自閉性障害や知的障害を負う者が、数学や芸術などの分野で常人では考えられないような驚異的な才能を発揮する場合がある。サヴァン症候群と呼ばれるこの特異な能力を持って生まれた英国人男性による自伝「僕には数字が風景に見える」が今年6月に日本で出版されて以来、この不思議な現象に改めて注目が集まっているという。ハリウッド映画「レインマン」の主人公を彷彿とさせる著者は、イングランド南東部ケント州に住むダニエル・タメット氏。「英国のレインマン」と呼ばれる同氏が、電話インタビューに答えてくれた。
(本誌編集部: 長野雅俊)
「数字は僕の友達です」
2桁の数字の2乗、例えば「37×37は?」と聞かれて、即答できる人はそう多くいないだろう。いわゆる「並み」の人間であれば、頭の中で、もしくは不器用に指折りながら繰り上がる数字の扱いに格闘するか、もしくは端から自分の能力をわきまえて電卓の力を借りるしかない。
「英国のレインマン」ダニエル・タメットさんの計算能力は、時に市販の電卓を超える。「37の4乗は?」との問いを投げかけると、間髪入れずに「1874161」との正解を弾き出す。続けざまに「13÷97は?」と聞けば、「0.13402・・・・・・」と小数点以下100桁以上の数字を難なく羅列する。掛け算や割り算だけの話ではない。円周率は2万桁以上を暗誦してしまうし、2012年の5月5日が果たして何曜日になるか、といった計算も朝飯前。彼の脳みそがどのような構造になっているのかは謎だが、とにかく驚異的な能力を持っていることは確かだ。
「数字は僕の友達です」と語るダニエルさんには、私達の目を通したものとは違った形で数字が見えている。例えば「37」は、「お米みたいにつぶつぶの形」をしている。「89」と聞けば、空からポツリと降ってきた小雪のような風景を思い浮かべるという。さらにはそれぞれの数字の性格まで把握しているというから驚きだ。「11」はフレンドリーだけど、「5」は何だかうるさい奴らしい。「最も好きな数字は、物静かで恥かしがり屋の『4』。シャイなところが、自分にそっくりだから」。ダニエルさんの口からは、おとぎ話の世界の住人を思わせる言葉が次々と飛び出してくる。
ダニエルさんと数字との関係は、一般的に「共感覚」と呼ばれる、全人口のわずか1%に満たない数の人間のみが持つ特殊な能力に基づいている。端的に言えば、彼には数字が風景になって見えるのだ。例えば「53×131」という数式があるとする。この時、ダニエルさんには「53」がだるまのような形に、「131」は2つの玉が刺されたくしだんごのような輪郭を持った図形として見えてくる。そしてこの両者の間に出来たいびつな形が、2つの数をかけた解「6943」を示す画像として浮かび上がってくるのだという。掛け算をしている、というよりは、パズル遊びに近い感覚なのかもしれない。
詩的なレインマン
ダニエルさんはこれまで、アスペルガー症候群と呼ばれる軽度の自閉症を抱えながら生きてきた。コミュニケーション能力が欠けているから、相手の気持ちを深く読み取れない。生活習慣の変化を極力避けようとするから、毎朝食べるオートミール粥を秤皿の上に乗せて、きっかり45グラムであることを確認しないと気が済まない。外部の刺激に対して過剰に反応してしまうことがあり、歯ブラシで自分の歯を磨く音のうるささに耐えられない。
不思議なことに、ダニエルさんのように自閉性の障害を抱える人が数学や芸術などの分野で驚異的な能力を発揮する例がたまに見られる。サヴァン症候群と呼ばれる現象であり、1988年に公開され大ヒットしたハリウッド映画「レインマン」の主人公が抱えていたのがまさにこのサヴァン症候群だった。名優ダスティン・ホフマンが演じるレイモンドは、朝はメイプル・シロップをかけたパンケーキとつまようじがなければいつまで経っても落ち着かないし、どんな状況においても決まった時間に決まったテレビ番組を見なければいけないと強硬に主張して、トム・クルーズ演じる弟を徹底的に困らせていた。一方で、電話帳を一度読んだだけでそこに書いてある電話番号などの諸情報を暗記してしまったり、トランプのカードの残り数を覚えてカジノのブラックジャックで大勝ちを収めたりしていた。
