問題解決と秩序なき世界
世界経済も政治も混迷している。しかし、皆そう暮らしにくいと感じているわけでもない。なぜか、を考えてみたい。
米ソが対立し、それぞれが資本主義陣営、社会主義陣営に睨みをきかせていたときは、善し悪しは別にして、それなりの秩序があった。ところが、ベルリンの壁の崩壊後、秩序がなくなった。
まず、世界の敵は、資本主義ではなく、社会主義でもなく、テロリストになった。米軍を中心とした多国籍軍によるアフガニスタン、イラクへの侵攻における初期戦は終了したが、両国はもとより、世界中でもテロの危険は減っていない。次に、先進国は、共産主義から解放された安い労働力を武器とする中国はじめ新興国の台頭を警戒し出した。しかし安値品の輸入の恩恵は無視できず、国際機関やG7は、新興国の参加拡大という形で政治的な発言力を許容してきている。しかも最近では、先進国商品の消費市場として、新興国が世界経済の牽引役を果たしている。挙句、先進国における不良債権問題が未解決であることによる経済不振が、新興国に対しては需要減少という形で直接跳ね返るなど、グローバリゼーション化が進んで世界経済の一体性が明確になっている。つまり、世界は一つのショックに非常に弱いというリスクを抱えることになった。
一方、G20など大勢の参加する会議ではリーダー不在のために、実のある政策合意を形成することが難しく、リスクへの対応策は明確に打ち出せていない。合意され実行されているのは、リスクが現実化した事後に、中央銀行が協調してドル資金の流動性を供与するといった後手策だけである。強いて言えば、米中の2強国の存在感が増しているが、両国とも欧州に財政支援するなどして、世界を仕切る力はない。サブプライム問題以降、米英は自国の自由主義的な政策には自信がなくなっている。EUも経済が右肩下がりとなった状況下、通貨統合を維持できるのか、という根本問題に悩んでいる。
哲学よりも具体的な想像力
結局、先進国は喪失した自由主義的または社会主義的な経済モデルの次を見出せていない。中国など新興国も、これまでの日本に似て、先進国の学習=真似をしているだけで、新しい世界秩序を切り開いているとは言えない。先日も、ケンブリッジ大学に集まった経済学者が、自分たちの無力さを自覚したとの記事が「FT」紙に掲載されていた。英米も日本も2大政党の政策に大差ないということには、こうした背景がある。保守とリベラル、自由主義と社会民主主義、そういった対立軸だけでは、現実問題の解決はつかない。
しかし、筆者は、この状態をとても健全であると考える。どの国民も平等な立場で、何が良いかを議論できるようになったからである。インターネットは、政治家やマスコミが独占していた公開での議論を一般市民にまで広げ、国民は、哲学よりも具体的な問題の解決能力を世界的な視野で見ている。オバマ米大統領の「核兵器なき世界」は確かに理想としては良いが、具体策では緒に就いたばかりだ。キャメロン新首相も具体的な問題解決提案は弱いように思う。結局、世界が戦後からサブプライム問題までに学んだことは、何か一つの哲学や思想で世の中を仕切ることは難しいということである。そうなると、具体的な問題解決の個々の積み重ねこそ重要ということになる。そのためにもっとも要求されるのは、具体的にイメージできるという想像力だ。
具体的な想像力とは
試行錯誤と検証によって、問題解決を可能にする真理に近付くことができるというのが、英国のプラグマティズムである。簡単に言えば、今のベストの知識経験を生かして、いろいろやって見よ、ということだ。ただ、重要なことはやみくもにトライするのではなく、あたりをつける、すなわち具体的な問題について、それが現実化する前に具体的で詳細なイメージを持つということである。例えば日本の高齢化社会をイメージするとき、長生きするのは女性である→ロンドンではお婆さんの2人連れをよく見る→彼女らの居場所はベンチなどだが、溜まれる場所として日本の病院や銭湯の機能が英国にないのはなぜか→それに代替する施設はできないか、という具合である。
現場に出掛け、現場でヒントを得て、徹底的に調べる、その上で、過去に捕らわれず、人間の動きを自由に発想して具体的なイメージをイマジンすること。どの国も、いや人も、今の時代は、そうした想像力を働かせることができるチャンスがあるので、暮らしにくさも幾分軽くなっているのではないか。
(2010年5月26日脱稿)
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