第109回 ニュートンのリンゴと七色の虹
リンゴを英語名にした世界的に有名な企業の昔のロゴを見て、あれ? と思いました。商標のリンゴに付けられていた虹の色が六色だったからです。調べてみますと米国では19世紀半ばの南北戦争以前は七色、それ以降は六色と教えられているのだとか。日本では明治維新にアイザック・ニュートンの「光学」(1704年)で虹は七色と主張されていたことが伝わり、それまでの五色から七色に変わって虹=七色が定着していったようです。
米国では虹は六色!?
米国が南北戦争を境に英国の影響を断ち、日本は明治維新で英国の影響を受ける、という対照的な展開ですが、そもそもニュートンはなぜ、虹を七色に決めたのでしょう。彼はプリズムを通過する光は色によって屈折度が違うことを発見。その色の境目はあいまいでしたが、音楽の七音階と関係付けたくて虹=七色と決めたのです。天から降り注ぐ光は神の摂理、音楽的調和がなされていて、光→虹の七色→七音階の調べが奏でられているのだと。
かつてのニュートンの自宅
晩年のニュートンはロンドンの造幣局に勤め、ケンブリッジからロンドンに移ります。天体観測ができるようにとレスター広場近くのオレンジ・ストリートの家で過ごしました。今でこそ観光客で賑わうこの広場は、300年前、満天の星を抱く、人影少ない絶好の天体観測場。彼の家にはエドモンド・ハレー、ジョナサン・スウィフト、ジョセフ・アディソン、クリストファー・レンといった著名人が頻繁に訪れたと建物内の掲示板に記されています。
旧ニュートン宅にある記念板
ニュートンが会長をしていたころの王立協会はシティのクレーン・コートにあり、近くのギリシャ・コーヒーハウスでは協会のメンバーがたくさん集まり歓談していたそうです。ニュートンとハレーが談義しているところにクリストファー・レンが加わる場面なんてぜひ、見たかったですね。そうそう、ニュートンの名著「プリンキピア」は財政難だった王立協会に代わり、ニュートンと仲の良かったハレーの費用で出版されました。
王立協会のあったクレーン・コート入口の天球儀ランプ
ハレーはニュートンの考えを応用して「彗星天文学概論」を著し、ハレー彗星の76年周期を計算。後になって彼の計算の正確さが証明されます。また、彼の作った生命表(無数の人間の死亡率は一定の確率に従うという大数の法則に基づいた統計表)により生命保険が近代化され、その後の統計学に貢献しました。無色の光がプリズムを通ると七色に見えるように、森羅万象がニュートンやハレーらを通ると見事なハーモニーで表される――何て美しい!
ハレーの「生命表」(サイエンス・ミュージアム蔵)