ダニエルさんも、このサヴァン症候群の例に当てはまるとされている。ただ映画の中の、首を斜めに傾げながら脈絡のない言葉を何度もせわしなく呟くように繰り返すあのレインマンを想像してしまうと、期待は大いに裏切られる。ダニエルさんは、まるで詩を朗読するかのようにゆっくりと優しく話すからだ。しかも想像力を喚起するような、美しい言葉を好んで使う。落ち着きのある低い声で、上品な英語を操りながら詩的な言葉を所々に挟み込んでいくから、彼の言葉そのものが詩の一節みたいなのだ。思わず聞き惚れてしまいそうになる。
写真)ダニエルさんが描いた絵。彼には円周率までもが風景になって見える
ダニエルさんが映画版レインマンと異なるもう1つの点は、自分自身が何を考えて、そしてどう感じるかをきちんと第三者に説明できるということ。これはダニエルさんの自閉症状がごく軽度なものであるためなのだが、特異な能力を発揮するサヴァン症候群を抱える人間の中では非常に稀なケースだといわれ、医学研究機関から調査対象として引っ張りだこだという。「僕の場合は自閉症といっても軽度なので、ほとんど普通の生活を送ることができます。確かに、人が大勢集まるスーパーマーケットのような場所には気持ちが不安定になってしまうので行けないし、車の運転も絶対にできない。でも僕は自分がどういう環境を苦手とするかを知っていて、そういった場所を出来るだけ避けて毎日を過ごす方法を学んだので、特別な不便さはもう感じないのです。むしろ、いわゆる健常者でもなかなか実現できないような素晴らしい人生を送ることができていると思っています」。
写真)20世紀最大の物理学者アルバート・アインシュタイン博士がかつて使用した黒板の横で円周率を暗誦するダニエルさん
「誇り」を得るまでの道のり
英国では昨年から発売されていたダニエルさんの著書「Born on a Blue Day」の日本語訳版「僕には数字が風景に見える」が今年6月に出版され、日本でも今、評判になっているという。ダニエルさん自身による「素晴らしい人生」との評価に反して、本の特に前半部分には幼少期に受けたいじめやその際に覚えた孤独感を描いた箇所が多く見受けられる。こういった過去の辛い思い出や感情に改めて直面して、心的な負担にはならなかったのだろうか。「いいえ。執筆しながら感じていたのはむしろ誇りでしょう。自閉症という困難を抱え、寂しさに負けそうになっていたあの小さな男の子が、今では仕事を見つけて、生涯を共に生きたいと願うパートナーを得ることまで出来たのですから。よくここまで来たな、と感慨深い気持ちになりました」とまた一つ一つ、言葉を選びながら答える。
ただ「誇り」を感じるまでには、長い道のりがあった。幼少期は、とにかく異常なほど泣いてばかりで家族を心配させた。そして4歳の時に、突然てんかん発作を起こす。ダニエルさんのご両親にとって初めての子供であったということと、今ほどてんかん発作についての予備知識がない時代の話。生命の危険についての心配はもちろん、周りの子供との明らかな違いに大いにうろたえた両親の間には、しばしば激しい口論が発生した。ダニエルさんは、隣の部屋から「ダークブルーな声」が聞こえると、地べたにしゃがみ込み頭を地面につけながら、両手で耳を塞いで時がただ過ぎるのを待ったという。
写真)2万桁以上に及ぶ円周率の暗誦は、5時間を越える長丁場のチャレンジとなった
学校では、友達が全くできない。たとえ話しかけたとしても相手の目を見ることができずに自分の足元ばかりを見つめるなど、他者とまともなコミュニケーションが図れないのだ。他の子供たちから見れば無口で無反応、そして奇妙とも映るダニエルさんの行動はいじめにも発展した。「まだ幼児の頃は、周りの子供たちの行動なんて全く気にならなかったと思います。でも成長していくに従って、他人の存在が目に付くようになった。そうしたら、僕はなぜかいつも一人ぼっちだ、っていうことに気付いてしまったのです。特に8、9歳の頃からはいつも寂しさを感じていたことを覚えています。だから皆のように、普通になりたいってよく思 っていた」。
そんな彼にとっての唯一の友達が数字だったのだ。周りの子供たちが遊んでいる間、頭の中に浮かぶ個性豊かな数字と戯れながら、1人時間を過ごしていた。彼にとって数字とは、理解のない人間なんかよりずっと親しみやすい存在だった。
違うことを認めてもらえた海外生活
