世界有数の物価高を誇る一方で、入場無料の美術館やギャラリーが多い街、ロンドン。アートが市民の日常生活の一部となっているこの街で、最も親しみやすいアートと言えば、パブリック・アート、すなわち、誰もが集う公共空間に設置されている芸術作品ではないだろうか。日光が燦燦と降り注ぐ、散歩日和な今日この頃。ぶらり街を散策しながら、太陽の下輝くアートを堪能してみては!?
(本紙編集部: 村上祥子)
パブリック・アートってなに?
パブリック・アートとは、美術館やギャラリーに展示されるのではなく、公共の空間に置かれるアート作品のこと。銅像や記念碑はもちろんのこと、公園内に設置される噴水やインスタレーション、パフォーミング・アートに至るまで、公共のスペースで展開されるありとあらゆるアート形態がこれに当てはまる。
誰もが気軽に鑑賞することのできるスペースに作品を置くことで、アートを人々の日常生活に近しい存在とする、公園や道路、企業スペースの美的景観を演出し、都市全体のイメージ向上を図る、などの目的を持つパブリック・アートは、自治体や企業との結び付きも強い。フランスや米国など、公共の新築建造物の建設予算から一定金額をアートに割り当てる「パーセント・プログラム」を実施している国もある。
Zemran(1972)
Aquabar(2003)
William Pye
「もう一つの自然界をつくり出すアーティスト」。ウィリアム・パイを一言で表わすならば、こうなるだろうか。ロンドン出身ながら、家族の別宅のある自然豊かなロンドン近郊サリー州で過ごすことの多かったパイは、幼い頃から「水」に対する並々ならぬ関心を持つようになる。静かな水面に力を加えることで波紋が広がる様や、水の流れをせき止めることで生まれる新しい動きをカメラに収め、自らの作品づくりに生かす彼のインスピレーションの源は、常に自然界、ひいては「水」なのである。
人口滝から抽象的なステンレス彫刻にいたるまで、国内外で多くの「水」作品を生み出しているパイ。ここロンドンでもいくつかの作品を鑑賞することができる。ビジネス街、ホルボーンのリンカーンズ・インにある人口噴水、「Jubilee Fountain」。ここでは「ラミナー・フロー」と呼ばれる、高低さまざまな線状の水が、ぶつかり合ったり途切れることなく美しい放物線を描く様を堪能できる。
また、テムズ河沿いのロイヤル・フェスティバル・ホール前には、水の流れを抽象化し、ミニマルな形で表わしたステンレス作品、「Zemran」が展示されている。そのほか、ガトウィック空港の北ターミナルには「Aquabar」が。これは、水がお風呂などの排水溝から流れ出る際には渦を巻くという現象に着目した「Vortex」シリーズの一作品である。
自然界のありのままを写し取るのではなく、ほんの少し、力を加えた際に生まれるもう一つの自然。パイのつくり出す水の世界は、アート化することによって生まれる独特の魅力に満ちている。
Thomas Heatherwick
「アートと科学、そしてエンジニアリングは、もっと関わり合いを持たなければならない……そう、結婚するようにね」。こう語る英国人アーティスト、トーマス・ヘザウィックの作品に共通するもの、それは発想の斬新さとスケールの大きさだ。しかし、彼の創作者としての偉大さは、それだけに留まらない。彼の手掛けたさまざまな作品は、素材や細部に至る細やかなこだわりと、アートをアートとして終わらせない実用性をも兼ね備えている。
ロンドン東部、パディントンの再開発地域にある可動式の橋「Rolling Bridge」や、金融街シティの一角にある、排気ダクトを兼ねたステンレス作品「Vents」。そして何より道行く人の度肝を抜く作品が、ロンドン・ブリッジ近くに位置する老舗病院、ガイズ病院の外壁「Boiler Suit」だ。
同病院を訪れる人の誰もが、その正面玄関を見たときに、その「異形」とも言える外観に息を飲むだろう。まるで病院が摩訶不思議な生物に寄生されてしまったかのように、波型のパネルで覆われている。ステンレス製のワイヤーが 編み込まれたパネルが108枚。これは病院を訪れる人々の目からボイラー設備を隠す役割も果たしている。夜にはライトアップもされ、そのうねるように起伏する曲面が、さらに豊かな表情を帯びる。
