シリアに潜入取材するフリー・ジャーナリストの現実
フランス風刺週刊紙「シャルリー・エブド」銃撃事件に続いて、中東の過激派「イスラム国」を名乗るグループがフリー・ジャーナリスト、後藤健二さんらを人質に取ったため、イスラム過激派の衝撃が日本にも広がっている。
最高指導者の指導により運営されるカリフ国建設を目指す「イスラム国」はこれまでも欧米のジャーナリストや援助関係者を誘拐し、人質に取ってきた。人命を優先し身代金の支払いに応じるフランスやイタリアの人質は解放され、応じない米国や英国のジャーナリストらは残忍な方法で処刑されている。
危険を承知の上で「イスラム国」に接触するためシリアに向かった後藤さんの胸中はどうだったのだろう。シリアのアサド政権からビザの発給を受けると、政権批判につながる自由な取材活動は制限される。かと言ってトルコ国境から違法に入国すると「イスラム国」に捕らえられる恐れがある。
欧米の大手メディアはリスクが大きすぎると特派員を危険地域から退避させている。報道の空白を埋めるように多くのフリー・ジャーナリストが命の危険を顧みず、シリアへの潜入取材を試みる。地位や名声、金が目当てではない。そこに報道に値するニュースがあるからだ。イタリアのTV局からコーディネーターを依頼されたシリア系イタリア人フリー・ジャーナリスト、スーザン・ダボウスさん(32)も2013年4月にシリアで誘拐された。
「トルコ国境を越えてシリアへ違法に入国しました。ジャーナリスト4人とシリア人5人のグループで小さな村のキリスト教会にたどり着くと、聖職者が1人いるだけでした。教会には殺された犬など神聖冒涜の跡が残されていました」。昨年9月、王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)で講演したスーザンさんは自らの体験を話した。
聖職者は話したがらなかった。不審に思ったときは、覆面をした武装グループに取り囲まれていた。テロ組織「イラクのアルカイダ」の支援を受けてシリアで結成されたスンニ派過激組織「ヌスラ戦線」のメンバーだった。全身を覆うニカブではなく、スカーフのヒジャブを着用していたスーザンさんは身構えた。イスラム過激派は西洋のキリスト教徒よりも世俗化したイスラム教徒を憎む。スーザンさんは父からイスラム教の平和について教えられて育った。イスラム過激派の主張は身勝手なイデオロギーに過ぎないことは分かっていたが、彼らから見て「良いイスラム教徒」を演じることにした。
「女」であることを意識した。同僚の男性とは別の収容所に入ることを訴え、保守的なイスラム教徒の女性になり切った。最初の12時間は極限の恐怖に震えた。「お前のアラビア語は下手くそだ」とヌスラ戦線の戦士に問い詰められる。戦士は北アフリカ、エジプト、湾岸諸国からやって来た16~24歳の若者だ。彼らはシリアとイラクにイスラム国を建設すればイスラム教徒に自由が訪れ、良きムスリムとして暮らすことができると信じ込んでいる。自爆テロも人質の処刑もアッラー(イスラムの唯一神)のお導きと信じて疑わないのだ。
ある日、戦士が「我々はもはやヌスラ戦線ではない。イスラム国だ」と宣言した。
地元仲介者として雇っていたシリア人実業家がグループ幹部と交渉を重ね、スーザンさんらは11日後に無事解放された。身代金の要求はなかった。「若いシリア人は私たちを放って逃げましたが、イスラム教指導者を兄弟に持つシリア人実業家の尽力で助かりました。仲介者の存在は本当に大きい。シリアは小さな国なので仲介者は容易に見つかるはず」と言う。
日本国内の身代金目的誘拐事件では報道協定が結ばれる。1960年の雅樹ちゃん事件で新聞各紙は激しい報道合戦を展開、雅樹ちゃんは殺害された。のちに逮捕された犯人が「報道で追い詰められた」と語ったことから新聞協会で誘拐報道の基準が決められる。報道は被害者の安否に大きな影響を与える。「私たちの誘拐はしばらく報道されなかったので、仲介者は動きやすかったようです」とスーザンさん。イタリア政府や外務省も解放のため努力を惜しまなかったが、記者に雇われていたスーザンさんにイタリアのTV局からの支援は一切なかった。それが悲しい現実だ。
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