英国に日本の桜を広めた20世紀の園芸家コリングウッド・イングラム 知られざる英国人桜守、
「チェリー・イングラム」を追う
大英帝国の末期に活躍した園芸家、コリングウッド・イングラム(1880~1981年)。彼は桜の魅力にとりつかれ、明治・大正時代の日本を3度訪れた。 イングラムが日本で収集した珍しい桜の数々は海を渡り、ケント州ベネンドン村の彼の自宅の庭に植樹され、120品種を超す見事な「桜園」を創った。今日、英国で多種多様な桜が見られるのは、イングラムのおかげである。知られざる英国人「桜守」の足跡を追う。(文: 阿部菜穂子)
イングラムが日本に里帰りさせた「太白」の原木。 ザ・グレンジで阿部菜穂子氏撮影
1880年、ロンドン生まれ。鳥類研究家及び桜研究家。祖父はヴィクトリア女王時代に人気を集めた日曜紙「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の創設者。20世紀に日本の桜を広く英国に紹介した。英国園芸界では「チェリー・イングラム」として知られる。「観賞用の桜」(1947年)「野鳥を探して」(1966年)など5冊の本を著した。1981年没。
イングラム氏、25歳のとき。
南フランスの父親の別荘にて
(イングラム家提供)
幼少期~桜との出会い
コリングウッド・イングラムは、ヴィクトリア王朝下の1880年、イングラム家の3男としてロンドンで生まれた。祖父ハーバート・イングラムは当時人気を得ていた世界初の絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の創設者。父親ウィリアムは2代目経営者として新聞事業を発展させた。2代にわたる財産の構築により、一家は裕福だった。
そのころ、大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華を極めていた。イングラム家は帝国の繁栄を背景に誕生した「新興富裕層」であった。コリングウッドは幼少時は身体が弱く、ケント州の北端、テムズ河口のウェストゲイト・オン・シー(以下ウェストゲイトと表記)の別荘で育った。彼は結局、学校教育は一切受けなかった。
コリングウッドは、少年時代をウェストゲイトの豊かな自然の中で過ごし、日々沼地や森を探索して野鳥や植物の知識を身につけた。自然環境が絶好の教育の場となって、彼はナチュラリストに成長。親の財産で十分暮らしていけたため、成人後も生活のために働く必要はなく、初めは鳥の研究家、後に桜の研究家となる。
日本への初訪問は1902年(明治35年)、21歳のときだった。彼はこの旅で、すっかり日本びいきになる。19世紀半ば、長い鎖国を終えて姿を現した東洋の国、日本は、独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かで、西洋人は目を見張った。欧州では「ジャポニズム」(日本趣味)が起きて、日本の浮世絵や骨董品などの熱心な収集家が多数、現れていた。そんな時代背景からイングラムも日本に興味をもった。日本訪問で彼が一番惹かれたのは「自然と人が抜群の芸術的センスで調和している」姿だった。
イングラムは1906年、フローレンス・ラングと結婚し、半年後に新婚旅行で再び日本を訪れる。
桜との出会いは、第一次大戦後の1919年。イングラムは妻と3人の子供をもつ一家の主となり、この年、ケント州南部の村、ベネンドンに新居「ザ・グレンジ」を購入して転居した。そのとき、新居の庭に植えられていた桜の大木2本が彼の目をとらえた。鳥の研究に愛想をつかしていたイングラムは、欧州ではまだ知られていない日本の桜を収集して庭に植樹し、研究しようと思い立った。
その後、猛烈な集中力と実行力で桜を収集。日本や米国から多数の品種を輸入し、知人・友人から譲り受けるなどして集めた結果、7年後には100種類を超すコレクションをもつ壮大な「桜園」が誕生した。イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた「多様な桜」であった。
日本への桜行脚
英国で可能な限りの桜を入手したイングラムは、より珍しい桜を求めて1926年(大正15年)、日本へ「桜行脚」に行くことを決意した。
旅の計画を助けたのは、当時、日本で「鳥の公爵」と呼ばれていた鷹司信輔(たかつかさのぶすけ)公爵。公爵は鳥の研究のため欧州に遊学し、英国でイングラムと知り合った。鷹司氏は貴族院議員でもあり、豊かな人脈をもつ有力者だった。まもなく日本の桜愛好家の会「桜の会」の会長になる人物である。公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができた。
