2003年に発表されて以来、急速に押し進められているIDカード・データベース導入計画。「プライバシーと自由の侵害だ」と非難されながらも政府が強力プッシュするこの計画に、まずは在英外国人がテスト・ケースとして採用されるというからには、なんら他人事ではない。そこで、約半年にわたってこの計画の反対運動ミーティングなどに潜入してきた筆者が、監視型社会へ突入しようとしている英国の、情報管理計画の実態を紹介する。
(写真・文 / Miki Yamanouchi)
IDカード・データベース計画とは?
個人の行動を把握することで社会を円滑に運営し、犯罪防止に繋げるという構想のもと、政府が具体化を進める個人情報のデータベース化、「National Identification Register(NIR)」。実現すれば、住所氏名のほか、瞳の虹彩や指紋、顔写真などの生体認証、さらには経済状態や病歴などの情報までもがコンピューターで保存・参照できるようになる。携帯の義務づけが検討されているIDカードにはマイクロチップが内蔵。NIRのデータへアクセスすることで身元確認がスムーズに行えるため、テロ対策として特に期待されている。一方で、不法労働者や移民といった外国人居住者の取り締まりも効率的に実施できるようになる。欧州経済領域(EEA)の非加盟国出身の学生ビザと結婚ビザ保持者は、今年11月からIDカードの登録・所持が義務づけられると先月発表されたばかり。そう、ずばり在英邦人も当てはまるのだ。
IDカードを巡るこれまでの流れ | |
2003年11月 | 内務省がIDカード導入計画を発表 |
2004年5月 | IDカード反対市民団体、NO2IDが活動開始 |
2004年 | 逮捕者からのDNAサンプル採取がイング ランドとウェールズで可能に |
2004年2月 | 生体認証付きIDカード法案が下院で224対64で可決 |
2005年12月 | 英国の全児童の個人情報データベース(後のContactPoint)設立開始を08年までに行うことを政府が発表 |
2006年3月 | IDカード法案が上院で可決、アイデンティティ・カード法として成立 |
生体認証付きパスポートの発行開始 | |
2006年12月 | NIRを新システムで1本化せず、存在する3つのシステムに分けて保存することが決定 |
虹彩スキャンのカード搭載は見送りに | |
非EU国からの移住者の場合は虹彩スキャンも加え、08年からの登録開始が決定される | |
ヒースロー空港で虹彩スキャンと指紋チェックを採用したファストトラック・システムが試験的に導入される | |
2007年5月 | 患者の医療履歴を全国規模で保管するNHSデータベースが始動 |
2008年2月 | ヒースロー空港ターミナル1の国内線利用者の指紋採取と顔写真撮影が開始される |
2008年3月 | スミス内相によるIDカード導入スケジュール修正版発表 |
これからのガイドライン | |
2008年11月 | 欧州経済領域(EEA)への非加盟国出身の在住者への学生ビザ、結婚ビザ保持者へのIDカード登録・所持義務づけへ |
2008年末 | ContactPoint(18歳以下の全児童データベース)が完全に始動 |
2009年 | 空港などで勤務する人々へのIDカード発行へ |
2011年 | 滞在ビザ発給・延長の申請者へのIDカード発行 |
生体認証付きパスポートの新規・更新申請者の自動的なIDカード登録 | |
2015年 | 全外国籍保持者の90%のID登録、カード発行完了へ |
2017〜 2019年 |
全英国人のID登録、カード所持義務化が完了へ |
カードの背後に、巨大データベース
正式にはNational Identity Management Systemと呼ばれる、通称「IDカード計画」。従来の身分証明書とは違い、個人情報を電子化しコンピューターに登録、政府が管理するシステムと連結させるというもの。NIRには住所氏名はもちろん、警察との接触歴など50カテゴリーもの個人データが保存され、常にアップデートされる。カードには指紋・顔写真などの生体認証が付けられ、身元確認とともに、NIRに保管されている個人データの照会が可能に。建物の出入りや交通機関の利用など、生活のあらゆる場面で対応スキャナーが導入され、エントリー記録がデータベースに保管されることも考えられる。NIRはさらに、内務省に許可された外部機関とのデータシェアが認められており、運転記録や診察記録といった他データへのアクセスも、当人の許可なしで行うことが可能になる。
気になるコスト
最低限のコストとして、政府は5.8兆ポンド(約1300兆円)を算出。一方、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)が出した見積もり額は、それを遥かに上回る28兆ポンド(約5300兆円)であった。これはカード解析ソフトに対応するコンピューター・システムを、政府の各部署に導入するコストを見据えた結果だ。結果的に加算される税金は、現在、国民一人当たり200ポンドと見積もられている。
情報を「買う」コストは | ||
選挙人名簿の登録者 |
£17.50
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犯罪記録へのアクセス |
£500
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携帯電話ユーザーの住所 |
£75
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銀行口座のデータ |
£750
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右の数字は探偵調査会社が警察に明かした、情報収集に対するクライアントへの請求金額。しかし、情報の提供・公開に値段がつくのは探偵の世界だけではない。膨れ上がるデータベースのコストを考慮し、政府関係者は個人情報の照合を銀行などに許可することで、5億4000万ポンドの年間運営費の埋め合わせを計画(「デイリー・ミラー」紙、2007年3月)。チェック料は1回あたり60pとされ、これで年間、7億7000万ポンドの「検証」代が稼げるという見込みだ。
気が付けば全てがデータ管理に?
