マイクロクレジット
モンゴルの政府系金融機関からロンドンに派遣されているEさんという女性がいる。彼女の最近の関心時は、マイクロクレジットだ。バングラデシュで70年代からマイクロクレジットを事業(グラミン銀行)として行い、発展させたムハマド・ユヌス氏が、昨年ノーベル平和賞を受賞したことは記憶に新しい。なじみのない方もおられると思うので、マイクロクレジットを紹介しつつ、それが先進国に住む人間にも、国内の格差問題や国際的な援助の視点からみると無関係ではないということを述べたい。
マイクロクレジットとは、十分な資金のない起業家、または貧困状態にあり、銀行などからの融資を受けられない人々、特に最貧国における女性などを対象とする非常に小額の融資(3ポンドくらいから)である。これらの人々は担保となるものや安定的な雇用、証明できるような信用情報(収入や資産についての情報のこと)を持たず、普通の銀行からの借り入れを利用するための最低条件にさえ達しない。しかし小さな事業を営んだり、職業訓練を受けたり、家族や自分の健康を維持するための費用などが自立のためには必要だ。こうしたニーズに応える金融があると、借り手の自立や小事業の発展につながり、ひいては社会全体の成長に資するというのがその趣旨である。Eさんは、モンゴルでは経済力のない女性に対してお金を貸してくれる銀行などないので、国のためにこうした制度を導入したいというわけである。
絶対貧困とクレジット成立の関係
アフリカのサブサハラ諸国を始めとする絶対的な貧困国に対して、先進国は人道の見地からの援助を行ったり債務の減免を行ったりしているが、いずれも対症療法である。長い目でみればインフラ(道路や水道などハード・インフラに加えて、職業訓練とか教育とかモラルや人権意識の構築などのソフト・インフラも含まれる)を整えることが、「急がば回れ」という意味で近道だ。そのインフラ整備の資金をこれまで担うとされたのが世界銀行なのだが、世界銀行の融資は、従来ハードに比重がある。一方、民間銀行はお金を返せるかどうかが不明で、あまりに貸し倒れリスクが大きいと金利をいくら高くしても融資できない。他にもっと良い融資先があれば、そうした最貧国に回す余裕はない。こうして貧困国では、ソフトなインフラ整備が決定的に遅れる。その分野でグラミン銀行は、信用のない借り手に、銀行であれば要求するような高金利ではなく、そこそこの高金利でお金を貸して、収益を上げる手法で成功した。
それでもやっていけるのは、通常は資本家や預金者が担う出資者の9割が、借り手でもあるという事実に基づく。事業を営む借り手自身はそこそこの利回りしか要求しない。これは出資者自らが資金を借りており、自分自身やそれと似た境遇にある社会的弱者を信頼できないということはないため、それほどの高利回りを要求しないからである。現に貸し倒れ率は極めて低い。そうした銀行であれば、預金金利も低利に抑えうる筋合いにある。いわば銀行が見放した市場で、担保や実績がなくても顔の見える信頼関係によって収益を上げているということだ。
先進国への含意
こうした仕組みは極めて経済合理的なもので、返済の必要がない補助金や援助に比べると、使途が明確で、その達成を出資者=借り手がコミットしている点でモラルハザード(借金の踏み倒し)の可能性が極めて低いという利点がある。銀行(特に日本)は、土地担保や不動産融資など審査能力が弱くても債権保全できる分野にばかり融資しているが、審査による信用創造という銀行業の原点からすると問題が多い。逆に優良な借り手がいない、過当競争という不満も、自らの市場開拓力の非力さの裏返しとしか思えない。
マイクロクレジットは、先進国内における企業の少ない地方での金融機関(特に信用金庫、信用組合など)の生き残り方、ワーキングプア、障害者などに対する自立のための融資、支援のあり方が現状で良いのか考えさせられる。また国際的には、貧困国への援助、借款のあり方、世界銀行の組織、機能論などに大きな問題提起をしている。抽象的にいえば、資本主義、市場原理というものが、先進国内、しかも労働者クラス以上でのみ妥当し、そこに届かない人々は絶対貧困になるという格差固定の仕組みとなっているとすれば、それは資本の怠慢、公的部門への甘えがあるということではないか。マイクロクレジットは、グローバリゼーションがそうした表層的なものであれば、それは決して長続きはしないということを肝に銘じさせるものである。
(2007年1月16日脱稿)
< 前 | 次 > |
---|