第229回 シティ(都市)とバラ(地方行政区)
シティの「バンク駅」の名称はイングランド銀行のそばにあることに由来します。では、テムズ南岸サザックにある「バラ(Borough)駅」の由来は何ですか? と質問されて困りました。大ロンドン市は32のバラ(Borough=地方行政区)とシティ・オブ・ロンドン特別区(通称シティ)で構成されていますが、シティ駅が存在しないのに、バラ駅とはどこか尊大な響きがあり、俺さまが地方行政区の元締め役だと自慢しているようにも聞こえます。
バラ駅の入口
その答えのヒントはバラ駅の南東側、トリニティ教会広場にありました。そこにはロンドンの屋外で最古の石像といわれるアルフレッド大王の像が建っています。昨年、この像の大掛かりな調査が行われ、足元の土台が約2000年前のローマ時代のもの、そしてその土台の上に立つのはローマの女神ミネルヴァ像と判明。ただ腰から上の部分が18世紀以降に製造された人工石、コアデ石製のアルフレッド大王像に付け代えられたそうです。
アルフレッド大王の像
もともとこの周辺にはローマ時代の寺院の遺跡があり、9世紀のサクソン時代にアルフレッド大王が要塞を築いていたことが知られています。大王は英南部ウィンチェスターを拠点にイングランドの統一を目指し、サザックまで攻略するとそこにとりでで囲んだ要塞の街を作り、そこから当時シティの地域を占領していたヴァイキングと戦いました。最後にはヴァイキングを追い出し、シティを奪還してアングロ・サクソン七王国を建設しました。
古英語ではとりでをBurhと言い、これが地方行政区Boroughの語源になりますが、バラ駅の周辺はシティより先にサクソン王国の地方行政区画になっていたのですね。なので古来からこの周辺はバラと呼ばれ、一方のシティは仏語のCité、あるいはラテン語のCivitasを語源としますが、1066年にノルマン・フレンチのウィリアム征服王にイングランドが支配された後、司教座の置かれた特別自治区としてシティと呼ばれるようになりました。
Burhの例
今、シティのギルドホール・アート・ギャラリーではウィリアム征服王がシティに対して発した勅許状が公開されています(2023年1月19日まで)。勅許の内容は、シティがサクソン時代から有する集団の権利と財産権の継続を認めるというもの。この王は裕福なシティと戦うよりも懐柔策を選んだものと解されます。仏語ではなく古英語で書き、シティの住人をBurhwaru(=とりでの住人)と呼んだのも宥和の気持ちが前面に出たからでしょう。ただし、過酷な納税がその前提になっていることを書かないのは仏面鬼心ですね。
展示されている勅許状はシティが保有する最古の文献
上から2行目にBurhwaruという単語が見える
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