英国の人口は約6000万人。この莫大な人数からデータを収集するのは並大抵ではない。まずは登録を促すシステムと、登録所の確保が必要だ。そこで、アイデンティティ・アンド・パスポート・サービスの管轄下、身元偽造を防止する目的で、パスポート申請の際に質問と指紋採取などを行う、通称「Interrogation Centre」の設置が開始された。イングランド東部に位置する街、ノーウィッチを皮切りに全国69カ所に設置予定で、運転免許証を取得する場合にも同じようなシステムを導入することが検討されている。
一方、病院では……迅速なサービスと医師の理解を助けるという目的で、NHSの個人の医療カルテはすでにデータベース化されている。こちらは本人の異議がない限り、診察を受けた人は特に確認もなく自動的に登録される。IDカードが実現すれば、リンクさせることで情報がシェアされる可能性もある。
一方、空港では……搭乗手続きの簡素化を図る目的で、06年からヒースロー空港にて試験運転された、「MiSense」。 指紋と瞳の虹彩(アイリス)をスキャン登録し、出入国ゲートで認証させるというものだ。16週間のトライアル期間では、3000人以上の旅行者が任意で参加した。今年2月からは、ヒースロー空港ターミナル1の国際線ラウンジ利用者と、国際線から国内線を利用する旅行者の指紋スキャンと顔写真撮影が義務化されている。この生体認証の記録は24時間で破棄されると発表されている。
ドイツ
PINナンバー搭載のIDカードあり。政府がIDカードに登録されている個人データをシェアすることは、法律で禁止されている
ベルギー
05年から欧州で初のeIDカード導入。09年には全国民の登録を目標にしている。データは中枢化されていない
スウェーデン
05年10月からeIDカード導入
スペイン
06年よりeIDカード(電子チップ搭載)の導入開始、携帯は義務
南アフリカ
IDナンバーとバーコードが記載されたIDカード。義務ではないが、多くの国民が常時携帯している銀行口座、犯罪歴、投票歴、運転免許証ナンバーなどにリンクすることができる
シンガポール
National Registration Identity Cardの登録義務あり。公的機関の手続きや建物の出入りに必要。他国と違い、所持者の人種も記載される
個人情報が全て記録されるうえ、閲覧許可さえあれば誰でも見れるんだよ。内部の人間が収賄されて情報を流すということも考えられるし……。 | |
でも、今みたいに比較的簡単に身元を偽って詐欺を働くなんていう手口が防止できるんじゃない? | |
今の政府が信頼できるからといって、次の政府がそうだとは限らない。反対に、いくら社会情勢が変化しても、このシステムは継続するんだ。 | |
わたしはこの政府を支持しているし、今までのやり方を見た限りでは、個人情報が勝手に利用されるなんて考えられない。 | |
カードに対する過剰な信頼のせいで、逆に日常の警戒網が緩んだりしないかな。 | |
予想もつかない事件が多発しているこのご時世、このカードがテロ防止に役立つのなら、賛成だな。 | |
人間が作るんだから、人間がコピーすることは絶対に可能。逆に、この1枚さえあれば大掛かりな詐欺が働けるだけに、裏の世界でも腕まくりして偽造に取りかかるはず。 | |
現代のテクノロジーを集結して作ったハイテク・カードなら、コストは高そうだけど、その分偽造も不可能に近そう。 |
ここ数年、公的機関の「うっかりミス」でデータの紛失事件が続出。情報がますますコンパクト化し、1枚のディスクやカードに膨大な量が凝縮されているからこそ、管理を一歩間違えれば、それだけ被害も拡大する。個人情報を他人に預けても良いのか──私たちのそんな不安を煽るように起きた近年の事例を挙げてみよう。
1億1000人分のカードが行方不明に
