第252回 エッピング・フォレストと市民の森
ロンドンとエセックスにまたがるエッピング・フォレストは、24平方キロメートルを超える古代から続く巨大な原生林地域です。1878年からシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションがその管理を行っていますが、シティの行政区の広さがわずか3平方キロにも満たないというのに、一体どんな経緯があって自らの8倍を超える広さの原生林を管理するようになったのでしょうか。それを理解するためには英語の単語の復習から必要のようです。
エッピング・フォレスト
日本語でいう一般的な「森林」は英語で「Woodland」を使い、「Forest」は「御猟林」の意味で使われます。御猟林とは王室所有の森林です。Forestの語源はラテン語の「Foresti s Sil va」、つまり「Fori s」は「外の」(=Foreignの由来)と「Silva」の「森」で「外の森」です。「外の森」とは、800年にローマ皇帝にもなったフランク王国のカール大帝が使い出した「フランク王国の法律の外にある王室領」という意味です。
王室所有のウィンザー城の南にも巨大なフォレストが
1066年にウィリアム征服王が英国に持ち込んできた概念がまさにこの「外の森」でした。仏・ノルマン公国出身のウィリアム王にとっての森林は、自分が狩猟を楽しむ土地を意味しましたが、それは実際に狩猟をする場所だけでなく、狩猟対象のシカが生息する低木地や草原を含みました。さらに王室に献上するための材木や森の食材、キノコや木の実などを採取する場所も含まれるようになり、Forestの意味が拡大されていきました。
狩猟をするウィリアム征服王
1066年の征服より前に住んでいた地元民にとっては生活の場所が突然、王室の所領とされ、とても困りました。13世紀初めにはイングランド南部の3割を占めるまで拡大されたため、諸侯が反抗して立ち上がり、1215年の大憲章「マグナ・カルタ」で王室の森林利用を制限し、1217年には森林部分だけを抜き出した森林憲章「カルタ・フォレスタ」が発布されました。その後、この憲章は1971年の森林法に受け継がれました。
日英の森林率の比較
日本の森林率が約67パーセントもあるのに英国は10パーセント程度です。英国は16世紀以降、森林を切り開いて帆船を製造したため森林が絶滅する可能性がありました。それでもエッピング・フォレストには、森林憲章を盾に王族・貴族や林地開発事業者と森林の保護をめぐって戦ってきた歴史があります。そしてついに1878年、エッピング・フォレスト法が制定され、シティが「市民の森」の管理人になることが決まりました。この森はかつて王室のForestでしたが、今は市民の森としてしっかり保護されています。
森林憲章(大英博物館蔵)
寅七さんの動画チャンネル「ちょい深ロンドン」もお見逃しなく。