第58回 ペチコート・レーン
リバプール・ストリート駅の東側、シティの境界線を走るミドルセックス・ストリートは19世紀前半まで「ペチコート・レーン」と呼ばれていました。17世紀前半から衣服や骨董品を販売していたペチコート・レーン・マーケットは現在も開かれており、日曜日には千を超える屋台がひしめき、たくさんの人で混雑します。「ペチコート」といえば女性の下着の意味に使いますが、当初は男性が鎧の下に羽織る「小さなコート」を指していました。
ペチコート・レーン・マーケットの看板
元々この通りは「ホーグス・レーン」=豚通り、と呼ばれ、シティに家畜を運び込む道だったようです。周辺一帯が変わるのが17世紀後半。ユグノー(フランスの新教徒)が移民してきて、近くのスピタルフィールズを絹職人街に、この通りを服飾店街に変えました。このころになるとペチコートは女性の外衣の意味に変わっており、ここが女性用服飾店街になったわけです。通りの横にはテンター・グラウンド(染物を干す場所)の名残があります。
現在のペチコートは、女性がスカートの下に着用する下着
ところが、この服飾店街も大きく変貌します。産業革命の進展で絹産業が廃れ、東インド会社の倉庫が近くに出来てインド綿関連の店が増加。さらに19世紀後半にはユダヤ難民が大量に流入し、廉価な古着を中心に販売する安物売り場に変わりました。しかも歓迎されたユグノーとは異なり、ユダヤ難民は人種差別の対象にされ、一帯は薄汚れた貧民街になり果てます。近くで切り裂きジャックの連続殺人事件が起きたのもこのころです。
周辺に染物を干す場所がたくさんあったが、今ではその名残だけ
19世紀末までに東欧からのユダヤ難民は200万人を超え、うちイングランドには12万人、そのほとんどがロンドンに移入しました。何とか社会に溶け込み、自立できた者はロンドン北部のヘンドンやゴルダーズ・グリーンに定住できましたが、多くの難民は貧しいままこの地区から出られません。スープ・キッチン(無料炊き出し所)では毎日5000食が配布されたそうです。でも、それは国からの援助ではなく、有志からのカンパ資金でした。
ユダヤ難民のためのスープ・キッチン跡地
最近、マスコミで有名なアラン・シュガーは、多角ビジネスで成功したユダヤ系英国人ですが、彼はペチコート・レーンの屋台人から這い上がってきた人です。英国スーパー大手のテスコの創業者、ジャック・コーエンも近くの屋台からのスタート。石油メジャーのシェルの創業者、マーカス・サミュエルは近所の骨董屋出身です。この雑踏に並ぶ屋台の目の前にはシティの金融ビルがそびえ立ちます。凄まじい物語がこの雑踏には埋もれているのです。
屋台群とシティのビル街