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Sat, 23 November 2024

第23回 かつての敵と手を結ぶ。

北アイルランド紛争で世界に名を知られたIRA(アイルランド共和軍)は、「テロ組織」のはしりと言える。紛争が激しかった1970年代は、日本でもIRAが度々ニュースになった。メンバーは当時、銃や爆弾を使って、レストランやホテルなどを何度も爆破。幹部は、覆面姿で「声明」を発表した。そんな様子を覚えている方も多いと思う。

ベルファストの中心部で、IRAの一員だったマイケル・コルバートさん(58)に会った。彼は「40年前は実力行使に英政府を動かす力があった。あの闘争があったから、その後の和平への動きがある」と言う。

縁の細いメガネ、きちんとしたネクタイ姿。柔和な対応は学者然としており、英兵を殺害し長く服役した人物とは思えない。

そのコルバートさんは紛争について「カトリックとプロテスタントの宗派対立。世界の多くはそう思ったが、断じて違う。植民地解放闘争なんですよ」と主張した。

説明は、こうだ。

1960年代以降、アフリカやアジアの国々が相次いで独立した。その過程で、植民地の人々は武器を持ち、英仏など旧宗主国と戦った。アイルランドも1922年に独立するまで、全島が英国に100年以上併合されていた。その支配が最後まで残ったのが、北アイルランドだ、と。

「アジアやアフリカと違い、支配者と被支配者は肌の色や言葉がほぼ同じで、一般的な植民地の印象とは異なっています。でも、世界に冠たる民主主義の国・英国が植民地を持っているのは事実。英政府が宣伝した『宗派対立』は、結果的に、その支配構造を覆い隠す役割を果たしました。多くのメディアも、です」

テロの象徴だったIRAは、2001年から武装解除を始め、2005年に武装闘争放棄を宣言した。彼も自らの主張の正しさを力説しつつ、「もう暴力の時代ではない」と言う。

IRAと敵対するプロテスタント系組織の活動家だったフランキー・ギャラガーさん(58)は、ほかの元活動家と同じように、「住民の和解のために地域活動が最重要」と感じ、それに専念している。

14歳でアルスター防衛連合(UDA)という組織に加盟。「エキサイティングで人の役にも立つ」と純粋に思っていた。そんな最中、彼は筆舌し難い場面に遭遇する。友人が目の前で、英軍に殺されたのである。

「混乱したよ。(英軍は)自分たち側の軍隊なのに」

1人は道の終点で、マシンガンで撃たれた。もう1人はデモを見物中、ポケットに手を入れて立っていたという理由だけでライフルで撃たれた。倒れた彼の手は、ポケットに入ったままだったという。さらにもう1人は、暴動の最中、兵隊に群集の中からつかみ出され、壁に何度も打ち付けられて……。当時、英軍はベルファストで18人のプロテスタント系住民を殺害したとされる。うち5人はギャラガーさんの友人だった。

彼はすさみ、前にも増して暴力に手を染めた。やがて彼は英軍に入隊し、6年間、ドイツ、マルタなど任地を転々とした。その経験が「自分を変えた」と彼は言う。

「違う文化、違う人々、違う世界……。ベルファストがこんなに小さな場所だとは知らなかった。とても大きな世界だと思っていた」

彼は今、地域活動を通じ、敵だったカトリック系住民との和解を進めている。そしてプロテスタント系勢力には「銃を捨てろ」「武器は投票箱だ」と熱心に説く。

政治の表舞台で北アイルランド和平が動きだした1990年代末、そうした動きを下支えするように、対立勢力の地道な交流が始まった。ギャラガーさんたちは、そうした輪の中にいる。

「ファーセット」と呼ばれる地域組織も、その一つだ。ベルファスト郊外に建物を用意し、自動車修理や家具製造などの事業者に貸与。敵だった住民が一緒に働く拠点として成長し、テナント数は40を超えた。

ギャラガーさんは言う。

「自分たちの側からは『IRAの犯罪者と一緒になんて』と言われ、カトリック系住民からは『おまえたちは俺たちの仲間を殺した』と言われる。でも、それを乗り越えないといけない。本当の和解はおそらく次の世代だが、誰にも共通することがある。それは、人は殺されるべきではない、ということだ」

 

高田 昌幸:北海道新聞ロンドン駐在記者。1960年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。
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