1926年3月末、長崎港に着いたイングラムは、すぐに東京へ向かう。このとき彼の目に飛び込んできたのは、前2回の訪日とは全く違う日本の姿だった。関東一円は1923年に起きた関東大震災で破壊され、その後の復興事業によって近代的なビルが林立していた。
「東洋の街並みは消滅し、恐ろしく巨大で醜いビルが立ち並んでいる。日本は西洋の文明をあまりにも速く大量に、ひと息に飲み込もうとしているかに見える。この国は、猛烈な消化不良を起こしている」(1926年4月2日のイングラムの日記より)
伝統文化は近代化の波の中で失われつつあった。園芸界にも商業主義が蔓延(まんえん)し、日本の多様な桜はどれも 絶滅の危機に瀕していた。彼はその現実を見て「日本の大切な桜が危ない!」と危機感を抱いた。そして、桜を英国へ持ち帰って保存しよう、と決意したのである。
京都、吉野、富士山麓、仙台、日光と精力的に回りながら、イングラムは懸命に「珍しい桜」を探した。欲しい桜を見つけると、地元の人をつかまえて「穂木(桜を増殖する際、台木となる樹に接木(つぎき)する若い枝)」を英国に送ってほしいと頼み込んだ。これらの穂木はすべ て、その年の冬に英国のイングラム邸に到着した。
イングラムは日本滞在中に、東京で開かれた「桜の会」の例会に招かれて演説した。例会には、会長の鷹司公爵を始め、当時の日本を引っ張っていた有力財界人や官僚、有識者らが多数出席していた。彼らを前に、イングラムは重大な警告を発した。
「あなた方日本人はかつて、驚くべき数の桜の品種を開発したが、多くが絶滅の危機に瀕している。50年後にはこれらの桜は永久に失われてしまうでしょう」。
イングラム氏撮影の1926年当時の小金井堤(イングラム家提供)
桜の権威となる
ケント州・ベネンドン村に生まれたイングラム邸の「桜園」は、1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしか「チェリー・イングラム」と呼ばれるようになった。
桜園にはイングラムが日本での桜行脚の際、京都で見つけた「妹背(いもせ)」や「手弱女(たおやめ)」、富士吉田で発見し、後にイングラムが「アサノ」と名付ける八重桜など、初めて英国にやってきた品種が数多く植えられていた。
イングラムはさらに、野生種を人工交配させて、新種の桜を創り出した。「オカメ」はカンヒザクラとマメザクラを交配させて生まれた品種。鮮やかで愛らしい桜である。チシマザクラとカンヒザクラを交配させてできた桜は、艶やかな紅色の花をつける桜で、「クルサル」と名付けられた。
こうしてザ・グレンジの庭園では、毎春、多彩な桜が3月中旬から5月末まで次々と花を咲かせ、「桜の競演」を繰り広げた。
イングラム氏が撮影した舩津静作
(イングラム家提供)
イングラムは桜を一本一本観察して特徴をメモし、花や葉をスケッチ。それを基に、品種を確定した。彼は園芸雑誌や新聞に桜を紹介する無数の記事を書いた。また時折、桜園を公開して、一般人を「花見」に招待した。イングラムの桜はRHS(王立園芸協会)のフラワー・ショーに出品され、展示会を見に来た植木関係者の手に渡った。
こうして日本の桜は、ザ・グレンジから英国各地へ 広まっていった。また、イングラムの桜は大西洋を越えて米国にも渡り、チェリー・イングラムの名は広く知られるところとなった。彼は名実ともに「桜の権威」としての地位を確立したのである。
イングラムは戦前、日本で絶滅したと見られる品種の「太白(たいはく)」を里帰りさせた。これは彼の大きな功績の一つである。太白は大輪一重の品種で、純白の花は直径が5、6センチもある。優雅でひそやかな美しさをもち、イングラムのお気に入りの桜だった。イングラムは桜行脚の際、東京の桜守、舩津静作氏と出会い、太白の絶滅を知らされた。彼は太白が自分の庭園にあることを舩津氏に知らせ、里帰りさせることを約束したのである。
帰英後の1927年、イングラムは太白の穂木を採取し、京都の桜守、第14代佐野藤右衛門氏に船で送ったが、穂木は枯れてしまい、失敗。5年間の試行錯誤を経て、穂木をジャガイモに突き刺してシベリア鉄道経由で送ったところ、成功した。これを佐野氏の息子、第15代佐野藤右衛門氏が接木して、太白は祖国に甦った。
第二次大戦と戦後の英日の桜
欧州では1930年代にきな臭さが増し、39年に第二次大戦が勃発。アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツは大陸欧州諸国を次々に併合した後、英国侵攻を狙っていた。しかし、英国人の頑強な抵抗に遭う。
1940年夏、イングラム邸の桜園の上空では、ドイツ軍と英国軍が激しい航空戦(バトル・オブ・ブリテン)を繰り広げ、被弾した戦闘機がベネンドン村にも墜落。1機はザ・グレンジの正門に激突し、桜園は間一髪で大きな被害を逃れた。
また、戦争後期になると、ドイツ軍は英国に向けてミサイル弾「V1」「V2」を発射。ベネンドン村にも落下して村人5人が犠牲になったが、桜園は生き延びた。