長い間にわたって周囲の世界から取り残されていたダニエルさんだったが、高校卒業後に転機を迎える。英国人の若者を対象とした海外ボランティア事業に応募するのだが、これに見事合格し、英語教師として東欧リトアニアの南部都市カウナスに派遣が決まったのだ。ここで英語を直接話す機会に飢えている現地の人々の歓待を受けて、生まれて初めて友達付き合いというものを学んだ。「自閉症であるかどうかという以前に、何よりも現地の人にとって僕は英語しか話せない外国人ですからね。でもだからこそ、英語教師として僕を慕ってくれる人たちがいっぱいいた。他人と違うということが、初めて肯定的に評価されたような気がしたんです」。肉親と数字がほぼ唯一の理解者であった彼にとって、他者と友人関係を結び得ることを知ったリトアニアでの日々は、大切な思い出として今も残っている。ちなみにこの時、語学の才能まで開花させている。せっかく出来た現地の友達ともっと色々な話をしたいからと、リトアニア語習得を思い立ってからわずか数日で、日常会話が出来るまでに上達してしまったのだ。人並み外れた記憶力を持つ傾向のあるサヴァン症候群ならではのエピソードであろう。今では15カ国語を操り、語学学習サイトの運営を本業とするダニエルさんの驚異的な語学習得能力は、この時に判明したのだった。
こうして1年のリトアニア派遣期間を経て、ダニエル さんは今までに感じたことのない自信を得て英国に戻ってきた。「英国に帰国してからも決して数は多くはないけれど友達が出来るようになって、自分という存在がやっと認められたという安心感を覚えるようになりました。周囲の人間と違うってことは、悪いことではない。皆それぞれ違ったやり方で社会に貢献できることが分かるようになったんです」。周りの人間との違いを受け入れることを覚え、他者と関係を結ぶことが出来るようになったダニエルさんは、やがて生涯の人と出会う。
それが、現在のパートナーであるニールさん。インターネットを通じて知り合い、以来7年間にわたって同棲生活を続けているという。恥かしがり屋で、庭で野菜を育てるのが好き、そしてお互い同性愛者であるなど多くの共通点を持つニールさんとの出会いを通して、他人とのコミュニケーションも以前よりずっと円滑に行えるようになった。前述した語学学習サイトも、コンピューター・プログラマーとして働くニールさんと共同で運営している。
ダニエルさん独特の詩的な語り口調にほだされて、「あなたにとって、愛とは一体どんなものですか」と聞いてしまった。「まず愛に定義があるのかどうか、ということから始めないといけないでしょうね。でも、愛とは何か、との問いについてはこれまでずっと考えをめぐらせてきました。一言で言うならば、『自分自身を誰かに委ねること』でしょうか」。いつも周囲から置いてけぼりを食っていたダニエルさんはついに、自分自身を他者の手に委ねることが出来るようになっていた。
もう一人のレインマンとの出会い
少しずつ、でも確実に周りの世界との接点を見つけ出したダニエルさんは、積極的に社会活動に関わるようになる。彼が24歳の時には英国のてんかん協会に連絡を取り、募金活動の一環として円周率の暗誦記録に挑んで、2万2514桁のヨーロッパ新記録を打ち立てた。またテレビ番組の企画でアイスランドに滞在し、4日間でアイスランド語を習得するという手品みたいな離れ業もやってのけた。自閉症を研究する機関の調査に協力したり、各メディアのインタビューや自伝の出版を通じて一般の人々に自閉症についての理解を促すというのも、今では大事な仕事の1つとなっている。
こうした社会活動を通して出会った人物の中で、ダニエルさんが特に印象に残っている人物がいる。ダスティン・ホフマンが演じたあのレインマンのモデルとなった、キム・ピークさんだ。米国のユタ州ソルト・レーク・シティ生まれのキムさんは、現在55歳。脳梁(のうりょう)欠損症と呼ばれる左右の大脳をつなぐ神経繊維が欠落した疾病ほか脳の各所に障害を負っている一方、1万2000冊もの本の内容を記憶しているという、まさに天才である。「英米のレインマンを会わせよう」というテレビのドキュメンタリー番組の企画によって、2人の会見が実現した。「彼との出会いは非常に印象深かったので、自伝の中でも1章をこのテーマだけに割きました。彼とは『通じ合う』という感覚を共有することができた気がするんです」。キムさんはきっと、ダニエルさんが1人で孤独に抱えてきた感情を、誰よりも理解していた。「彼は僕に、他人と違うことを恐れてはいけないって言っていたんです。そして私より重度の障害を抱えている彼が、様々な形で社会貢献をしようとしている姿を見て心を打たれました」。同じような孤独を感じた人間同士だったからこそ、理解し合える人を見つけた際の喜びもまた格別だったのだろう。
