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Sun, 24 November 2024

湖水地方で生きる人々

朝起きて、部屋の窓を開ければ鳥のさえずりが聞こえる。ゴミひとつ落ちていない路上ですれ違った人が、優しく微笑んでくれる。大きな夕日が湖面にゆっくりと沈む光景を見届けて、1日の終わりを確認する。世界中から押し寄せる膨大な数の観光客を温かく迎えながら、古き良き牧歌的な風景を保ち続ける場所、湖水地方。この地方だけに残された、現代人が失いつつある「何か」を求めて、湖水地方の成り立ちとそこで生きる人々の話を聞いた。

1750-1850ワーズワースが住んだ土地
ボートの船長と、詩人の家に暮らす館長

夢心地の風景

16の湖と500の池が輝く観光地としての湖水地方の歴史は、ある1人の詩人とともに始まった。彼の名前はウィリアム・ワーズワース。英国北部特有の険しい自然環境に囲まれたこの地域に鮮やかな色合いを与えたのが、彼の詞であったといっても過言ではないだろう。

アルズウォーター湖水地方の北部に位置するアルズウォーター湖。この湖のほとりで、ワーズワースが名作「水仙」を詠んだと伝えられている。ここでボートを運転する船長のロバート・ファラムさんは、船長室から覗く景色を指差しながら、まるで彼がその姿を実際見たかのように、ワーズワースが散策したコースをこと細かく教えてくれた。「ワーズワースが歌に詠んだ湖で船を運転する気分というのは、とにかくもう夢心地だね。たまに自分の頬をつねって、どれだけ自分が幸せかって言い聞かせてやるようにしているんだ」と嬉しそうに話すファラムさん。湖水地方を語る上で、ワーズワースの存在は非常に大きな意味を持つようだ。

水仙
谷また丘のうえ高く漂う雲のごとく
われひとり彷徨い行けば、
折しも見出でたる一群の
黄金色に輝く水仙の花、
湖のほとり、木々の下に、
微風に翻りつつ、はた、踊りつつ。
(略)
(田部重治訳『ワーズワース詩集』より)

Daffodils
I WANDERED lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host, of golden daffodils;
Beside the lake, beneath the trees,
Fluttering and dancing in the breeze.


robertアルズウォーター蒸気船
Ullswater Steamers

13 Maude Street, Kendal
Tel: 017684 82229
http://www.ullswater-steamers.co.uk
船長のファラムさん。勤務外の時間は湖水地方の遺跡ストーン・サークルについての本を執筆しているという

湖畔詩人が生んだロマン
ワーズワースが死を迎えるまでの37年を過ごした家、ライダル・マウント。小高い丘の上にあるこの家は、太陽の光が一斉に降り注ぐ湖の景色と、まるで森の中に隠れたかのように木々が生い茂る庭を持つ。ワーズワースはこの庭の設計を自ら手掛けた。敷地を管理するピーター・エルキントン館長によると、ワーズワースは「大自然こそが自分の書庫である」と語ったと伝えられ、この自然との共存生活が後に「湖畔詩人」と呼ばれる彼の作品を作り出す源泉になったという。

鳥のさえずりに問いかけた詞
エルキントンさんは、ライダル・マウントの裏庭に置かれた朽ち果てた小屋まで案内してくれた。ワーズワースはここで自分が作った詞を鳥に聞かせていたという。そして鳥たちが返すさえずりで作品の出来栄えを判断するという、おとぎ話のような生活を送っていた。そんな毎日がロマン主義と呼ばれる彼の作風を築き上げ、作品の舞台となった湖水地方の存在を世に広めることとなった。

ワーズワースが自ら設計し、愛し続けたという庭

peterライダル・マウント
Rydal Mount and Gardens

Rydal, Near Ambleside, Cumbria
Tel: 015394 33002
http://www.rydalmount.co.uk
ライダル・マウントから続く道に立つ館長のエルキントンさん

1800-1900産業革命が生んだ大自然
アート&クラフツ資料館スタッフ

娯楽としての旅行の誕生

湖水地方の歴史は、奇しくも産業革命という波に乗って花開く。「1847年に湖水地方の中心となるウインダミア駅に鉄道が開通して、娯楽としての旅行が生まれます。それまでの単純な移動のための旅から、景色を鑑賞する、見識を広げるための旅行という概念が出来たのです」と、ブラックウェル館館長のハーヴィー・ウィルキンソンさん。同館は、湖水地方の成り立ちを語る上で重要な、アート&クラフツと呼ばれる社会運動から生まれたカントリー・ハウスとなっている。

新たな流行としての旅を楽しむため、産業革命の産物である鉄道に揺られ辿り着いた湖水地方。都市の喧騒から逃れた旅行者が、未開の地で過ごす束の間の休息。ロンドン、マンチェスター、リバプールといった地域では次々と都市問題が噴出するなか、この地に降り立った者が手付かずの自然を守りたいという思いを強くしたのは、想像に難くない。

