第269回 キッド船長の隠した宝物
シティの東部、ワッピングに「キッド船長」(Captain Kidd)という名のパブがあります。18世紀初頭、キッド船長は近くの海賊処刑場で海賊行為の罪で処刑されました。海軍が未整備の時代、敵国の商船を襲う民間の私掠船による活動は国の委任命令とされ、海賊行為とは見なされませんでした。ところがキッド船長は国際貿易を利権とする政治家の政治闘争に巻き込まれ、海賊のレッテルを貼られてスケープゴートにされたという説があります。
パブ「キャプテン・キッド」
1654年にスコットランドで生まれたウィリアム・キッドは14歳から英国植民地の北米に移住し、貿易に従事。さらにカリブ海で他国の商船を襲う私掠船活動で名をはせました。当時、カリブ海には多くの欧州国の植民地があり、各国は私掠船を使って他国の商船を襲わせていました。やがて95年、キッドに転機が訪れました。英植民地のニューヨーク総督に就任したベロモント伯が、インド洋上で私掠船活動を行う提案をしてきたのです。
私掠船の契約書には本国の国王に近い有力議員や貴族の署名がありましたし、ロンドンの港には軍艦アドベンチャー・ギャリー号(乗員150名、大砲34)と航海費用の8割が準備されていました。キッドは意気揚々とロンドンから出港。ところが、なかなか獲物が見つからず、ようやく大型商船を捕まえると、その商船は英国人が船長でアルメニア旗を掲げていました。でも敵国フランスの通行証を所持していたため、拿捕して北米に向かいました。
軍艦アドベンチャー・ギャリー号と同型の艦船
キッドは帰途、立ち寄った港で自分に逮捕状が出ていることを知ります。依頼主のベロモント伯に助けを求めても、早く帰港せよと返事が来るだけ。怪しいと思ったキッドは貨物を売却し、財宝を数カ所の島に隠して北米に戻りました。キッドは商船が保持していたフランスの通行証をベロモント伯に見せて無罪を主張しましたが、通行証は奪い取られ、キッドは牢獄に入れられました。そして上述の通り、ワッピングで処刑されました。
海賊処刑場(左)と現在の旧海賊処刑場付近( 右)。奥に見える聖メアリー教会の姿は変わらない
17世紀末の北米植民地の総督は、海賊と組んでインド洋上の商船を襲わせ、対インド貿易の利益を独占する東インド会社に癒着している政治家と、利権争いをしていました。総督はキッド船長には私掠船行為を行わせる計画でしたが、アルメニアとの協約に基づいて東インド会社が借りた商船を襲ったため、総督の計画が露見してしまいました。キッドの無罪を証明するフランスの通行証は、処刑から百年以上経って見つかりました。でもキッド船長がそのときに隠した宝物はいまだにどこかで眠ったままです。
発見された商船のフランス通行証
キッド船長の宝物はどこに?
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