写真) ダスティン・ホフマン演じるレインマンのモデルとなった、キム・ピークさん
© Darold A. Treffert, M.D., and Wisconsin Medical Society
「数字の国」へのパスポート
自閉症や共感覚、またサヴァン症候群といった症状や能力については医学的に解明されていないことが多く、ダニエルさんの脳の仕組みについてもまだ分からないことだらけだという。ただあくまでまだ仮説の域を越えないが、彼が言語やコミュニケーションを司る左脳に障害を負っているために、数学や記憶を扱う右脳がその働きを補足しようとして水準以上の能力を発揮している、という説明が最も説得力を持っているようだ。つまりダニエルさんの特異な能力と自閉症状とは、コインの裏表の関係にある可能性が高いと考えられる。では例えば、その驚異的な計算能力や暗記能力と引き換えに自閉症を治すことができるとすれば、ダニエルさんはその道を選ぶのか。「そうはならないでしょうね。なぜなら、私は治療を必要としないからです。もちろん、今の生活で不便を感じることはたくさんあります。でもだからといって、幸福な生活を過ごせないというほど不便なわけではない。私が考える幸せの形というのは、自閉症を治すとか治さないという話ではなくて、自分自身をどれだけ深く理解することが出来るかってことなんだと思います。自分の特性を生かして、どうやって社会と関わり合うことができるかということを考える方が大事だと今は思うようになりました」。ダニエルさんが続けて言った言葉は、まさに彼の本心を表しているのだろう。「しかも私は、生まれ持ったこの脳をいたく気に入っているんです。『治療する』なんて、とんでもない」。
インタビューをする前から、どうしても聞きたかったことがある。幼い頃友人が全くいなかったダニエルさんにとって、数字は唯一彼を理解してくれる友達であったからこそ特別な意味を持っていた。それでは成人して社会的な役割を担えるようになった今の彼にとって、数字はどんな存在なのだろう。「正直、数字との関係については変化がありました。もはや私の一番大切な友達ではなくなった。きちんとした人間関係を結べるようになってから、実社会で築く関係性の方が大切であると考えるようになりました。でも、数字が私にとって今でも特別な意味を持っていることは確かです。そして私の大切な友達が住む世界と、数字に溢れたあの世界を両方持っていることこそ幸せであるとも思います。どちらかの世界を捨てなければいけない、ということはない。両方の世界を大切にしたい。いわば私は2つの国籍を持っているということでしょうか。私の友達、人間が住む国へのパスポートと、数字だらけの国へのパスポートを持った、二重国籍なんですよ」。最後まで、彼の言葉に酔いしれてしまった。
ダニエル・タメットさん プロフィール
Daniel Tammet
1979年1月31日生まれ、ロンドン出身、ケント州在住。アスペルガー症候群と呼ばれる軽度の自閉症を抱えながら、驚異的な計算能力と語学習得能力を発揮する。2004年3月14日に、円周率の2万2514桁を暗誦しヨーロッパ記録を樹立。同年に「The Boy with the Incredible Brain」と題したテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられ注目を浴びた。2007年6月に自伝の日本語版を出版してからは日本でも大きな話題を集め、現在は語学学習サイト Optimnem(www.optimnem.co.uk)を運営する傍ら、来年の1月に発刊予定の自伝第2作を執筆中。
ダニエルさんが参加するチャリティの詳細
The National Autistic Society(英国自閉症協会)
www.nas.org.uk
The National Society for Epilepsy(英国てんかん協会)
www.epilepsynse.org.uk