やがて大量生産を使命とする産業革命へのアンチテーゼとして、地域の自然や文化を尊重し手仕事に重きを置くアート&クラフツ運動が生まれる。これに思想家のジョン・ラスキンや多才な芸術家であったウィリアム・モリスら著名人が賛同し、運動は広まっていった。

ブラックウェル館
左:ブラックウェル館にある思わず日本の建築を思わせるような引き戸。休暇を過ごすための空間作りを目的としたため、遊び心に溢れた設計になっている。
右:地元の家具職人集団Simpsons of Kendalが製作した椅子の模様。大量生産できないため単価は決して安くないが、地元の人は地域独特の天候や地盤をよく知っている彼らの仕事に信頼を寄せている。

矛盾を抱えたアート&クラフツ
ブラックウェル館の日本語担当である石黒さんが、説明を付け足してくれた。「人間性を疎外する産業革命への反動として始まったアート&クラフツでしたが、ブラックウェル館などのカントリー・ハウスを含む地元職人の手仕事によって作られた湖水地方の邸宅は、実は産業革命の中心で生きる実業家の依頼によるものがかなり多くあります。アート&クラフツは、産業革命家たちによって支えられたという皮肉な面を持っているのです」。都市で暮らす有産階級の大自然への身勝手な憧憬、資産を持つがゆえに生まれた後世への責任感。これら様々な要素を、湖水地方は吸い込んでいくことになる。

herveyブラックウェル館
Blackwell the Arts and Crafts House

Bowness on Windemere Cumbria LA23 3JT
Tel: 015394 46139
http://www.blackwell.org.uk
ブラックウェル館館長のウィルキンソンさん

カメラがない時代の写真撮影
camera趣味としての旅行が始まったばかりの頃、「クライフ・ステーション」と呼ばれる展望台が湖水地方に建てられた。1773年に発行された旅行ガイドに同展望台に関する記述があるというので、その歴史はかなり古い。まだ写真が普及していなかった時代、当時の旅行者たちはこの高台の上で、色セロハンを通して異なる季節ごとの景色を想像したり、鏡に反射させることで切り取った風景を脳裏に刻んで思い出に残したという。

1850-1950湖水地方の町おこし
ピーターラビットを愛する館長

童話作家の別の顔

peter rabit英国内の各都市がさらなる発展を遂げるなか、1895年に自然保護団体「ナショナル・トラスト」が設立される。この組織への多大な貢献を果たしたのが、湖水地方の絵本作家ベアトリクス・ポターである。

可愛げなウサギのキャラクター、ピーター・ラビットの作者として知られるポターの人生は多彩である。自身が39歳の時に発表しヒットした作品の印税で、ヒル・トップと呼ばれる農場を購入。これがきっかけで農業に目覚める。彼女の農業に対する情熱と学習能力は異常なほど抜き出ており、羊の交配テクニックを競うコンテストでは賞を総なめ。あまりの圧勝ぶりに以後は審査員に回されたという逸話が残っている。また農業だけでなく自身の作品のキャラクター・グッズの販売を企画したり、B&Bと呼ばれる形態の宿泊業を推進するなど、当時としては画期的な方法で地域の発展に貢献した。

未来へ捧げた全財産

ベアトリクス・ポターの世界これらの活動を通して得たお金で、ポターは盲目的といっていいほどに湖水地方の膨大な土地を買い集め、そして自ら環境保全に努めた。そして死後は4000エーカー(約480万坪)にも及ぶ土地をナショナル・トラストにすべて寄付し、湖水地方の英雄となった。これが絵本作家ポターのもう1つの顔である。ピーター・ラビットの物語を再現した「ベアトリクス・ポターの世界」のリチャード・フォスター館長は「ポターは彼女の不動産購入の手続きを請け負った事務弁護士と結婚して、ヒル・トップの農場からキャッスル・コテージと呼ばれる場所に移り住みます。しかし作家としてインタビューに応じる時は、いつも必ずヒル・トップに戻っていた。当時の人々は、絵本作家のポターと、地域発展のための活動家としての彼女が同一人物ということさえ知らない人も多かったんじゃないかな」と振り返る。

農業という自然との直接的な関わり合いで得た発想を基に童話を描き、その利益をまた愛する土地に返したポター。それは晩婚のため、子供を持たなかった彼女の未来への贈り物だったのであろうか。

richardベアトリクス・ポターの世界
World of Beatrix Potter

Bowness on Windemere Cumbria LA23 3JT
Tel: 015394 46139
http://www.blackwell.org.uk
ブラックウェル館館長のウィルキンソンさん

