいしたものだ
5時計面の裏側
時計の裏は意外とシンプル
時計面の裏側は、人ひとりがようやく歩けるくらいの細いスペースになっている。白っぽいガラスをつなぎ合わせている時計の裏面の向こう側 には、うっすらと透けて見える針。自分が今、時計塔のまさに中心部にいるのだという実感が湧いてくる。逆側の壁には裸電球が。夜になると幻想的に光り輝く時計は、何と裸電球が照らしていたのだ。1つの時計面に対し、使われる電球は27個。「この55ワットの電球は低エネルギーでエコ・フレンドリーなのよ」というガイドさんの生活感溢れる言葉には感動すればいいのやら、がっかりすればいいのやら……。
6ツアー終了
再び地上へ
狭くて長い螺旋階段を今度はもくもくと下りる。次第に目が回ってきて、みんな心なしか言葉少な。ぐるぐるぐる……。そしてようやく地上に到着。これで時計塔ツアーは終了だ。
ガイドさんのビッグ・ベン秘話 1
最後に拘束されたのは?
1880年、無神論者の議員、チャールズ・ブラッドローが聖書宣誓を拒否し、このプリズン・ルームに一晩拘束されたのが最後。ところでこのプリズン・ルーム、プリズンとは呼ばれていても、実際は家具などがすべて揃った快適な部屋だったらしい。それじゃ拘束する意味なんてないのでは!?
ガイドさんのビッグ・ベン秘話 2
微調整はペンス硬貨で!
正確さにおいては折り紙付きのこ の時計。その正確さを守っているのは何とペンス硬貨なのだ。時計の振り子の重しをよく見てみると、その上には、数枚のペンス硬貨が置かれている。2週間に1度行われるチェックで、時計の針の進みが速ければコインを取り、遅いようなら追加する。1枚追加することによって24時間につき0.4秒、進みが速くなるのだとか。
ガイドさんのビッグ・ベン秘話 3
小さなパネルは取り外し自由
小さな白ガラスをはめ合わせている時計面。 実は1カ所だけ、裏側から簡単に取り外せるようなつくりになっている部分がある。これは大雪が降るなどして時計の針に異常が発生した時にヒョイヒョイ、と手直しできるようにするためなんだとか。
ガイドさんのビッグ・ベン秘話 4
旗の大きさはテニス・コート!
旗の大きさはテニス・コート!時計塔のてっぺんに明かりが灯る時、それは下院で会議が行われていることを意味する。国会議事堂では、会議が行われているのか否か、一目で分かるある方法を使っている。議事堂内で、時計塔と対を成しそびえるヴィクトリア・タワーの頂上に、旗が掲げてあれば会 議中、なければ会議はしていない、という仕組みになっているのだ。地上からこの旗を見上げると小さめに見えるが、その大きさは何とテニス・コートほどにもなるというからすごい。
ガイドさんのビッグ・ベン秘話 5
ヴィクトリア女王に幸あれ!
各時計面の下側には、なにやら文章が刻まれている。発案者は時計塔の共同設計者、オーガスタス・W・N・ピュージン。ラテン語で、「Domine Salvam fac Reginam nostrum Victoriam primam 」と彫ってあるのだが、意味としては 「O Lord, save our Queen Victoria the First」となる。何でもピュージンはヴィクトリア女王の信奉者で、国会議事堂のさまざまなところにこの文章を入れているというから恐れ入る。
数字で見るビッグ・ベン
時計塔 | 高さ: 96メートル ランタン(頂塔)までの階段数: 399段 (見学者は鐘楼まで登ることが可能。鐘楼までは334段) |
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時計 | 時計面数: 4つ 直径: 7メートル 時計面に使われているガラス数: 一面につき324個 時計針: 短針-2.7メートル、重さ300キロ 長針-4.2メートル、重さ100キロ |
時計装置 | 重さ: 5トン |
振り子 | 長さ: 4.4メートル | 重さ: 310キロ | 打数: 2秒毎 |
鐘(ビッグ・ベン) | 直径: 2.7メートル | 高さ: 2.2メートル 重さ: 13.7トン | 舌の重さ: 200キロ |