第127回 貧民学校とナショナル・トラスト運動
ピカデリー・サーカスにある、待ち合わせ場所として人気の「エロスの像」こと、シャフツベリー伯爵の記念噴水。よく見れば、弓を引いているのは鳥の翼を持つエロスではなく、その弟で蝶の羽根を持った慈愛の神、アンテロスです。この噴水は、第7代シャフツベリー伯爵の慈善行為を称えた記念碑。伯爵は、19世紀に労働者や児童を保護する法律の立法化に奔走し、私財を投じて貧民学校の設立や社会福祉の改善に尽力した篤志家です。
シャフツベリー伯爵の記念噴水には慈愛の神
19世紀の英国は「世界の工場」として経済の大発展を遂げる一方、工場では長時間の勤務や児童への過酷な労働が強いられ、都会にはスラム街が発生しました。見かねたシャフツベリー伯爵は労働者の保護に立ち上がります。1833年の工場法で9歳未満の児童の労働を禁止、続く改正法で労働時間の短縮を進め、1851年の住居法で公営住宅の建設が始まりました。また下層階級を対象とする貧民学校の普及に努め、これが19世紀末に義務教育の開始につながります。
第7代シャフツベリー伯爵
ロンドン南部サザックのユニオン・ストリートにはシャフツベリー伯爵の寄付で設立された貧民学校の校舎がまだ残っていますが、この校舎の裏側にはレッド・クロス・ガーデンという公園があります。実はここは、社会改革者のオクタビア・ヒル女史が貧困層の住宅問題に取り組み、政府や貴族に頼るだけではスラム街を一掃する解決にならない、と独自の改善策を示した場所です。
ユニオン通りの貧民学校跡
ヒル女史はケンブリッジの銀行家の裕福な家に生まれますが、2歳のとき父が破産し、生活がどん底に。貧民学校を手伝いながら、教育の大切さを実感します。やがて芸術評論家のジョン・ラスキンと出会い、自然は神からの癒しの贈り物であり、環境が人を作り、人がまた環境を作る、という考えを強めます。スラム街に公営住宅を供給したところで住人の生活習慣や道徳心が改善しない限り、街は改善しない、とヒル女史は思いました。
オクタビア・ヒル女史
そこでレッド・クロス・ガーデンの手入れを義務化して、住宅を安く賃貸する方法を考えます。庭の手入れを通じて自然環境を守ることの大切さを覚え、生活習慣を改善しなさい、と。この試みが成功し、彼女はボランティアによる環境保護を行うナショナル・トラスト運動を広めます。国の援助に頼らず、自助の精神で文化財や景勝地を守り、それを次の世代に伝えていくこと。この運動は人々の賛同を得て世界各地に普及していきました。
手入れの行き届いたレッド・クロス・ガーデン