実用性と発想力、そして芸術性。そのすべてを網羅することが可能なのだと思わせてくれるのが、ヘザウィックの作品なのだ。
Ian Davenport
テート・モダンやシェークスピア・グローブ座が連なる、テムズ河沿いのサザーク地区。河岸から歩いて数分の薄暗い地下道の片側に広がるのは、目にも鮮やかな色とりどりの直線が連なる絵画だ。液体エナメルをスチール・パネルに垂らし、その後、高温で乾燥させたという絵柄には、エナメルならではの艶やかな美しさがある。
英南東部ケントに生まれたイアン・ダベンポートは、本作品以外にも数多くの「Poured」シリーズを生み出している。大きな注射器のような器具を使い、一色一色をキャンバスに流し込む作業を経て完成する本シリーズは、直線のみという究極の構図が視覚に与える明快なインパクトが魅力な作品群だ。
Pierre Vivant
一見、ゴツゴツとしたクリスマス・ツリーとも見紛う、信号機が連なる木。これもフランス生まれのアーティスト、ピエール・ヴァイヴァントがつくり出した、立派なアート作品だ。ヴァイヴァントの作品づくりのコンセプトは、「公園や道端など、どこででも簡単に入手できる材料を利用する」こと。作品の置かれる場所を意識し、その意味を問うアーティストとしても知られる。
近代的なオフィス・ビルが立ち並ぶロンドン東部の再開発地域、カナリー・ワーフのランダバウトに位置するこの作品は、75個の信号機から成り、ランダムにその色を変える。色の変化は、慌しいビジネス街の生活テンポを反映させているのだとか。
写真)カチカチ色を変える信号に、自分の多忙な生活を顧みる
Allen Jones
病院の吹き抜けに、抜群の存在感を持って佇む巨大な抽象アート。チェルシー・アンド・ウェストミンスター病院に置かれている「Acrobat」は、高さ約18.3メートル、世界最大の屋内彫刻としてその名を馳せる。作者のアレン・ジョーンズは、1960年代の英国ポップ・アート・ムーブメントを牽引した一人。女性の体の持つ曲線美を強調するなど、エロティックな表現を得意とする。
ポップ・アーティストと病院という組み合わせは何とも斬新だが、この作品を委託したチェルシー・アンド・ウェストミンスター・ホスピタル・アートは、病院とは独立した機関。アートの持つ力が医療に及ぼす重要性に着目し、病室や廊下などに、数多くのアート作品を展示 している。
写真)女性の体の持つ柔らかさを、シンプルなラインで表現
ロンドン東部、リバプール・ストリート駅のすぐ側に位置するブロードゲート地域。現代的なオフィス・ビルが立ち並ぶこの地域は、実はパブリック・アートの宝庫でもある。コンクリートに囲まれたオフィス街に点在するアート作品。この一見ミスマッチに思える組み合わせこそが、ロンドンという街の懐の深さを体現しているとも言えよう。
Richard Serra
リバプール・ストリート駅構内から、ブロードゲート方面の出口に近付くにつれ徐々にその全貌を見せる、無機的で雄大な彫刻、「Fulcrum」。巨大な鉄板から成るそのミニマムな姿は、見る者に有無を言わさぬ威圧感を与える。中に入れば、板の合間から差し込む光。木漏れ日のような明るさが、鉄の塊に別の表情を与えている。
米サン・フランシスコ生まれのリチャード・セラは、鉄鋼工場で働いていた経験を生かし、産業鉄を使ってアートを生み出す手法を編み出した。「Fulcrum」では、溶接されているかのように見える鉄板の一枚一枚が実は独立しているなど、シンプルなデザインの中にキラリと光る工夫が、無機質で味気ない鉄をアートへと変貌させている。
Barry Flanagan
ブロードゲート・エステイトの一角。何もない、まっ平らなコンクリートの地面から飛び出してきたかのような、躍動感溢れるウサギの姿が見える。
「Leaping Hare on Crescent & Bell」は、鐘と三日月、そしてウサギを組み合わせた銅像だ。鐘と三日月の織り成す流線型のフォルムと、生き生きとしたウサギの有機的な姿が、均整の取れた美しさと微笑ましさを感じさせる。
