映画「英国王のスピーチ」で注目
ジョージ6世の人生とは
エリザベス女王の父に当たるジョージ6世と、彼が吃音(きつおん)を治すために雇った治療士との心温まる交流を描いた映画「英国王のスピーチ」が人気だ。先月末に開催された米アカデミー賞の授賞式で、作品賞を含めた主要4部門を制覇したのがこの映画だった。今回は、ジョージ6世の人柄や彼が生きた時代背景を紹介したい。
左)映画「英国王のスピーチ」の一場面 右)若かりし日のジョージ6世
ジョージ6世の横顔
本名 | アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザー (通称バーティー) |
1895年12月14日生まれ、 1952年2月6日没 | |
在位期間 | 1936年12月11日〜1952年2月6日 |
先代 | エドワード8世(兄) |
次代 | エリザベス2世(長女) |
両親 | ジョージ5世とメアリ妃 |
妻 | エリザベス・バウエス=ライオン |
子供 | エリザベス2世とマーガレット王女 |
学業 | ダートマス海軍兵学校、ケンブリッジ大学にて歴史学、経済学、政治学科を専攻 |
性格など | 引っ込み思案、生真面目、誠実、病弱 |
人生の節目 | 兄の退位により、自分が国王になると決まったとき |
国民の評価 | 第二次大戦中にロンドンが爆撃を受けている間、地方へ疎開することを拒んで国民を励まし続けたために、大きな支持を得る |
そのほかの功績 | 人命救助などにおける勇敢な行為に対して授与する「ジョージ勲章」を創設。ロンドンのカールトン・ハウス・テラス前(ピカデリー 広場近く)に彫像がある |
ジョージ6世が生きた時代
ジョージ6世の人生 | 国内外の出来事 | |
1895 | ジョージ5世の次男アルバート(後のジョージ6世)が誕生 | |
1901 | 英領オーストラリア連邦が成立 | |
1902 | 日英同盟が締結。英国で新教育法が施行 | |
1906 | ニュージーランドが英国の領地に | |
1909 | オズボーン海軍兵学校に入学 | |
1910 | 英領南アフリカ連邦が成立 | |
1911 | ダートマス海軍兵学校に入学 | |
1914 | 第一次大戦が勃発 | |
1916 | ユトランド沖海戦で戦艦「コリンウッド」に乗艦 | |
1918 | 空軍に移籍 | |
1919 | ケンブリッジ大学に入学 | ベルサイユ条約が調印、インド統治法を制定 |
1920 | 国際連盟が成立 | |
1922 | エジプトが独立 | |
アイルランド自由国が樹立される | ||
1923 | エリザベス・バウエス=ライオンと結婚 | |
1926 | 長女エリザベス誕生 | 英国でゼネストが実施 |
1929 | 世界大恐慌が勃発 | |
1930 | 次女マーガレット誕生 | |
1936 | 父ジョージ5世没。兄エドワードが国王に | |
エドワード8世が退位し、王位を継ぐ | ||
1937 | 戴冠式が行われる | アイルランド自由国がエールと改称 |
1939 | 米国、カナダを訪問 | 第二次大戦が勃発 |
ドイツに対する宣戦布告の演説を行う | ||
1940 | 独軍によるロンドン空爆を受けるもロンドンを離れず | 英軍が仏ダンケルク撤退。独軍が英国を空襲 |
1941 | 英国が対日宣戦を布告 | |
太平洋戦争が勃発 | ||
1945 | 第二次大戦が終結 | |
1946 | 英国で国民保険法が施行。炭鉱、道路、鉄道輸送が国有化 | |
1947 | 南アフリカ連邦やローデシア(現ザンビア・ジンバブエ)を訪問 | 英国で電気産業が国有化される |
インド、パキスタンが独立 | ||
1948 | 初孫となるチャールズが誕生 | 独占禁止法が成立、ガス供給が国有化される |
ビルマ独立、イスラエル共和国が成立 | ||
1950 | 2 人目の孫アンが誕生 | 英国が鉄鋼業を国有化 |
