第6回 所変われば新聞も変わる。
所変われば品変わる、という。
日本の格言は、なかなかすごい。「所変われば」の場合、たった9文字で「世の中には、文化や習慣の違いが当たり前のように存在していますよ」という意味を持たせている。多文化、多様性、多元主義。それを言い尽くしているのである。
新聞もそれぞれの国や地域によって、当然に違いがある。
英紙は「事件」が大好きだ。
昨年は、ポルトガルで少女が行方不明になった「マデリンちゃん事件」が大報道された。かわいい女児の顔写真は、今も時々紙面に載る。一時は、両親の写真もよく載った。
これに限らず、英紙では写真の大きさが際だつ。年明けの殺人事件では、容疑者の顔写真が各紙にデカデカと出た。試しに、「タイムズ」紙のそれを測ったところ、タテ17センチ、ヨコ10センチもある。日本の感覚では相当な大きさだ。
日本の新聞も事件は好きだが、夕刊紙「日刊ゲンダイ」など一部を除き、ふつうの日刊紙がこんな大きな写真を載せることはない。手元にある1月の読売新聞衛星版を調べたところ、1面トップの事件記事に添えられた被告の写真は、タテ2.3センチ、ヨコ2センチにすぎなかった。これより大きな顔写真は、日本ではまずはお目にかかれない。
事件自体がほとんど報道されない国があるのをご存知だろうか。
北欧のスウェーデンである。
この国の新聞では、事件発生時には、被疑者写真はおろか、その氏名もまず出ない。もっと言えば、事件の記事そのものが極端に少ない。
有力紙「スヴェンスカ・ダフブラーデット」紙の編集局長代理、マッツ・エリック・ニルソンさんは「容疑者の氏名や顔写真に、どんな公共性があるのでしょうか。それを考えるのが出発点です」と明快だった。逆に言えば、公共性がない限り、氏名や顔写真は報道しない。
「例えば、息子が父親を家で殴り殺すような事件の報道に、公共の利益(common interest)はありますか?ほとんどありません。公共の利益とは、パパラッチのような好奇心とは違います。それは、もっと社会的なものです。人々の生活に影響を及ぼすかどうか、です」
スウェーデンでは年間200件弱の殺人事件があり、事件自体が少ないわけではない。ただ、すべての事件が報道されるわけではない。記事になったとしても「ストックホルム市内の路上で昨晩、50代の男性が殺された。警察は30代の男性を拘束し、調べている」といった程度しか載らないケースが多いのだ。「犯罪の場所や方法、容疑者の氏名・住所、被害者名には公共性がない」と判断された結果である。
そうした根底には、容疑者も被害者も人権は同等に守られるべきだ、という思想がある。
タブロイド紙、「アフトン・ブラーデット」は、同国で最も過激な新聞として知られる。英国の「ザ・サン」のような存在であり、部数も約40万部と国内最大だ。
ヤン・ヘリン編集局次長は「ロンドンのようなタブロイド紙になりたいと思う。実際、名前や写真も報道する」と率直だ。ただし、同紙の事件報道は、英国や日本の常識とは相当に懸け離れている。なぜなら、このタブロイド紙が事件関係者の氏名や顔写真を掲載するのは、原則、懲役刑が確定した段階に限っているからだ。逮捕段階や発生段階で大報道する日英とは、大きく異なる。
同紙に限らず、かつて、ストックホルムの街路でパルメ元首相が殺害された際は、どの新聞も容疑者名を報道しなかった。そこまで徹底しているのだ。ヘリン編集局次長は、さらに付け加えた。
「容疑者逮捕は、警察が『この人が怪しい』と判断しただけのこと。犯人と決まったわけではない。警察も間違える。だれかが指名手配されても、それだけでは報道しない。そんなの、警察のPRでしょう?それに、事件は裁判になってから、じっくり報道できますから」
もう一つ、別の新聞、「ダーゲンス・ニーヘーテル」を訪問した際も同様の話を聞いた。
それに、スウェーデンの記者たちは「権力の監視が仕事」と、さらりと言う。
同業者からすれば、これがなかなか、かっこいいんだな。