第60回 ガイウス・ユリウス・アルピヌス・クラシキアヌス
国際金融センターのランキングでロンドンが首位に選ばれるのは、いくつもの要因があると思いますが、その最も根源的な部分はローマ人がシティにロンドニウム(植民地)を建設したところに起因すると考えられます。彼らが西暦43年ごろ、英国東海岸のコルチェスターからロンドンに渡り、ローマ街道の網を全国に張り巡らせ、陸運とテムズの海運を結びつけて交易の中心地、ロンドニウム=現在のシティを建設したことはご高承の通りです。
ロンドニウム(ロンドン博物館蔵)
ところが、彼らがこの建設において大失敗を犯し、その反省の上に立ってシティを再建した事実を知る人は余り多くないでしょう。実は当初、ローマ人は欧州大陸で行ったのと同様に、暴力と圧制により土着のケルト人を支配しようとたくらんだのです。ところが西暦60年、イケニ族(ケルト人の一部)を率いるボーディカ女王が重税で苦しむ民衆とともに立ち上がり、大反乱を起こします。ロンドニウムは大火にまみれて灰と化しました。
ウェストミンスター・ブリッジ近くに立つボーディカ女王の像
欧州大陸であればどんな反乱が起きようとも、ローマから大勢の鎮圧軍が助けにきてくれます。でも、ここは海向こうの遠い国、勝手が違います。当時の皇帝ネロに植民地経営の修正を進言する者がいました。彼の名は「ガイウス・ユリウス・アルピヌス・クラシキアヌス」。彼はこう訴えました。交易とは略奪ではなく、互いの利益になるもの。ロンドニウムはその中心地になるべきで、憎しみの連鎖から解放されなければならない。
クラシキアヌスの墓標(大英博物館やロンドン博物館展示)
クラシキアヌスはロンドニウムの財務官として派遣されます。まず重税ありき、ではなく、互恵の精神で交易を増やし、利益が上がれば自ずと税収が増える、という考えが実践されました。するとロンドニウムは大きく発展し始めます。残念にも彼は任期中に死んでしまいますが、彼のお墓がタワー・ヒルから発掘されたとき、その偉大さ、豪華さに皆が驚いたものです。彼の政策転換こそ、現在に至るロンドンの発展のスタート地点に当たるものと考えられます。
シティのギルドホール・アート・ギャラリー
シティのギルドホール・アート・ギャラリーの地下には、ローマ人の競技場=コロセウム遺跡があります。建物の再建中に発掘されたものですが、西暦70年ごろに完成、1万人近くの観客を収容できたそうです。ボーディカ女王の反乱で破壊されたこの街がわずか10年で交易の中心地へと発展し、庶民の娯楽施設を建てるまでに至ったことの証しです。ここを訪れる度に、クラシキアヌスの長い名前をまだ憶えているか、寅七は確認しています。
美術館地下にあるコロセウム遺跡