2006-これからの湖水地方
ナショナル・トラスト管理人と
ホテル業者、旅行ツアー経営者

未来を見据えた町作り

farrintonナショナル・トラストの管理人として区域内の森林を見守るファリントンさんは、環境に配慮した管理を行っている。そのうちのひとつが「ヘッジレイング」と呼ばれる手法。羊、牛など野生の動物を放し飼いで飼育するには生垣を作る必要があるが「ヘッジレイング」は、言わば天然の生垣を作るための伝統的な農法なのである。まずは木を根っこから切り取り、次々と地面の上に重ねる。次にそれぞれの枝を結ぶことで木々を束ね、木くぎで止めて野生の生垣を作る。まだ針金やコンクリートがなかった時代に生まれた、環境に優しい歴史の知恵である。野山に住む小鳥たちはこの木々の下に巣を作り、ネズミやヤマアラシなどの隠れ家にもなるというわけだ。

やはり歴史を受け継いだ手法を用いるのが一番なんですね、と問うとファリントンさんは意外にも首を振った。「ナショナル・トラストは、過去を保存することだけに力を注いでいる思われがちですが、そうではないのです。私たちの仕事は地元の人々、またここを訪れる旅行客の声を聞くことです。彼らがどういった町に住みたいか、訪れたいのかに耳を傾ければ、自ずと答えは導き出されます。一番大切なのは、未来を見据えた町作りなんです」。

地域社会との共存

一見、環境保全とは対極の位置にありそうなホテル業界からの意見をくれたのが、「イングリッシュ・レイクス・ホテルズ」のコリン・フォックスさん。「ホテル経営を始めるにしても、景観を保つための厳しい規制により高いビルを建てたり、周りの風景から突出した外装にすることが禁じられています。そもそも新しい建物を建てることの許可がなかなか下りないのです。私たちが経営するホテルのひとつはこの地域では最大規模ですが、それでも部屋数は110室ほど。大都市からのお客様に自慢できるほどではないですね」と苦笑い。このため大きな資本を持つ企業が占有してしまうことがないので、個人経営の店まで旅行客が行き渡るという利点も教えてくれた。

colinイングリッシュ・レイクス・ホテル
English Lakes Hotels

Low Wood, Windermere
Tel: 015394 33773
http://www.elh.co.uk
イングリッシュ・レイクス・ホテルズの
フォックスさん

stevenリンデス・ハウ・カントリー・ハウス
Lindeth Howe Country House Hotel & Restaurant

Lindeth Drive, Longtail Hill, Windermere
Tel: 015394 45759
http://www.lindeth-howe.co.uk
笑顔が印象的だったブロートゥンさん

土地の美しさの秘密

ツアー会社「マウンテン・ゴート」を経営するグラハム・ウィルキンソンさんは言う。「湖水地方で働く人のほとんどは、この地で生まれていないと思います。でも皆、湖水地方に憧れてやってきて、土地の魅力を肌で感じながらこの地を愛するようになる。そしていつのまにか、地元の人になってしまうんです」。

「私たちのホテルでは宿泊客をすべて囲い込むようなことはせず、時間が許せば他のレストランで食事をして、近くのおみやげ店にも寄るように勧めています」と朗らかな笑顔で語るのがリンデス・ハウ・カントリー・ハウスのスティーブン・ブロートゥンさん。競争意識が欠如しているのではと訝りたくなるほどの考えの持ち主だ。「競争というのは、自ら積極的に作らなくてもいくらでもある。他の観光地との競争。旅行以外の娯楽との競争。ご近所同士で争わずに、地域一体となってより大きな課題に取り組むことが大切なんです」とまた笑った。

grahamマウンテン・ゴート
Mountain Goat Ltd

Victoria Street,Windermere
Tel: 015394 45161
http://www.mountain-goat.com
休日が一切なくなる旅行シーズンを前に、今は毎日の散歩を楽しんでいるというウィルキンソンさん

確かに取材中、これら「地元の人」からあきれてしまうくらい何度もワーズワースやポターにまつわるエピソードを聞いた。彼らはこの土地を誇りに思っていて、町作りに対する確固とした意識を持っている。そして常に湖水地方の精神ともいうべきものと照らし合わしながら、町全体にとって何が必要かを考え、実行していく。それはポターが湖水地方の自然を守るために、次々と新しいアイデアを実現した姿と重なる。

蛇足になるが、今回話を伺った多くの人たちは、日本人観光客が慌しい旅行日程をこなす様子に驚き、そしてほのかに嘆いていた。観光地としての湖水地方の礎を作ったワーズワースがのどかな散策を好み、鳥たちに向けて歌を詠んだ姿とは対照的である。次に湖水地方を訪れる時は慌しい毎日から抜け出して、地元の人々と共にこの地を優しく愛でる時間を作ってみてはどうだろう。



 

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