イングラムは戦争中、銃後を守る「ホーム・ガード(国防市民軍)」のベネンドン部隊指揮官に任命され、村のパトロールなどに当たった。しかし、この間もザ・グレンジの屋根裏部屋で桜に関するメモを書きためていった。
左)1940年代半ばごろのザ・グレンジの桜園(イングラム家提供)
右)イングラム氏の著書「鑑賞用の桜」
一方、祖国日本では、別の桜のドラマが進行していた。戦前、イングラムが懸念したように、伝統の桜はどんどん少なくなり、代わって幕末に開発された新しい品種の「染井吉野(そめいよしの)」が国中に広まった。成長が早く経済的で、見栄えの良い染井吉野は、早急な近代化と富国強兵路線が進められる中で、「新生ニッポン」のシンボルとして注目され、各地に植樹された。
染井吉野が大量植樹されたことで、日本の桜の風景は決定的に変わった。染井吉野はクローンであるため、どの樹も同じDNA(デオキシリボ核酸)をもつ。大量植樹の結果、「花が一斉に咲いて、一斉に散る」光景が誕生した。これがやがて軍国主義に利用され、桜の散り際に焦点を当てる風潮が生まれ、国民は「桜のように」潔く国のために死ぬことを奨励された。しかし、敗戦によって桜は滅び、国も破滅する。日本で滅びた桜はイングラム邸で生き延びた。これは驚異的なことであった。
戦後、イングラムは自らの桜研究の集大成である著書「観賞用の桜」を出版した。この本は英国中に「桜ブーム」を巻き起こした。各地で様々な品種の桜並木が作られ、「多様な桜」の風景が広がった。
一方、日本では戦後の復興事業が進むとともに再び染井吉野が大量植樹され、国土を席巻。全国に植樹された桜の約7割(関東地方では9割)までが染井吉野で占められるまでになった。
現代の英日の桜
イングラムは1981年5月、遅咲きの桜の花びらが舞うなか、ザ・グレンジで100年6カ月の人生を終えた。大往生であった。
英国ではイングラム亡き後も、彼の残した桜の伝統が生き続けた。今日、桜は英国中の住宅街に普及し、著名な庭園には例外なく多彩な桜が植樹されている。 桜は王室にも広まり、ウィンザー城の庭園や故エリザベス皇太后の住居の庭にも植樹された。さらに、桜の保存と育成を担う次世代の英国人たちが現れ、強固なネットワークを作っている。
戦後の英国で桜が人気を集めた一方で、大戦中に起きたある出来事が、長い間イングラム家に影を落としていた。イングラムの義理の娘、ダフニーが、従軍看護師として香港で勤務していた1940年、旧日本軍の捕虜となっていたのである。彼女は3年8カ月という長い時間を捕虜収容所で過ごし、過酷な体験をした。
ダフニーと夫のアレスター(イングラムの3男)一家は戦後、イングラム夫妻の近くに住み、夫妻と緊密な関係を築いたが、日本の桜を愛する父親と嫁の間には意識のずれがあった。
ダフニーだけではない。大勢の旧捕虜たちが、戦後も日本と日本人への憎しみを抱き続けた。捕虜問題は「桜イデオロギー」の下で戦われた太平洋戦争の落とし子であり、捕虜たちはその犠牲者であった。
捕虜問題が日英間で大きな政治問題となった1990年代、北海道の桜守、浅利政俊氏の創った新しい「松前桜」が和解に向けてひと役買うことになった。浅利氏は北海道で長年、地道に捕虜の和解問題に取り組み、市民運動を続けてきた経験があり、日本の過去への償いの意を込めて1993年、ウィンザー城の庭園に58種類の松前桜を贈った。「日本軍の行為の犠牲になった方々とその家族に哀悼の意を表したい。新しい日英間の友好関係構築のためにこの桜を大切に育ててほしい」との手紙を添えて。
これらの桜は、立派に成長して現在もウィンザー城庭園の一角に保存されている一方、増殖されて英国中に広まっていった。更に運命の巡り合わせで、子孫の苗木40本が2000年、旧イングラム邸に植樹されたのである。あたかも、浅利氏の真摯な思いが、松前桜をダフニーのつらい体験が刻まれたザ・グレンジへと向かわせたかのように。こうして「償いの桜」はザ・グレンジで成長を続け、イングラム家の「負の歴史」にも和解がもたらされていく。
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大英帝国末期に活躍した園芸家、コリングウッド・イングラムの生涯を追うノン・フィクション。日本の桜の魅力にとりつかれ、明治・大正期の日本に3 度足を運び桜を英国に紹介したイングラムの足跡をたどる。海を渡った桜のドラマを通じて日英の近代史が浮かび上がる。イングラムの救った桜がいかに英国で生き延びたかや、1000年以上に及ぶ日本人と桜の歴史や近代日本で桜が軍国イデオロギーに利用された経緯なども分かりやすく明らかにする。日本語版希望者は£22(本代£20 +郵送料など)にて阿部氏 このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください から購入可。