防衛庁は今年3月、紛失・盗難によって行方不明になった軍人のIDカードが、過去2年間で1億1000人分にも上ると、下院への答案書で明かした。今年1月には、バーミンガムで15万人の軍入隊志願者の個人データが入ったラップトップが盗まれるという事件が発生。盗難にあったラップトップは、海軍士官が一夜駐車していた車に放置されていたという。
内部スタッフによる情報漏洩
06年8月、アイデンティティ・アンド・パスポート・サービス(IPS)で、同機関のコンピューターに内部スタッフが侵入していたことが発覚。機密保護違反で解雇処分になったことを内務省担当者が認めた。同担当者は、外部からの侵入は一切なかったことを強調。IPSはIDカード・データベース計画を立ち上げている機関で、約400万人のパスポート保持者の情報が保存されている。内務省の発表では、データベースへの侵入は01年から毎年起きているという。コンピューター雑誌の技術担当者によると、昨今のハッカーのトレンドは、痕跡を消し、同じルートから再侵入する機会を残しておくことだそうで、だとすれば事件は氷山の一角だという可能性も強い。
チャイルド・ベネフィット(児童手当)給付者の
個人情報紛失
07年11月、Inland Revenue & Customs(歳入関税庁)が、約2500万にも上る給付者の個人データが入ったCDを紛失。チャイルド・ベネフィットとは、16歳以下の子供がいる家庭に無条件で給付される児童手当金で、そのディスクには名前や住所はもとより、生年月日、国民保険番号、銀行口座などが含まれていた。さらにそのなかには、裁判で証言した後、証人保護プログラムのもと、偽名で生活していた約200名の市民の変更前・変更後のデータも含まれていたという。
ガタカ(1997年)
イーサン・ホーク、ユマ・サーマン主演
Gattaca (Special Edition) [1997]
遺伝子工学が発展し、優性遺伝子を持つ人間が尊重される近未来社会において、劣性遺伝子を持って生まれた主人公。他人のIDで身元を偽り、エリート中のエリートしか受け入れない宇宙飛行士の施設に潜り込むが、やがて施設内の清掃で拾われた一本の頭髪がDNA解析され、本来の身元が分かってしまう……。IDカードはもちろん、DNAデータも厳しく管理され、そこから出されたデータに基づいて決められた人生を歩む人間たちの姿を描く。
ドラマ「The Last Enemy」
2008年2月17日~3月16日 BBC1放送
The Last Enemy - The Complete Mini-Series
IDカードで行動が監視され、制御される近未来の英国が舞台。謎の死を遂げた兄のため、真実を追う弟が国際的陰謀に巻き込まれていく。IDカード制度に反対し暴動を起こす市民や、ナノテクノロジーにより人間の細胞に「認識標」を埋め込み、人間を分類する技術が登場。「CCTVカメラやロイヤリティー・カードといったものは、すでに私たちがモニターされている証拠。SFというよりは、予想されうるストーリーとして構成した」とプロデューサーは語っている。
ガイ・ハーバート Guy Herbert
オックスフォード生まれ。25年にわたり出版業界に身を置き、現在はコンピューター・ゲーム、出版、映画関係のビジネス・コンサルティングをこなす。04年より、ボランティアとしてNO2ID書記官を務める。
IDカード・データベース反対派が2004年に設立した、無政党のキャンペーン団体。現在、4万人の支持者と100を超える団体からのサポートを受け、カード計画の撤回と、06年に成立したアイデンティティ・カード法の無効を訴えている。同団体のウェブサイト内にあるブログ「ID in the News」では、関連ニュースを毎日アップデート。NO2IDウェブサイト: www.no2id.net
現在、政府が進めているIDカード・データベース計画に対して、私たち在英邦人は懸念すべきでしょうか?