イランが石油国有化を発表、エジプトが対英条約破棄を通告 | ||
1951 | 左肺の切除摘出手術を実施 | |
1952 | ノーフォークにあるサンドリガム御用邸で死去 |
(参考資料:「概説イギリス史」有斐閣新書、BBC ほか)
吃音を引き起こした少年時代の経験
後にジョージ6世となるアルバート(通称「バーティー」)は、ジョージ5世とメアリ妃の次男として生まれた。言葉を覚えるのが遅く、左利き、X脚でもあったアルバートは、父親からこれを矯正するよう指導される。食事の際には左手に長い紐を付けられ、左手を使うと父がその紐を引っ張り上げた。またX脚の矯正用ギブスを脚に付けていた時期もあった。この頃に受けた精神的な重圧などが原因で、アルバートはいつしか強い吃音状態に陥るようになったという。
アルバートの人生に明るい兆しが見え始めたのは、スコットランドの由緒ある貴族ストラスモア伯爵家に生まれたエリザベス・バウエン=ライオンと結婚してからだ。この時点で兄のエドワードはまだ結婚しておらず、アルバートとエリザベスの若き夫婦は国民の憧れの的になった。
演説指導を助けたオーストラリア人
まだヨーク公と呼ばれていた頃のジョージ6世が抱えていた大きな悩みの一つが、人前で行う演説だった。1925年の大英博覧会の閉会式で父の代わりに演説を行ったが、吃音のためにひどい結果となってしまったのだ。そこで妻のエリザベスが見つけてきたのが、当時はまだ大英帝国の一部であったオーストラリア出身のライオネル・ローグである。
少年時代から発声、発音の面白さに興味を引かれていたというローグは、やがて発声方法や演説の指導を仕事とするようになる。第一次大戦のトラウマに苦しみ、言葉を発することができなくなった元兵士たちに対する治療も行った。
ローグが話し方を教える治療士としてロンドンに診療所を開いたのは1926年である。この診療所を30代前半のヨーク公が訪れたとき、ローグは既に50歳近くになっていた。患者との間に親密な雰囲気を作り出し、独自の治療を進めようとするローグにヨーク公は反発し、一時は関係が悪化するほどであったと伝えられている。
しかし、シンプソンという名の既婚の米国人女性と交際を始め、英国国教会が禁ずる離婚をさせた上でこの女性と結婚することを望むようになったエドワード8世が退位という道を選んだ際に、ヨーク公はジョージ6世として即位せざるを得なくなった。演説は彼にとってますます重要となり、ジョージ6世はローグの治療に熱を入れるようになる。
国民の支持を得て
1939年の第二次大戦勃発時、ジョージ6世の国民に向けた演説は、ラジオを通して広く国民に聞かれ、国民の士気を奮い立たせた。1940年にはドイツ軍が英国に対する大規模な空爆を開始したが、ジョージ6世と妻のエリザベスはロンドンを去らずに「最後まで戦う」と宣言。国民の支持は高まった。
戦後の国内経済の建て直しや、インド、パキスタンなどの大英帝国からの独立が相次ぐと、もともと病弱だったジョージ6世は健康を悪化させる。1951年9月、左肺を切除摘出し、一時小康状態となったが、翌年1月末、療養先のイングランド東部ノーフォークのサンドリガム御用邸で寝たきりとなった。同2月6日未明、動脈血栓により死去。56歳だった。
Hanoverian Dynasty
ハノーバー朝。1714年から1901年まで続いた英国の王朝。スチュアート家アン王女が亡くなると、カトリック教徒の即位を阻む王位継承法によって又従兄弟に当たるドイツのハノーファー選帝候ゲオルクがジョージ1世として即位した。ビクトリア女王の死後は、同妃の夫であったドイツ出身のアルバート公の家名を取って「サクス=コバーク=ゴータ朝」に。また第一次大戦中には、ジョージ6世の父親である同5世が「ウィンザー家」と改称。さらに1960年の勅令では、エリザベス女王とフィリップ公の子供の姓を「マウントバッテン=ウィンザー」とした。(小林恭子)
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