北ウェールズ出身のバリー・フラナガンは、さまざまなマテリアルを使った有機的な表現方法を見出した。本作品以外にも、異なるポーズのウサギをモチーフにした作品を数多くつくっている。
写真)妙に手足の長いウサギが何ともユーモラス
Stephen Cox
ブロードゲート・エステイトを出てすぐ、サン・ストリートのランダバウトに位置する二対の像、「Ganapathi & Devi」。インド南部で、古代の彫刻技術を学んだスティーブン・コックスがつくり出したこのアートは、見た瞬間に強い衝撃を受ける、センセーショナルな作品だ。
聞き慣れない作品名は、ともにインドの古代神話に登場する神の名前から来ている。ゾウの顔を持つ神、ガナパチ(ガネーシャ)と、母、女神を意味するデヴィ。この二対の像を置くことでコックスは、男性と女性、陰と陽、生と死など、二つの対照的な概念を表したかったのだという。
写真)男性器を思わせるデザインに道行く人も歩を止める
Jacques Lipchitz
デフォルメされた形態、醜悪とも言える豊かな表情が特徴のペガサス像、「Bellerophon Taming Pegasus」。これらの特徴が示す通り、作者のジャック・リプシッツは、立体的な物質を平面的に表現するキュビズムの彫刻家として名を馳せた、リトアニア出身のアーティストである。
10代でフランスに移住したリプシッツは、当時ピカソやモディリアニといった美の巨匠が出入りしていた、モンマルトルやモンパルナスの芸術家コミュニティに顔を出すようになる。そんな環境下、リプシッツはキュビズムに傾倒。数々の印象的な作品を残した。
写真)まるで絵画を見ているかのようなキュビズム彫刻
George Segal
ブロードゲート・エステイト内、まるで仕事を終え、ビルから出てきた人々がそのまま固められたかのような彫刻が「Rush Hour」だ。少し俯き加減に、同じ方向を向いて黙々と歩みを進める人々からは、変わることのない日常生活に対する倦怠感と侘びしさが漂ってくる。オフィス街ならではのアートと言えよう。
作者のジョージ・シーガルは、1924年、米ニューヨーク生まれの彫刻家。 自分自身の石膏模型像「Man at a Table」(1961)を始め、家族や友人をモデルにした石膏像で知られた。デフォルメのない等身大の作品の数々は、モデルとなった人物の内面すらも写し取ったようなリアリティを内包している。
写真)リアルな姿につい自分の姿を重ね合わせる
Antony Gormley
英国の現代アート界を代表する彫刻家、アントニー・ゴームリー。インドで仏教を学んだことのあるゴームリーの作品づくりの核となるのは「人体」。人体と空間・社会の関係性を模索する彼は、自らの体の型を取った人体像を、しばしばその作品に登場させている。
そんな彼の代表作とも言えるのが、英北東部のゲーツヘッドにそびえる 巨大な彫刻、「Angel of the North」。炭鉱跡地に位置する、高さ20メートル、幅54メートルのこの鋼鉄製の「天使」は、暗闇のなか作業を続けた炭鉱夫らの活動を、後世に語り継ぐためにつくられたという。まっすぐに立つ人物が翼を水平に伸ばすという、飾り気のない構図ながら、雨の日も風の日も、静かに眼下を見下ろし続けるその姿に、威圧感だけでなく、人々の営みを見守る包容力をも感じるのは、決して気のせいではないだろう。
The Bogside Artists
アートは時に、政治的意味合いを帯びる。声高に政策を叫ぶより、アートが語りかける無言の訴えが、何より人々の心に強く響くことがあると思わせるのが、北アイルランドのロンドンデリーやベルファストにある「murals」と呼ばれる壁画群だ。
独立を目指すカトリック派と、英国との連合維持を支持するプロテスタント派が長年争いを続ける北アイルランド。同地方第2の都市であるロンドンデリーのボグサイド地区は、1972年、市民14人が英軍に射殺された「血の日曜日事件」が発生した場所だ。この地区の建物の壁には、至るところに風刺画やプロパガンダ絵画が描かれている。精緻とはいえない筆致、時に薄暗く時に毒々しい色彩。しかしこれらの絵画は、美的価値を超え、この地区に歴史を刻む役割を担っている。
美とは異なる、アートの持つもう一つの力を感じずにはいられないパブリック・アートである。