もちろんです。政府が提案しているIDカード・データベース計画は、個人情報を電子登録し、監視するためのシステムで、さらにIDカードの携帯を義務化しようとするものです。それによって、一個人全ての生活記録が継続して記録され、モニターされることになります。特に外国人コミュニティが警戒すべきことは、EUの法律で守られていない非EU国出身の外国人を、政府が最初のモルモットとして使おうとしているということです。これを政府は向こう3年間で実行しようとしています。
報告、さもなくば罰金
英国の日本人コミュニティには、ビジネスや勉学などの目的で来英し、まとまった期間滞在する人がかなりの数に上りますが……。
このIDカード登録のシステム実現により受ける影響は、人によって様々でしょう。なかでも一番影響を受けるのは、英国文化を経験する目的の人や、留学生かもしれません。このシステムに一度組み込まれると、滞在先や所属学校先を、たとえ短期間の変更でも逐一報告することが義務化されます。それを怠けるとかなりの額の罰金が発生しますし、カードの発行費用は自己負担。何よりも、プライバシーがなく、常に不審人物であるかのような扱いを受けるのは、誰にとっても望ましくない環境と言えます。
プライバシーの観点からもう少しお聞かせください。
今回の法案に含まれる「UK Border Effect」という規定には、記録された個人データは全てデータ・シェアの対象になるという要旨が含まれています。例えば、ある組織、もしくは役人・職人からの情報提供の要請があったとして、内務省が提供に適していると見なせば、個人の情報は簡単に右から左へと渡されます。そしてデータはその人間が英国を離れた後や死亡後も残され、将来の「参照用」に保管されることになっています。
IDカードは世界的なファッション
英国政府の考えるIDカード・データベースのような制度をすでにとっている国はありますか?
今のところ同レベルのものはありませんが、シンガポールが採用している制度が一番似ていると言えるかもしれませ ん。中東諸国でも類似した形を導入し始めているし、フィリピンもかなり導入に興味を示しています。どうやらこの計画は、世界中の政府間で流行しているようですね。米国では、運転免許システムと連動する、「Real ID」と呼ばれるデータベースの管理とシェアを可能にする制度が検討されていますが、およそ半ダースほどの州が猛反対していますので、実現は今のところないといえるでしょう。
今年11月から非EU国出身の外国人を対象として、IDカードの導入が開始されるとの発表がありましたが、どのように実行されるのでしょう。
ホームオフィスのボーダー&イミグレーションのページを見ると、導入は今年から始まり、対象となる外国人の90%が15年までに登録を完了させるとあります。最初にどの外国人グループが対象になるか、といった告知は今のところありませんが、小規模で政治的に発言力のないグループが対象になると睨んでいます。少数民族や難民という、平たく言えば大騒ぎをしない、またはできないグループです。あくまで予想ですが、例えば在英邦人コミュニティは最初のターゲットとされにくいでしょう。大手企業の会社員ほか、ビジネス界で有力な日本人が効果的な苦情を申し立てる場合がありますからね。
NO2IDの活動をされてきて、どのような手応えがありますか。
推測だけで動かず、事実の裏付けを必ず取りながら活動しています。信頼できる情報を提供し、また、人々の疑問や意見に真剣に耳を傾ける団体として認識されていますし、メディアからも非常に信頼されるようになりました。政府側から何も得られないときは、私たちに新しい情報を求めにくるようになったくらいです。
まず、まわりに事実を伝える大切さ
わたしたち日本人が活動を支援するとすれば、どんな方法があるのでしょうか。
NO2IDは誰でも加入、または応援できます。しかし何よりも一番大切なことは、現在、周囲で起こりつつある事態を知人に伝えることです。多くの人がIDカードの実態を改めて知り、危機感を覚えています。私たちの団体はほとんどボランティアで構成されていますので、募金も受け付けていますし、キャンペーン・グッズを購入して身につけていただく、というのも立派なサポート方法です。
来たる4月8日に大きなイベントが催されるとのことですが、どういった内容ですか。
ロンドン市長立候補者を招き、IDカード・データベース計画を焦点として、管理型社会に対する彼らの姿勢を聞きます。TV、新聞等の報道関係者も多数訪れる予定ですし、一般の方にも公開されます。選挙権のある日本人の方は少ないかもしれませんが、ロンドンで行われる生きた議論ですので、理解を深めていただく良い機会になると思います。
ロンドン市長候補演説会
2008年4月8日(火)19:00
場所:Friends House 173 Euston Road, London NW1 2BJ
NO2ID Office Tel: 07700 5800 651