第32回 自然は曲線を創り、人間は直線を創る
日本から絵葉書が届きました。写された古寺の優美なこと。特に屋根が美しく、軒先が反り返っています。このカーブは懸垂曲線、つまり鎖の両端を持って垂らしたときに出来る曲線に沿っており、瓦の重みで軒先が垂れ下がらないよう、重力、圧縮力、拡張力が均衡した軌跡になっています。この曲線が数式で解明されたのは17世紀後半ですが、それを待つまでもなく、大工さんは錘と紐を駆使して、この建築美と安定を追求していました。
吊り橋のケーブルや蜘蛛の巣などにも懸垂曲線が見出せます。日本には富士山という見本もありますね。液状に溶けた溶岩が長い時間かけて冷やされて出来た山腹は、懸垂曲線に近似します。そしてシティの観光名所、ミレニアム・ブリッジ。この吊り橋のケーブルにも懸垂曲線が意匠されています。名門設計事務所フォスター・アンド・パートナーズ、彫刻家アンソニー・カーロ、構造設計大手のアラップ社がコラボした英国屈指の傑作です。
吊りケーブルの描く緩やかな曲線
景観保護のために低い位置から張ったケーブルに吊られた歩道からは、この橋のテーマである「優雅な剣、光の翼」に乗って低空飛行しているような開放感を得られます。2000年6月10日、エリザベス女王を招いた開通式には10万人も集まりました。ところが、女王のテープ・カットの後、一斉に数千人の歩行者が渡り始めますと、大きな横揺れが生じて歩行者が立ち往生。その後も揺れが収まらず、橋はわずか3日間で閉鎖されてしまいます。
2つの顔を持つミレニアム・ブリッジ、昼は「優雅な剣」
そして夜は「光の翼」に
困り果てたアラップ社が極秘に相談した相手が、制振理論に詳しい東京大学の藤野陽三教授。人間は歩くとき、鉛直方向だけでなく水平にも身体を揺らします。藤野教授は、歩行者が橋の揺れに無意識に同調して歩くため、共振作用が増幅されて橋を大きく揺らすのだと指摘します。そこで、日本の橋梁メーカーが鉛直方向と水平方向に制振装置を装着して共振作用を抑え、橋を開通させました。地震や台風の対策で培った日本の制震技術はまさに世界最高水準というわけです。
歩道の裏に装着された制振装置
両端のコイル状が鉛直方向のゆれ止め、
鉄柱が交差している所に水平方向のゆれ止め
そうそう、最近開通したヒースロー空港第5ターミナルの管制塔にも日本の制振技術が生かされています。冒頭のタイトルは湯川秀樹先生の言葉ですが、自然界に潜む曲線や多体系の豊かさに対し、人間は最短距離の直線で解を性急に求め過ぎているのかもしれません。この橋の周囲を見渡しますと、ゆったり流れるテムズ、そよぐ風、空翔る鳥、聖ポール大聖堂のドーム――ほらね、直線が曲線に優しく包み込まれていることがよく分かります。