インフレの先に
物価上昇が止まず、それが賃金上昇に跳ねる可能性が高いとき、人々は来年も物価が上がると思い、買いだめをする。さらにお金を儲けようとする人は、値上がりしそうなモノを当面必要がなくても買う……。金融市場は、ここまでの動きはもう織り込んでいる。迷いがあるのは、物価上昇からインフレへの突入に際して、政府や中央銀行がどう行動するのかについてだ。以下のように大づかみに言って三説ある。
(A説)総需要を増やして(財政拡大、金利引下げ)、高い物価水準を許容する。
(B説)何もせず(財政中立、金利不変)、高い物価水準が人々の消費や投資意欲を冷やして、総需要が減少するのを気長に待つ。
(C説)総需要を抑制して(財政縮小、金利引上げ)、断固としてインフレ期待を抑制し、物価を下げる。
それぞれの特徴をいうと、A説では、短期的には物価は大きく上昇する可能性がある。一番得をするのは借金している人で、つまりは政府、経営の苦しい企業である。世界最大の借金王は日米政府だということを覚えておこう。その逆に一番損するのは、そうした人に国債などの形で貸金をしている人、すなわち日本国民と日本の金融機関ということになる。
B説は、当局が無為無策に見えるほか、総需要が冷えるまでにどれ位時間がかかるか読めない点で不確実性が残る。ITの発達で、世界中の情報が極めて短期間に周知される現状で、この策を取ると噂が増幅し、市場は混乱するだろう。当局者がよほどのカリスマを持つか、逆に国民や政治家が冷静を保つ必要がある。実施はちょっと無理そうに思う。
C説は、長い目で見れば需要抑制を通じて物価が下がり、インフレ継続の予測も弱まることで、結局金利も下がってくるので(フィッシャー効果という)問題解決の早道なのだが、短期的には需要が急激に冷えるので、大きな痛みを伴い企業倒産が続出しかねない。
何が政策選択を決めてきたか
どのような政策が取られるかを考えるときには、歴史を振り返るのが一番良い。英国のサッチャー元首相や米国の中央銀行にあたるボルカー元連邦準備制度(FRB)議長が70年代にC説を取れたのは、インフレ率が10%を超え、英国病に象徴されるように、もはや選択の余地がないところまで経済や国家が追い込まれていたからだ。企業は倒産しないと、人間はギリギリに追い込まれないと底力は出ないように思う。今はまだ世界の危機感はそこまでない。しかし、金融市場のプロがいずれそういった事態が起こると考えれば、それまでの時間を計算し、大きな賭けを張ってくる。
B説では、グリーンスパン前FRB議長が、のらくらして市場に言質を与えず、結局カリスマ性を身につけていった過程が思い出される。「金融政策はアート」などと言われる所以だ。しかし公的機関の行動には何でも透明性が求められる時代、そして説明責任が流行する昨今、言語明瞭・意味不明瞭は通るまい。直球勝負で「いずれ物価は下がるんだから何もしない」といった政治家や中央銀行総裁はいない。それは自己否定みたいなものだから。
現代が直面する難しさ
歴史は常に繰り返しているのだが、今起きている物価上昇に対する政策対応決定には、かつてないほどの難しさがある。英国や米国がC説を取った時には、日本経済がバブルとなっていたので、輸入を増やすことで英国や米国の景気が極端に悪化することは避けられた。C説のような不況策を取っても、外国に強力な需要があれば、ソフト・ランディングできる。ところが今はグローバリゼーションで世界中の国の景気が同期しているので、外国というか、資本主義の外側=フロンティアが少なくなっていることが困難さを生み出している。だからこそシティでは、新しいフロンティアとしてのアフリカに注目しているし、各国中央銀行や国際通貨基金(IMF)は、アフリカ経済や中国の賃金消費動向などの分析を急いでいる。
ただこうしたフロンティアは、時間の問題で消滅する。90年代には、ネット革命により第三次産業のサービス水準が変化したことでまた新たなフロンティアが生まれた。今はバイオ産業に投資が集中している。
そして何よりも大切なのは、市民が冷静さを保つことができるかどうかであろう。市民社会の成熟が、当局の態度を決める最大要因だということを忘れてはならない。
(2008年6月28日脱稿)
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