100回を振り返って
連載が100回目となったので、過去の文章を整理してみた (別表参照)。これを眺めて思うのだが、ベルリンの壁崩壊に続く新興国の勃興、世界貿易の拡大、グローバリゼーション、それを支えるリスク・マネーと金融の拡大やIT技術(特にインターネット)の進歩、バブルの生成と崩壊といった大きな流れの中でいろいろなことがあった。しかし根本問題は、この4年間で結局あまり解決されておらず、持ち越されているのだ。
未解決の根本問題とは、第一に金融関係では、サブプライム問題が金融から経済全体の活動の問題へと変質してきているように、金融と実体経済の大きな振れやそれを起こす金融機関行動との相関関係を、人類は制御できていないということである。バブルの生成と崩壊は、歴史的に何回も起きていて、今回もこれを人類は防ぎきれなかった。その結果、苦しむ人が大勢生まれていることはご存知の通りである。これは日本の不良債権問題を経験した筆者には非常に既視感のあることだ。問題の所在は、アダム・スミス、ケインズ以来つとに意識されてきたが、解決法となると経済学者の間でも定見がない。
第二に食料、エネルギー、環境という人間の生存にかかる問題が世界規模になったが、有効な解決策はいまだなく、その間に金融の対象とされ、市場のバブルの生成と崩壊の原因となったということだ。また国民国家や、そうした国々による国際協力の問題解決能力が疑問にさらされている。帝国の復活、ナショナリズムや保護主義の勃興、国連や国際通貨基金、国際決済銀行の能力といった古い問題が、やはり解決されずに残っているのだ。欧州連合のチャレンジも途上にある。ローマ帝国の崩壊、国民国家の成立、帝国主義、植民地支配、全体主義の終焉といった過程を経て、第二次大戦後、とりわけ冷戦終了後は国際的な協力の下での秩序というものが確立されたように見えていたが、苦しい経済状況の下では他人の面倒まではみていられない、という厳しい現実は依然残っている。
第三には、IT技術、生命バイオ技術が大きく人間生活を変えつつあるが、その行方がまだ見えないということだ。グローバリゼーションは、ITなくしてはありえなかったと考えられるが、IT技術の発展がなければ今回のような世界同時のバブルもありえなかったとも言える。諸刃の剣の使い方を、人類はいつかマスターできるのだろうか。
第四には、日本経済の苦しさと日本政治の貧困である。これは首相が当事者能力を失い、目先の問題の解決すらできない日本の現状をみれば、言うまでもないことであろう。
幕間劇と本質隠蔽の危険
どうして、世界は直線的に問題解決に至らないのであろうか。いずれも、もともと難しい問題であるという側面はある。しかし、ITによる情報過多と大量消費化が、実際に苦しむ人々の苦しみを消費される映像、娯楽へ転化させて、分かったような気にならせて、問題解決への悩みを鈍らせているのではないか。インターネット、CNNによる戦争の映像化についてよく言われたことだが、金融の世界でいえば、今回のバブル崩壊も当局ですら責任を取らないし、財政負担や中央銀行の流動性供給に対して痛みや呵責(かしゃく)や、ギリギリの決断のニュアンスがない。「しょうがない」というニュアンスしか、キング総裁やブラウン首相の説明からは感じられないのだ。
環境問題も、ゴア氏などの真剣さを疑うものではないが、自分の生活に直結する問題と考えている先進国の人は少ないのではないか。情報と映像で知覚することで足りるとし、問題解決に至らぬまま各種のイベントをみているうちに、人知れず本質的な危機が迫っている、という構造があるのではないか。
4年間を振り返り、本当の問題は、この「本質隠蔽と日常安住」にあると考える。それに対する異議申し立ては、ニューヨークの9.11やロンドンの7.7といった日常に起こる狂気とも思える事件や、ツバルの浸水に見られる異常気象なのだろう。そうした出来事の底にある流れを見極め対応するためには、20世紀をきちんと見つめ直すことが必要と思う。第一次大戦、全体主義、第二次大戦、パクス・アメリカーナと社会主義の対立、今般の資本主義の行き過ぎとバブル崩壊、中でも先進国の豊かさの中の精神的荒廃はもっと重視されていい。
日本は本当に苦しい
この状態は、日本では顕著にそして病理的に表れているように思われる。教育訓練のされていないフリーター、派遣労働者、中韓に対する偏狭なナショナリズム、マニアックな文化の隆盛、精神科やカウンセリングの隆盛、自殺率の高さ。今すぐ食べるのには困らないという豊かさを国民の大多数が享受しているということが、こうした状態を生んでいるのではないか。享受していること自体は悪いことではないのだが、日本経済の効率化は豊かさを生む一方で、とうふ売り、左官屋、内職仕事、洗い張り等々の職業をなくし、ますます機械化、IT化を進めつつある。
しかも失業者がまた別の仕事に就くことができるだけの訓練、教育は十分でない。このため失業し、派遣になるのだが、それでもアフリカのように飢えるということはない。親の保護もある。食うに困らなければ、またそこにネット、ゲーム、テレビがあれば、気を紛らわすことはできる。
プロレタリア文学作家の小林多喜二が書いた「蟹工船」では、労働者の連帯や家族が支えになっているが、今の日本ではフリーター同士に連帯はなく、親のスネをかじるばかりである。政府の過保護と軽さは、コインの表裏だ。こうなった以上、一朝一夕に問題解決はしない。今後読者と共に考える「よすが」として、このコラムも次号からより問題解決の視点を織り込んでいきたいと考えている。
(2009年2月1日脱稿)
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